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第2話「雨の森と、腹ペコの白い犬」

 王都を離れて10日が過ぎた。

 景色はいつの間にか、整備された石畳の道から、うっそうとした森の獣道へと変わっていた。


 北の辺境を目指す旅は、過酷なものだった。

 乗り合い馬車を使う金はあったが、俺はあえて徒歩を選んだ。森の中で野草を見分け、手ごろな獲物を狩り、野営をする。その感覚を取り戻したかったからだ。


 宮廷の厨房は快適だったが、どこか現実感がなかった。

 雨風にさらされ、泥にまみれる今の方が、よほど生きている実感が湧く。


「……とはいえ、降りすぎだな」


 俺は巨木の下で雨宿りをしながら、空を見上げた。

 今日の雨はしつこい。朝から降りやむ気配がなく、体温がじわじわと奪われていく。


 腹が、鳴った。

 ぐうう、と低い音が森に響く。


 昼飯時だ。

 幸い、さっき仕留めたばかりの「ホーンラビット」が1羽、腰のベルトにぶら下がっている。

 角の生えたウサギ型の魔物だ。肉質は鶏肉に似て淡白だが、ほどよい弾力があって美味い。


「少し早いが、休憩にするか」


 俺は雨の当たらない岩陰を見つけ、慣れた手つきで火をおこした。

 湿った薪でも、ナイフで細かく削って空気を含ませれば、すぐに火が付く。


 パチパチと焚き火が燃え上がると、周囲の空気がふわりと温んだ。

 まずはホーンラビットの解体だ。


 逆さに吊るし、血抜きは済ませてある。

 ナイフを首元に入れ、皮を剥ぐ。手袋のようにするりと皮が剥ける感触は、いつやっても気持ちがいい。


 内臓を取り出し、食べられる肝と心臓を分ける。残りは土に埋める。血の匂いは他の魔物を呼び寄せるからだ。


 肉をぶつ切りにし、串に刺す。

 塩を振り、焚き火の遠火にかざす。


 じりじりと脂が溶け出し、表面がきつね色に変わっていく。

 淡白な香りが、次第に濃厚な肉の匂いへと変化する。


 その時だった。


 ガサリ。

 背後の茂みが揺れた。


 俺は反射的に串を持ったまま振り返り、もう片方の手でナタの柄を握った。

 魔物か。それとも盗賊か。


 茂みから顔を出したのは、真っ白な犬だった。

 いや、犬というには大きすぎる。体高は俺の腰ほどもあるだろうか。

 全身が雪のような長い毛に覆われているが、雨に濡れてみすぼらしく萎んでいる。


 そして何より、ガリガリに痩せていた。

 あばら骨が浮き出て、今にも倒れそうだ。


「…………」


 白い犬は、俺を見るなり足を止めた。

 金色の瞳が、俺の手元――串に刺さったホーンラビットに釘付けになっている。


 敵意はない。あるのは純粋な、強烈な食欲だけだ。

 口の端から、よだれが垂れている。


「……腹が減ってるのか?」


 俺が声をかけると、犬はビクッと体を震わせた。警戒しているようだ。

 だが、肉の匂いには勝てないらしい。一歩、また一歩と近づいてくる。


 俺はふっと笑った。

 腹を空かせた奴を放っておけるほど、俺は落ちぶれていない。


「食うか」


 俺は焼き上がったばかりの串を1本、犬の足元へ放ってやった。

 泥の上に落ちる前に、白い影が疾走した。


 パクッ、と白い影が肉を空中で捉えた。

 着地と同時に、噛む間もなくのみ込む


「クゥン……」


 もっとくれ。

 そう言わんばかりに、犬は濡れた瞳で俺を見上げてきた。尻尾が控えめに揺れている。


「しょうがないな」


 俺は苦笑し、残りの肉もすべて火から下ろした。

 自分の分がなくなってしまったが、まあいい。

 この犬の痩せ方を見るに、数日はまともに食べていないのだろう。


 皿代わりの大きな葉っぱの上に肉を並べ、差し出す。

 犬は俺の手を警戒しながらも、猛然と肉に食らいついた。


 ガツガツガツ。

 あっという間に肉の山が消えていく。


 見ているだけで気持ちのいい食いっぷりだ。

 王宮の貴族たちのように、ちまちまとナイフで切り分けたりしない。

 命を、そのまま体に取り込んでいる。


「まだあるぞ」


 俺は取り分けておいた内臓――ハツ(心臓)とレバーを串に刺し、さっと炙って差し出した。


 犬はそれも一瞬で平らげ、最後に俺の手のひらを舐めた。

 ざらりとした舌の感触。

 体温が伝わってくる。


「満足したか?」


 俺が頭を撫でようとすると、犬は逃げなかった。

 ふかふかの毛並みの中に、骨のごつごつした感触がある。

 もっと食わせてやりたい。料理人としての本能がそう思った。


 その時、犬の体がぼんやりと光り始めた。


「なっ……?」


 俺が驚いて手を引っ込めると、光はすぐに収まり、そこには先ほどよりも一回り体が大きくなり、毛並みが艶やかになった犬が座っていた。


「美味かったぞ、人間」


 頭の中に、直接声が響いた。

 低く、威厳のある、けれどどこか幼さの残る女性の声だ。


「しゃ、喋った……?」


「我は誇り高きフェンリル……の名を継ぐ予定の者だ。名はルルという」


 フェンリル。

 お伽話に出てくる、神さえ食らうという最強の魔獣ではないか。


 俺は思わず腰を抜かしそうになった。

 だが、目の前のルルは、満足げに口の周りを舐め、大きくあくびをした。


「久しぶりの固形物だった。お前の焼く肉は、不思議な力が満ちているな」


「……ただのホーンラビットだぞ」


「素材ではない。焼き方だ。火の通し方が絶妙で、肉の持つきらめきを殺していない。気に入った」


 ルルは当然のように俺の足元に丸くなり、あごを乗せてきた。


「これから、我の専属料理人にしてやる。光栄に思え」


「はあ?」


「ついていくぞ、どこまでも。もっと美味い肉を食わせろ」


 どうやら俺は、とんでもないものを拾ってしまったらしい。

 王宮を追い出されたと思ったら、今度は伝説の魔獣に餌付けを強要されるとは。


 だが、悪い気はしなかった。

 俺の料理を、これほど正直に「美味い」と態度で示してくれる客は、久しぶりだったからだ。


「……好きにしろ。ただし、食費は自分で稼げよ」


 俺がつぶやくと、ルルは嬉しそうに尻尾で地面を叩いた。

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