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証言者は、あなたです  作者: やはぎ・エリンギ


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20/32

「遺書の執筆」

7日目 午後2時〜午後5時 

加奈子が帰ってきた時、柏木は台所にいた。

「ただいま」と加奈子が言った。「お昼、食べた?」と聞いた。「食べた」と答えた。嘘だった。

加奈子は買ってきたものを冷蔵庫に入れ、二階へ上がった。彩の部屋をノックする音が聞こえた。柏木は居間に戻り、ソファに座った。

クローゼットの奥に、袋がある。

その事実が、部屋の空気を変えていた。誰も気づいていない。加奈子も彩も、あの袋の存在を知らない。知らないまま、普通の午後を過ごしている。

柏木は机の引き出しから、便箋を取り出した。

結婚する時に加奈子が買った便箋だった。薄い青色で、端に小さな花の模様があった。一度も使っていなかった。引き出しの奥に、十年以上眠っていた。

ペンを持った。

何を書けばいいのか、分からなかった。遺書というものを書いたことがなかった。書き方を知らなかった。しかし書かなければならないと思った。何も言わずに消えることは、加奈子に対して、彩に対して、できなかった。

書き始めた。

最初の一行に時間がかかった。「加奈子へ」と書いた。それだけで手が止まった。

窓の外で風が木を揺らす音がした。二階から加奈子と彩の声が聞こえた。笑い声だった。何かを話していた。内容は聞き取れなかった。

その笑い声を聞きながら、柏木はペンを動かした。

「ネットの誹謗中傷に、耐えられなくなりました」

書いた後、その言葉を読んだ。正確ではないと思った。誹謗中傷だけが理由ではなかった。十年前の記憶も、五年前の記憶も、あの生徒たちへの後悔も、全部が混ざっていた。しかしそれを全部書く言葉を、持っていなかった。

続けた。

「あなたと彩のことを、ずっと愛していました」

「私がいなくなることで、二人の生活が少しでも楽になるなら、それでいいと思っています」

「彩に、パパは弱かったと伝えてください」

「弱かったけれど、彩のことだけは、誰よりも大切に思っていました」

ペンが止まった。

目が滲んだ。便箋が滲んだ。柏木は目を閉じ、深呼吸した。二階の笑い声が、また聞こえた。

続きを書こうとした。しかし言葉が出なかった。書くべきことは書いた気がした。書き足せば書き足すほど、言葉が嘘になる気がした。

便箋を折り、封筒に入れた。

宛名を書こうとして、やめた。加奈子の名前を書いたら、現実になる気がした。封筒を引き出しの奥に入れた。便箋を買った時と同じ場所に、戻した。

午後三時半、加奈子が降りてきた。

「お茶飲む?」と聞いた。「飲む」と柏木は答えた。加奈子がやかんに水を入れる音がした。柏木は机の前に座ったまま、動かなかった。

「何してたの?」と加奈子が聞いた。

「ちょっと書き物」と柏木は答えた。

「そう」と加奈子は言った。それ以上聞かなかった。

お茶が出た。柏木は両手でカップを包んだ。温かかった。

加奈子が向かいに座った。窓から午後の光が差し込んでいた。加奈子の横顔が、その光の中にあった。

柏木はその横顔を、しばらく見ていた。

見ていた。

目に焼き付けるように、見ていた。


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