大寝所の黒い影(三)完
この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。
怪異に翻弄された一夜だったが、最後にはいくらか眠ることができた。 黄郁佑は、人生で初めて軍隊の朝の訓練(操課)をこれほど嬉しく感じていた。
引率の中士(二等陸曹)は、昨日着任した時は病弱そうな兵だと聞いていたのに、今朝の郁佑がやけに生き生きとしているのを見て驚いていた。 阿江も不思議に思い、朝の運動を終えて駆け足の整列準備をする際、郁佑のそばに忍び寄って様子を伺った。
「おい、新人! 俺のことを覚えてるか?」 走りながら、阿江が郁佑の肩を叩いた。
「先輩! 何か御用ですか?」 「お前、体は大丈夫か?」 「は、はい! 絶好調です。汗を流して、太陽を浴びて、大勢で訓練するのって最高ですね」 「ははっ! 何言ってやがる、気持ち悪い奴だな」
息を切らしながら答える郁佑を見て、阿江は笑いながらも内心ほっとしていた。 (輔導長室に泊まらせて、何もなくてよかったぜ……)
昨夜、蚊帳を吊りながら、郁佑に護符を渡し忘れたことを思い出していた。 それは「陰陽八卦」が描かれた小さな護符で、この連隊の兵士は皆、身を守るために携帯しているものだ。
本当なら渡しておくべきだったが、昨日は早く政戦に押し付けてしまいたい一心で、新兵の面倒など自分には関係ないと思っていたのだ。だが、いざ寝る段階になると、気になって仕方がなかった。
第一中隊(一連)の斉瑋からは何も聞いていないが、なぜあの部屋は施錠されていたのか? 斉瑋も理由は知らない。ただ、他部隊へ転属した前任の輔導長がこう言い残したという。 「あの部屋は必ず施錠しておけ、さもなければ自己責任だ」
太陽の下にいるというのに、阿江は冷や汗を覚えた。この青土山営舎には、一体どれほどの秘密と幽霊が隠されているのか。 自分は霊能力者ではない。彷徨える魂を成仏させるつもりなど毛頭なく、無事に除隊できればそれで御の字(阿弥陀仏)なのだ。
とりあえず、この新兵が無事だったのならそれでいい。 阿江はそんな安堵感を抱いて駆け足を続けていたが、ふと、自分が以前金縛りに遭った時のことを思い出した。あの時、聞こえた声は……。
「ヒッ……ヒッ……ヒッ……ヒッ……」
「ん?」
その声が、今、耳元で聞こえたような気がした。
「気のせいか……?」
落ち葉を掃いていた阿江は、今朝の空気がいつもより冷たく感じられた。
午前中のうちに、柯一等陸尉は、自分が連えてきた新兵の郁佑が嘘をついていなかったことに気づいた。彼の態度は非常に優秀だった。 朝の運動に精力的に取り組むだけでなく、点呼の前には自分のベッドと私物棚(内務櫃)を完璧に整え、あの毛布(棉被)に至っては、定規で測ったような見事な「豆腐型」に畳んでいたのだ。
だが、そんなことは重要ではない。 柯一尉が知りたいのは、昨夜、孫大隊長をあの部屋へ誘い込んだ後、一体何が起きたのかということだ。 他の兵たちが公差(作業)へ出払った隙を突き、中山室に残った郁佑のもとへ、期待を込めて歩み寄った。
「昨夜はよく眠れたかな?」
背後からの声に、郁佑は肩を跳ねさせた。振り返ると自分の部隊の輔導長だったので、安堵のため息を漏らした。
午前中の活動を通じて、郁佑はこの青土山営舎が狭い割に、見張り場所(哨所)が多いことに気づいた。 営舎中央にある地図を確認すると、全部で十二もの哨所が存在していたのだ。驚いたのは数の多さではなく、自分たちの第二中隊を見渡しても、下士官兵合わせて五十人にも満たないという事実だった。
朝食の際、唯一の知り合いである阿江先輩にその疑問をぶつけてみた。 阿江は饅頭をかじり、豆乳を飲みながら、適当に答えた。
