「過去の傷」
3日目 深夜1時
彩の泣き声が止んだのは、深夜零時を過ぎた頃だった。
加奈子が娘の部屋に入り、しばらくして出てきた。「やっと寝た」とだけ言い、寝室に戻った。柏木に向ける言葉は、それだけだった。
居間にひとり残された。
電話は深夜になっても散発的に鳴り続けた。柏木は固定電話のコードを壁から抜いた。静寂が戻った。しかしその静寂は、安堵ではなく空白だった。音がなくなっただけで、何かが解決したわけではない。
五年前のことを、また考えた。
いや、正確には五年前ではない。最初の記憶は十年前に遡る。
柏木が教師になって三年目の春だった。担任を持つのは二度目で、ようやく仕事の輪郭が見えてきた頃だった。クラスに、目立たない男子生徒がいた。名前は書かない。ただ、彼はいつも教室の隅に座っていた。昼休みも席を離れず、弁当を黙って食べていた。
柏木は気づいていた。
彼の靴が、何度もロッカーの中で逆さまになっていた。体育の授業で、誰も彼とペアを組もうとしなかった。提出物に落書きがあった。証拠と呼べるほどのものではなかった。しかし教師として十分に感知できる異変が、そこにあった。
柏木は動かなかった。
声をかけようとした。何度も。しかし踏み込むタイミングを測り続けるうちに、学期が終わった。翌年、その生徒は転校した。転校の理由を、柏木は確認しなかった。確認する勇気がなかった。
それが十年前の話だ。
五年前は、別の生徒だった。
今度はより明確だった。複数の生徒による、特定の一人への継続的な無視と嘲笑。被害を受けていた生徒が、柏木に直接相談してきたことが一度あった。放課後の廊下で、おずおずと声をかけてきた。柏木は「分かった、話を聞く」と答えた。
翌日、加害側の生徒のひとりの保護者から電話があった。
「うちの子が担任に目をつけられていると聞きました」という内容だった。声は穏やかだったが、圧があった。その保護者は地域の有力者で、PTAの役員でもあった。柏木は「誤解です」と答えた。
その後、被害を受けていた生徒に「もう少し様子を見よう」と言った。
様子を見ている間に、その生徒は学校に来なくなった。
退学ではなかった。転校でもなかった。ただ来なくなった。柏木は家庭訪問を一度した。玄関先で母親と短く話した。生徒本人には会えなかった。それ以降、柏木は動かなかった。
管理職への報告も、加害側への指導も、徹底しなかった。
なぜか。
臆病だったからだ。面倒を避けたかったからだ。保護者との摩擦を恐れたからだ。自分のクラスが「問題クラス」と呼ばれることを恐れたからだ。そういう理由が、重なっていた。後から整理すれば分かることが、その時の自分には霧の中にあった。
しかし霧の言い訳は通じない。柏木はそれを知っていた。
居間の時計が深夜一時を指していた。
窓の外は静かだった。住宅街の深夜は、何事もなかったような顔をしている。
柏木は両手で顔を覆った。指の間から、居間の薄暗い天井が見えた。
自分が裁かれるべき人間かどうか、分からなかった。しかし裁かれても仕方がない何かを持っている人間であることは、否定できなかった。
ただ、それを理由に、妻が眠れない夜を過ごしていいわけがない。娘が泣いていいわけがない。
二つの感情が、胸の中で解けずに絡まっていた。
時計の針が動いた。深夜一時一分。
柏木は顔から手を離し、暗い天井をただ見上げた。




