「妻の問いかけ」
7日目 午前6時〜午後10時
二時間しか眠れなかった。
目が覚めた時、加奈子はすでに起きていた。台所から物音がした。柏木は体を起こし、寝室の窓から外を確認した。不審な車はなかった。住宅街の朝が、何事もなかったように始まっていた。
台所に行くと、加奈子がコーヒーを入れていた。
「彩は?」と柏木が聞いた。
「まだ寝てる。今日、学校休ませようと思う」
柏木は何も言わなかった。反論できなかった。
朝食は静かだった。彩がいない食卓は広く感じた。加奈子はトーストを半分だけ食べて、残した。柏木もコーヒーを飲んだだけで、食欲がなかった。
午前九時、柏木は学校に電話をかけた。
「今日も休みます」とだけ言った。永田校長は「分かりました。無理しないでください」と言った。その言葉が、かえって重かった。
午前中、柏木は書類を整理した。
引き出しの中にある契約書、通帳、保険証券。整理する必要があったわけではなかった。ただ、手を動かしていないと、考えることしかできなかった。
加奈子は二階にいた。
午後になっても、ふたりはほとんど言葉を交わさなかった。柏木が「昼、何か食べるか」と聞くと、加奈子は「いらない」と答えた。柏木も食べなかった。
夕方、彩が起きてきた。
熱はなかった。顔色は悪くなかった。しかし目に力がなかった。「お腹すいた」と言うので、柏木は冷蔵庫にあるもので炒飯を作った。彩は黙って食べた。「おいしい?」と聞くと、「うん」と言った。それだけだった。
食後、彩はまた部屋に戻った。
加奈子が台所に来て、洗い物を始めた。柏木は隣に立ち、布巾で皿を拭いた。しばらく水音だけが続いた。
「ねえ」と加奈子が言った。
柏木は手を止めた。
「本当に、何もしていないの?」
Ep.11の夜に続く、二度目の問いかけだった。しかし今回は声が違った。あの夜よりも静かで、あの夜よりも深いところから来ていた。怒りではなかった。責めているのでもなかった。ただ知りたかった。信じたかった。信じるための言葉を、夫の口から聞きたかった。
柏木は加奈子の横顔を見た。
窓の外の夕暮れが、加奈子の顔に橙色を落としていた。十二年間、隣にいた顔だった。子供が生まれた夜に泣いた顔だった。喧嘩をして背中を向けた顔だった。
「していない」と柏木は言った。
「今回の動画に、俺は関係していない。誰かが俺を標的にして仕組んだことだと思ってる。五年前のことは、間違いだった。後悔している。でも今回の動画とは別の話だ」
加奈子は洗い物を続けながら聞いていた。
「信じてほしい」と柏木は続けた。「一番信じてほしい相手は、お前だ」
水音が止まった。
加奈子はしばらく動かなかった。それから「うん」と言った。
たった一音だった。しかしその「うん」の重さを、柏木は全身で受け取った。
信じてもらえた、と思った。
同時に、その「うん」がどれほどの努力の上に成り立っているかも、分かった。加奈子はネットの言葉と夫の言葉の間で、何日も揺れ続けていた。それでも「うん」と言った。
夜、彩が寝た後。
柏木と加奈子は居間でテレビをつけたまま、隣同士でソファに座った。会話はなかった。テレビの音だけがあった。
午後十時を過ぎた頃、加奈子の頭が柏木の肩に傾いてきた。眠っていた。
柏木は動かなかった。
肩に伝わる加奈子の体温が、この数日で初めて感じる、確かな温もりだった。テレビの光が部屋を照らしていた。外では何も起きていなかった。
それでも明日が来ることを、柏木は怖いと思った。