「立哨か? 安心しろ、全大隊で実際に立っているのは六カ所だけだ。いくつかはとうの昔に廃止されてる。そもそも全大隊で二百人もいない兵力で、十二カ所も回せるわけがないだろ。お前はまだ来たばかりの『菜鳥(ツァイニャオ:新人)』なんだから、今週中に哨番が回ってくることはないさ」
そんな会話を遮るように、背後で騒ぎが起きた。隣にある第一中隊のテーブルだ。 一人の下士官(下士)が、熱を込めて怪異体験を語っていた。
「本当なんだって! 嘘じゃない! 昨夜、大隊長閣下が突然うちに現れたんだ。中隊長たちもいた。第二中隊の柯一尉が『新兵があそこに寝てます』って言った途端、閣下が部屋へ入ろうとしてな……俺が鍵を開ける暇もなく、ドアが開いたんだ!」
(第一中隊の輔導長室……?) 阿江が呟く。下士の話は続く。
「ありえないと思ったよ。勇気を出して網戸越しに覗いたら、ドアノブに貼ってあったお札が真っ黒な灰になってて、銀色のノブが剥き出しになってたんだ……。怖くなってすぐに席に戻ったけど、一番恐ろしいのはその後だ!」
「突然、あの部屋から黒い影が飛び出してきて、壁を突き抜けていったんだ! 俺は確かに見た! 幽霊が部屋から逃げ出すのをな! それからしばらく、大隊長閣下もあの新兵も出てこなかった。中で何が起きてたんだか……」
一連の下士の話を聞き、周囲の兵たちが一斉にざわつき始めた。声が大きくなりすぎて、班長から注意が飛ぶほどだった。
阿江は郁佑をじっと見つめた。その目は「昨夜、何もなかったなんて言わせないぞ」と語っていた。郁佑は気まずそうに苦笑いするしかなかった。
「昨夜、お前一体何を……」 「先輩、昨夜のことは話すと長くなるっていうか……あ、あの、豆乳のおかわり取ってきます!」
郁佑は逃げ出した。阿江の視線から逃れたかったのだ。
話したくないわけではない。ただ、どう話せばいいのか分からないのだ。 金縛りに遭い、大隊長が現れた途端に場の空気が一変し、幽霊を物理的に引きずり出した……なんてこと、誰が信じてくれるだろう。
孫大隊長は幽霊を一切信じず、あれを「迷い込んだ動物」だと言い張り、その手で影を掴み、挙句の果てに投げ捨てた。さらに不可解なのは、長官に影が見えている時と、見えていない時があることだ。
だが、今は「見える・見えない」の問題ではない。 初日から「大隊長」という巨大な蜂の巣を突いてしまい、特別に目をつけられてしまったことだ。
もし阿江先輩に真実を話してしまえば、大隊長だけでなく、中隊全体から「厄介な新兵」として浮いてしまうかもしれない。平穏な軍隊生活を送るために、郁佑は心の中で阿江に謝った。
柯一尉に対しても同じだ。士官に話せば、事態はさらにややこしくなる。 郁佑は柯一尉の問いかけに適當に頷いて誤魔化すと、視線を落として銃の手入れを続けた。
「『本当になんでもない』……か。新兵の黄郁佑、新しい部隊に来て早々、嘘をつくのは感心しないな」
「柯一等陸尉……ほ、本当になんでもありませんって」
「さっき大隊長閣下に呼び出されてな。お前をしっかり『教育』しろと言われたよ。お前が『新兵症候群』で、幽霊を見たとかデタラメを閣下に吹き込んだとな。……私が怪談を教えすぎて、幻想でも見たか? だとしても、よりによって閣下にまで迷惑をかけるとはな」
郁佑は思わず声を荒らげた。 「デタラメじゃありません! 本当に幽霊を見たんです! 昨夜、僕は確かに金縛りに遭って、あの黒い影が僕を押し潰そうとしていた。それに、閣下が……閣下が、あの化け物を投げ飛ばしたんだ!」
「ほう。……どうやら、面白いことが起きたようだな」
「あ……」
柯一等陸尉は郁佑の肩を叩き、狡猾な笑みを浮かべた。 「では、黄郁佑二等兵。詳しい話を私に聞かせてくれないか。……頼、む、ぞ?」
