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証言者は、あなたです  作者: やはぎ・エリンギ


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「妻の崩壊」

4日目 午前6時〜午後9時 ※視点:柏木加奈子

夫が居間で眠っていた。

ソファに横向きに倒れ込んで、まだ服のまま寝ていた。加奈子は寝室から出て、その姿を見た。起こさなかった。台所に行き、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。いつもは夫がやることだった。

彩を起こし、朝食を用意し、学校へ送り出した。

その間、柏木は眠り続けた。

加奈子は昨夜の話を、頭の中で何度も繰り返していた。五年前の話。十年前の話。夫が抱えてきたもの。それを今まで知らなかった自分。知らせなかった夫。どちらが正しいとか間違いとか、そういう判断ができる状態ではなかった。ただ、知らなかったという事実が、加奈子の足元に穴を開けていた。

午前九時、スマートフォンを開いた。

開くべきではなかった。分かっていた。しかし手が動いた。夫の名前を検索した。

画面が埋まった。

昨日よりも増えていた。記事、まとめサイト、SNSの投稿。「柏木真司 いじめ教師」という文字列が、何十件も並んでいた。写真が出ていた。夫の顔写真ではなく、学校の外観だった。しかし「この学校に勤務」という文脈で使われていた。

コメント欄を読んだ。

「家族も同罪」という言葉があった。

加奈子は画面を閉じた。閉じて、台所の椅子に座った。窓の外では隣家の犬が吠えていた。普通の朝の音だった。それが余計に、自分のいる場所の異常さを際立てた。

夫が起きてきたのは午前十時過ぎだった。

「ごめん、そのまま寝てた」と言った。加奈子は「うん」とだけ答えた。

夫はシャワーを浴び、着替えて学校へ行った。「今日は早退するかもしれない」と言い残して出た。加奈子はひとりになった。

午前十一時、固定電話のコードを壁に戻した。

すぐに鳴った。

出なかった。鳴り続けた。止んだ。また鳴った。加奈子は台所の椅子に座ったまま、電話が鳴るたびに肩が竦むのを感じた。体が勝手に反応した。止めようとしても止められなかった。

昼過ぎ、インターホンが鳴った。

画面を確認すると、知らない男がカメラに向かってスマートフォンを向けていた。撮影していた。加奈子は応答しなかった。男はしばらく玄関前に立ち、やがて立ち去った。

夫の言っていた「YouTuber」というものだろうか。画面越しに見た男の顔は、楽しんでいるように見えた。

加奈子は二階に上がり、彩の部屋のカーテンを閉めた。一階に戻り、居間のカーテンも閉めた。台所の窓も閉めた。昼間なのに、家の中が暗くなった。

暗い部屋の中で、加奈子は夫のことを考えた。

十二年間、一緒にいた。子供が生まれ、家を買い、喧嘩もして、仲直りもした。知っているつもりでいた。しかし昨夜聞いた話の中に、加奈子が知らない夫がいた。臆病で、保身を選び、子供を見捨てた過去を持つ夫が。

信じたかった。

信じたい気持ちは本物だった。夫は反省していた。後悔していた。それも本物だと思う。しかしネットに書かれた言葉が、頭の中で繰り返された。「いじめ教師」「隠蔽」「家族も同罪」。

否定したい言葉ほど、なぜか深く刺さる。

午後三時、彩が学校から帰ってきた。

「ただいま」と言った声が、いつもより小さかった。加奈子が「おかえり、どうだった?」と聞くと、彩は少し間を置いてから「ふつう」と答えた。

その「ふつう」の重さが、加奈子には分かった。

夕方、加奈子は洗い物をしながら泣いた。声は出さなかった。蛇口の音に混ぜて、静かに泣いた。何に対して泣いているのか、自分でもはっきりとは分からなかった。怖かった。悲しかった。怒っていた。疲れていた。それらが一緒くたになって、蛇口の音の下に流れていった。

午後九時、夫が帰ってきた。

「今日、どうだった」と夫が聞いた。

加奈子はしばらく黙った後、「ねえ」と言った。

「本当に、何もしていないの?」

夫の顔が、かすかに歪んだ。


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