「深夜の投稿」
午前二時十七分。カーテンを引き切った六畳間に、ディスプレイだけが青白い光を放っていた。
机の上にはコーヒーの缶が三本、すでに空になって転がっている。キーボードに触れる指先は冷えきっていた。体温が下がっているのに、額だけが汗ばんでいる。
「私」は画面を見つめた。
動画投稿サイトのアップロード完了ボタン。マウスカーソルがその上で静止している。クリックひとつ。たったそれだけの距離が、今夜ほど遠く感じられたことはなかった。
動画の尺は四分十二秒。暗い画角。声だけが流れる。抑揚のない、低い声で、「私」が語った内容は単純だった。
——私は七日後に人を殺します。
それだけだった。顔は映っていない。場所も名前も伏せてある。ただその一文を、淡々と、まるで天気予報を読み上げるように告げるだけの映像。
なぜ投稿しようとしているのか、自分でも完全には分かっていなかった。
誰かに知ってほしかったのかもしれない。届けたかったのかもしれない。それとも、ここまで積み上げてきた怒りの重さを、どこかに降ろしたくて、この形を選んだのかもしれない。
ここ数年で世界が変わったと思う。正確に言えば、世界の見え方が変わった。人は匿名になると別の生き物になる。画面の向こうで、名前も顔も持たない誰かたちが、言葉を武器にして他者を傷つけても、傷つけた事実そのものを認識しないまま生きていく。その光景を何度も見てきた。
傷ついた人間を「私」は知っている。具体的に、肉体を持った、呼吸する人間として、知っている。
それが今夜の出発点だった。
静寂の中で、エアコンが低く唸っていた。アパートの廊下を誰かが歩く足音が、かすかに天井を通り抜けていった。深夜の生活音は、孤独を際立たせるためにある。
マウスを握る手が微かに震えた。
後悔するかもしれない、という考えが頭を過ぎる。しかしその感覚はすぐに沈んだ。後悔よりも先に、五年越しで積み上がってきたものの重みがある。その重みに比べれば、マウスを動かす筋肉のためらいは軽すぎた。
クリックした。
アップロードバーが伸びる。一秒、二秒。回線の細い深夜に、四分超の動画が少しずつ送信されていく。
完了の通知が画面に浮かんだ。
「私」はしばらく動かなかった。何かが変わった気がした。あるいは何も変わっていないのかもしれない。ただ、デジタルデータとして世界のどこかのサーバーに乗った言葉が、今この瞬間から、「私」の手を離れて存在し始めた。
部屋の静けさは変わらなかった。エアコンが唸り続けている。外では都市が眠っていた。
ディスプレイを閉じる気にはなれなかった。
画面の向こうで何かが動き出すまで、見ていようと思った。最初のコメントが付くまで、最初の誰かが「見た」という痕跡を残すまで、この部屋で待っていようと思った。
時刻は午前二時二十九分になっていた。
「私」は缶コーヒーをもう一本、引き出しから取り出した。プルタブを引く音が、静まり返った夜に小さく響いた。