郁佑の顔が絶望に歪んだ。首を横に振るが、柯一尉は涼しい顔で続けた。 「話さないなら、お前が『管理教育に従わない不届き者』だと閣下に報告してもいいんだぞ?」
それは明白な脅しだった。郁佑は屈服するしかなかった。
「結論から言えば、お前が遭遇したのは恐らく『餓鬼道』の第十五種――**『疾行餓鬼』**だろうな」
柯一尉は持ち歩いている手帳をめくり、郁佑に説明を始めた。
「この鬼は、多くの場合『黒い影』のような形をしていて、唇だけが鮮血のように赤い。這いずる時に狡猾な笑い声を上げるのが特徴だ。……その声を聞いてしまった者は、鬼に憑かれる。つまり、わざと声を聞かせてお前を誘い込んだわけだ」
「……」
「疾行餓鬼は生前、足にまつわる因縁で死んだ者が成る。走ることに執着しているからな。……下手をすれば、お前の両脚を奪いに来るかもしれないぞ」
郁佑は昨夜の出来事を包み隠さず話した。柯一尉はその説明を聞きながら、時折不気味な笑みを浮かべる。それが郁佑にはひどく不快だった。
「……ところで、なぜ孫大隊長にあの影が見えなかったのか、その理由は分かるか?」
「なぜですか?」 郁佑もそれが疑問だった。あの疾行餓鬼は、間違いなく閣下のすぐ数センチの距離にいたのだ。
「**『八字』**を知っているか?」
柯一尉は手帳のメモを郁佑に見せた。そこには孫大隊長の本名と生年月日、さらには生まれた時間までが記されていた。郁佑は、この輔導長が一体どこからそんな個人情報を手に入れたのかと戦慄した。
「孫大隊長の八字は『七両』――俗に言う『八字が重い』体質だ。その上、陽気が凄まじく強く、五行は『火』に属している。三代続く軍人家系という血筋もあって、そもそも幽霊が見えるはずがない体質なんだ。……だが、どれほど八字が重い人間でも、この青土山のような『陰地』に入れば、幽霊に遭遇する確率は上がる。あれほどの近距離で全く気づかないというのは、血筋以外にも何か理由がありそうだな」
「な、なら僕は……? 輔導長の手帳にある計算だと、僕の八字も軽くはないはずですよね?」
「ああ、お前はそれとは関係ない。**『生まれつき』**見える体質なんだよ」
「えええええっ!?」
「しかも、あの鬼にお前は憑かれたようだ。自業自得だな」
「ま、待ってください! 柯一尉! 僕はどうすればいいんですか? 阿江先輩には魔除けの札をあげたって聞きました。僕にも一枚……」
「札はお前には効かないよ。それよりも、私に提案がある……」
その夜、郁佑は言いつけ通りに大隊長室へ出頭した。 だが、孫大隊長の表情は優れなかった。新兵を諭し、怪力乱神な考えを改めさせようと思っていた矢先、なぜか第二中隊の柯一尉がそこに居合わせていたからだ。
「柯魁晉、貴様を呼んだ覚えはないぞ」
「閣下、我が部隊の兵士が不祥事を起こしたとなれば、輔導長として放ってはおけません」
「フン、いいだろう。……で、報告とは何だ。幽霊がどうのという寝言なら、今すぐ叩き出すぞ。この新兵に余計なことを吹き込むなと言ったはずだ」
郁佑が「あれ? 大隊長が呼んだんじゃなかったの?」と疑問を抱くより早く、柯一尉が郁佑の口を封じた。
「黄二等兵から聞きました。閣下は昨夜、第一中隊の輔導長室で……全身が真っ黒な……『生物』をご覧になったとか?」
「幽霊……ですよね……?」 柯一尉の手を振り払って郁佑が口を挟むが、閣下の鋭い眼光に射抜かれ、すぐに首を込めた。
「それがどうした。あの黒い蛇を捕まえたとでも言うつもりか?」
「いえいえ閣下、私にそんな大層な芸当はできません。そもそも私は蛇やトカゲの類は苦手でして。……ですが、この新兵も青土山に来る前に変な怪談を聞きすぎて混乱しているのでしょう。……いっそ、現場へ連れて行き、その『正体』をはっきりと見せてやればいい。そうすれば妄想も消え、他の兵たちの不安も解消されるはずです。……いかがです? 閣下。悪い案ではないと思いますが」
柯魁晉が言い終えるやいなや、郁佑は目を見開き、呆然と彼を凝視した。 ここへ来る前、柯一等陸尉は「協力して大隊長を現場へ連れ出しさえすればいい」と言っていたはずだ。それなのに、今の話では自分もその泥沼に飛び込むことになっている。話が違う。
郁佑の頭に一気に血が上った。この男、自分を弄んで楽しんでいるだけではないか。 彼は柯一尉を突き飛ばすと、叫ぶように言い放った。
「あれは幽霊です! 蛇でも生物でもない! 二人とも分かっているくせに、認めようとしないだけだ! そうですよ、僕は幽霊が怖いんです! 幽霊探しなら勝手に二人でやってください! 報告します、大隊長閣下、柯一等陸尉! 二等兵・黄郁佑はこれより寝所に戻り、内務整理ののち点呼に参加します!」
直立不動で敬礼を叩きつけると、郁佑は口を尖らせて大隊長室を飛び出した。
「待て!」
孫大隊長はベッドに放り出していた上着を掴んで羽織ると、不遜な態度をとった新兵を連れ戻そうと部屋を出た。柯一尉もその後を追う。大隊長は彼を一瞥し、忌々しげに吐き捨てた。 「貴様までついてきてどうする。これ以上問題を増やすな。貴様もあの新兵も、後で処罰の対象だぞ!」
「閣下、処罰など恐れてはいませんが、これだけは言っておきましょう」 柯一尉は淡々と続けた。
「今、兵たちは食事のために食堂に集まっており、第二中隊(二連)の階には誰もいません。閣下がどれほど否定しようと、青土山の噂は耳にしているはずだ。貴様には見えず、信じられないかもしれない。だが、信じている者にとって、幽霊はこの世に確実に存在しているのです。……もし新兵一人も御せないようでは、誰も貴様を真の大隊長とは認めませんよ、孫閣下」
「貴様……」
言い返そうとした大隊長の言葉が詰まった。なぜこの柯という男に、自分の痛いところを正確に突かれるのか。 二人が連舎へ向かうと、柯一尉の言葉通り、建物内には安全士官(安官)以外の人影はなかった。
「だ、だ、大隊長閣下、お疲れ様です!」
第一中隊の安官は、上官が不在の隙に隠れて本を読んでいたところだった。突如現れた大隊長に驚き、本を放り出して飛び起きた。大隊長は彼を無視し、あの施錠された輔導長室へと向かう。安官の心臓が跳ねた。まさか、またあの日と同じことが起きるのか。
「安官、この部屋は施錠されているのか?」 「ほ、報告します! 新しい輔導長が着任していないため、鍵は事務担当(政戦)が保管しております!」 「事務を呼び戻せ。今すぐ開けさせる」
安官が慌てて内線電話(三七機)を手に取ったその時、柯一尉が口を挟んだ。 「閣下、黄郁佑を探しているのなら、あの中にはいないでしょうね。……そうだろう、安官?」 「黄郁佑?」安官が怪訝そうな顔をする。 「今、一人の兵が中隊へ駆け戻ってこなかったか?」 「駆け戻って……? ああ、確かに第二中隊の兵が一人……」
「うわぁぁぁぁぁ!!」
その時、上階から凄まじい叫び声が響き渡った。 一階の営部連の安官が様子を見に来るほどの轟音だった。大隊長、柯一尉、そして安官の三人は同時に階段を駆け上がった。
二階の角を曲がった先には、本来ならデスクに座っているはずの安官がいるはずだった。だが、そこには誰もいなかった。
(第二中隊の安官はどこへ行った!?)
「安官はどうした! 持ち場を離れて何を……おい、第二中隊安官!」 大隊長が鋭い声を張り上げたが、応答はない。 孫大隊長は真っ暗な大寝所へと踏み込んだ。壁のスイッチを押したが、照明は全く反応しない。
(故障か?)
大隊長は腰のベルトから懐中電灯を引き抜き、闇の中を照らした。 光の輪の中に、蠢く黒い影と、押し殺したような呻き声が浮かび上がった。 大隊長が音の正体へ光を向けると、そこには床に押し倒され、組み伏せられている郁佑の姿があった。
またあの黒い怪異か——そう思ったが、光が近づくにつれ、大隊長は驚愕した。 郁佑を押し潰していたのは黒い影などではなく、血の通った「人間」だったのだ。 その男は郁佑の首を全力で絞め、下になった郁佑は必死に足掻きながら、大隊長に助けを求める視線を送っていた。
「何をしている! 離せ!」
大隊長はライトを投げ捨て、二人に向かって突進した。郁佑の首に食い込んだ両手をこじ開けようとしたが、相手の力は尋常ではなく、指一本動かせない。大隊長が全身に力を込め、腕に青筋を立てて引き剥がそうとしたその時、相手の腕に巻かれた「安全士官」のアームバンドが目に入った。
第一中隊と営部連の安官も寝所に駆け込み、ライトで現場を照らした。 二人はその異様な光景に立ち尽くし、言葉を失った。
「何を見ている! さっさと助けに入らんか!」
大隊長の怒号で我に返った二人が加勢し、ようやく三人がかりでその男を郁佑から引き剥がし、床に投げ飛ばした。 その時、営部連の安官が、ライトの先に倒れている男の顔を見て息を呑んだ。
「これ……こいつは、俺たちの知り合いだぞ……!」
「阿江……?」
「ヒッ……ヒッ……ヒッ……ヒッ……」
床に倒れた阿江は全身を激しく震わせ、見開いた両目からは生気が失われていた。口角からは絶え間なく白沫が溢れ出し、喉の奥からは人間の、ましてや男のものとは思えない、高く鋭い女の笑い声が響き続けていた。
激しく咳き込みながら、郁佑は床から這い上がった。 もとはと言えば、腹を立てて一人で三階に戻ったのが始まりだった。誰もいないはずのフロアに、なぜか阿江先輩が安官として立っていたのだ。郁佑が戻った理由を誤魔化そうとして寝所に逃げ込んだ際、阿江は血相を変えて追いかけてきた。
「おい、待て! 今は大寝所に入るな!」
その静止を聞く前に、郁佑は中に入ってしまった。阿江もそれを追って飛び込んできた――。
「大丈夫か?」 いつの間にか隣に立っていた柯一等陸尉が、郁佑に声をかけた。 「……今、お前の目には阿江がどう見えている?」
「真っ黒な塊です。昨日の輔導長室の時と同じ影が、阿江先輩を丸ごと包み込んで……顔も判別できないくらいに」
「私が何を見ているか、聞きたいか?」 郁佑が頷くと、柯一等陸尉は淡々と言った。 「私には、何の影も見えない。阿江はただの阿江だ。だが、感じる。これは癲癇などではない。……『中邪(ジョンシエ:憑依)』だ」
「中邪だと? ふざけるな!」 孫大隊長の怒号が響いた。 「四の五の言わずに病院へ運べ! 人命がかかっている時に、幽霊だの何だのと寝言を抜かしおって! どけ、私が担いでいく!」
激昂した大隊長が阿江を抱え上げようとした瞬間、柯一等陸尉が大隊長の腕を掴んで制止した。罵声を浴びせようとする大隊長の手を、柯一等陸尉は強引に郁佑の右腕――あの刺青の箇所へと押し当てた。
「なっ……何だ、この黒い物体は!」
「黒い物体? ……閣下、見えるんですか!?」 驚愕する郁佑に、大隊長は険しい顔で頷いた。柯一等陸尉は冷静に分析を続ける。 「理由は分かりませんが、何者かがこの阿江という兵に細工をしたようです。本来、郁佑を狙っていた怪異が彼に乗り換えた。影は外に出ようとして閉じ込められ、阿江の体を操って目的を果たそうとしているのでしょう」
「目的……?」郁佑が問う。 「お前を『替死鬼(タイスーグイ:身代わり)』にして、あの世へ連れて行くことだ」
柯一等陸尉の言葉に、郁佑は息を呑んだ。 「どうすればいいんですか……?」 安官の一人が怯えながら聞くと、柯一等陸尉は首を横に振った。 「分からん。これを引きずり出すには相当な道術が必要だ。私のような半端者には無理だが……このままでは阿江の命が持たない。……ん?」
言い終わらぬうちに、孫大隊長が宙に向かって何かを掴むような動作をした。 他の安官たちの目には、大隊長が空に向けて拳を突き出しているようにしか見えなかったが、郁佑には分かった。大隊長はその剛腕で、あの黒い塊を無理やり掴み取ったのだ。
「何が見えるかって? ……この黒いゴミを引きずり出そうとしているだけだ!」
昨日と同じだ。大隊長は一切の躊躇なく、その影の中に手を突っ込むと、心臓部を掴むようにして上方へと引き揚げた。 阿江の口から、耳を裂くような高い叫びが上がる。郁佑の目には、阿江の体から、ねじれた黒い影が引き剥がされる光景が映っていた。 その影はもはや女の形すら留めておらず、赤と黒が混ざり合った、ヘドロのような悍ましい色をしていた。
その見た目、臭い、そして肌に触れるような不快感――。 郁佑は強烈な吐き気に襲われ、何度も嘔吐を繰り返した。
「見えるんだな、こいつが」 大隊長が汗だくの郁佑に問う。郁佑は荒い息をつきながら頷いた。
「私は幽霊など信じない。この四足歩行のバケモノを幽霊だと言われても、到底信じる気にはなれん。……どんな手を使ってこれを見せているかは知らんが、解決法も知らん。だがな……この野郎!」
大隊長は掴み上げた黒い塊を、渾身の力で床に叩きつけた。影は液体のように飛び散ったが、すぐに蠢き始め、倒れた阿江と郁佑の方へ這い寄ろうとする。
「ふん! 二度も逃がすかよ!」 孫大隊長が軍靴で影を踏みつけると、怪異は物理的に固定され、動けなくなった。
「郁佑、これをその『見えているもの』に巻き付けろ。隙間なく貼り付けるんだ」 柯一等陸尉が、経文の書かれた「紙の縄(紙縒り)」を差し出した。大隊長が怪異を抑えている間に、安官に命じて部屋から取ってこさせた材料で作ったものだ。
郁佑と大隊長がその紙縄で物体を縛り始めると、影はさらに凄まじい絶叫を上げた。 「阿江! 大丈夫か!」 周囲の兵には阿江が叫んでいるように見えたが、郁佑たちには影の断末魔にしか聞こえなかった。
作業を終えた後、柯一等陸尉は倒れている阿江の体を弄り始めた。服やズボンの中に手を突っ込むその様子に、孫大隊長が耐えかねて怒鳴った。 「貴様、何をしているんだ、柯魁晉!」
「――見つけましたよ!」
柯一等陸尉は、阿江の軍パンの裾に縫い付けられていた「紙紮(シサ:紙人形)」を引き剥がした。それは人の形に切り抜かれ、目鼻立ちが描き込まれた不気味なものだった。 さらに恐ろしいことに、そこには阿江の名前と共に、特殊な紋様が刻まれていた。
「この紋様……『招鬼』の呪符だ。道理で、私の渡した護符を持っていながら取り憑かれるわけだよ」
柯一等陸尉がライターでその紙人形を焼き払うと、不思議なことに、あの黒い影は次第に静まり、やがて虚空へと消えていった。
「除霊したんですか?」郁佑が尋ねる。 「いや、追い払っただけだ。私にそこまでの力はないよ」
床に倒れた阿江が、規則正しいいびきをかき始めたのを見て、郁佑はようやく安堵の息を漏らした。 孫大隊長は阿江を背負い上げると、即座に命令を下した。
「安官二人は持ち場に戻れ。今日のことは他言無用だ、いいな!」 「「了解しました!」」
「柯魁晉、貴様は私の中隊長室へ来い。問いたいことが山ほどある。……それから新兵、黄郁佑と言ったな。これを受け取れ!」
大隊長が投げ渡したものを郁佑が受け取ると、それは「安全士官」のアームバンドだった。
「お前が代わりを務めろ。誰かに聞かれたら、先輩が体調を崩したから交代したと言え。分かったか?」 「え? は、はい!」
その日、部隊の連中が戻ってくると、安官デスクに座る郁佑を見て誰もが違和感を覚えた。班長、副中隊長、中隊長、さらには無口な准尉までもが「なぜお前がここにいるんだ?」と同じ質問を投げかけてきた。
その夜、郁佑は大寝所で眠りについた。隣は阿江のベッドだ。事情を問い詰めようと帰りを待っていたが、極度の疲労からいつの間にか眠りに落ちていた。翌朝、起床ラッパで目を覚ますと、阿江はすでに起きて蚊帳を畳んでいた。
後日、柯一等陸尉から事の真相を聞かされた。 阿江は以前の金縛り体験を恐れるあまり、柯一等陸尉の護符だけでは安心できず、魔が差したのだという。新兵である郁佑に、自分を狙う怪異をなすりつけようとしたのだ。
郁佑をあの曰く付きの輔導長室に誘導しようとしたのも、彼の差し金だった。だが、郁佑の天性の体質が強すぎたため、計画するまでもなく彼は新たな標的となった。阿江は怯える郁佑を見て罪悪感に苛まれ、第一中隊の安官から「お札が焼けた」という話を聞いて、さらに精神的に追い詰められた末の自業自得だった。
しかし、不可解な点が残る。 一体誰が、あんな招鬼の紙人形を阿江のズボンに縫い付けたのか。 これほどの呪術は、並大抵の人間に扱えるものではない。
「それから、お前の右腕の刺青……あれは実に興味深い」
柯一等陸尉はニヤリと笑い、指を不気味に動かした。郁佑は目玉でも抉り取られるのではないかと恐怖し、数歩後ずさった。
「あれは単に陰陽眼を封じる『制御装置』じゃない。もっと面白い代物だ」 「どういう意味ですか?」
「あれは『スイッチ』のような概念だ。お前のような『見える人間』が触れれば感覚を閉ざすが、幽霊を信じない『見えない人間』がお前に触れると――そのボタンがオンになる」
「じゃあ……だから、大隊長閣下にも見えたんですか?」
「恐らくはな。確証はないが、あの刺青の封印も、お前の強すぎる陰陽眼を抑えきれなくなっているようだ。……素晴らしいじゃないか! これでさらに多くの幽霊を拝めるぞ。果報者め!」
「そんな果報、いりません!」
郁佑は全力で抗議した。 もし目が交換できるなら、幽霊など一生見ることのない、真っ当な人間の目になりたいと心から願う郁佑だった。
※※※※
その日の午後、一行は營區(営舎)外の山腹にいた。政府の依頼を受け、長年放置されて荒れ果てた「亂葬崗(らんそうこう:無縁墓地)」の整理清掃を行うためだ。 幸いなことに、今はまだ午後二時。もし太陽が沈みかけていたなら、郁佑は自分の陰陽眼が一度に数十体もの幽霊を捉えてしまうのではないかと、生きた心地がしなかっただろう。
休憩時間になり、郁佑が涼を求めて一本の木を探していると、その下でタバコを吸っている阿江先輩を見つけた。阿江は郁佑の姿を認めるなり気まずそうに顔を伏せ、その場を立ち去ろうとして、逆に郁佑に引き止められた。
「阿江先輩」
「な、なんだよ! とにかくあの件は俺が悪かったよ! 休暇も五日間没収されたんだ、これ以上どうしろってんだよ」
「……タバコ、落ちましたよ」
郁佑が指さした先には、地面に散らばったタバコと空の箱があった。阿江はそれを見て溜息をつき、しゃがみ込んで一本ずつ拾い集め始めた。郁佑もそれを手伝う。阿江は再び木の下でタバコを吹かし、郁佑はその隣に座って体を休めた。気まずい沈黙が流れる。
休憩が終わろうとする頃、阿江はようやく勇気を振り絞って「すまなかった」と口にした。
「……あんなに大ごとになるとは思わなかったんだ。ただ、幽霊をあっちへ誘導すれば、お前が怖がって柯一等陸尉から護符をもらうだろうし、そうすればお前も幽霊を見ずに済んで解決する……そう思ってたんだ。まさかあんな騒動になるなんてな」
「阿江先輩、幽霊が怖いんですね?」
「……怖いよ!」
「僕もです。子供の頃に遭遇してから、ずっと怖いんです」
「子供の頃? どこでだ?」
「実家の近くの公園です。確か中学生くらいの頃……」郁佑が語り始めた。
「……どうやら、二人の間にしこりは残らなそうですね。そう思いませんか、孫閣下?」
少し離れた場所から様子を伺っていた孫大隊長は、びくりと肩を揺らして物陰から姿を現した。隣に立つ柯一等陸尉は、楽しげに笑いながら手を振っている。孫大隊長は最近、もしこの營區に本当に幽霊がいるのなら、一番恐ろしいのはこの「柯魁晉」という名の鬼王ではないかと思い始めていた。
(この世に本当に幽霊などいるのか……?)
あの時、確かに奇妙なものを見た。だが、それが映画やテレビで語られる「幽霊」のイメージとどうしても結びつかない。自分が見たのは本物の怪異だったのか、それとも暗闇が見せた幻覚か、あるいは集団催眠のようなものだったのか。 そして何より不可解なのは、郁佑というあの中等兵だ。なぜ彼と接触する時だけ、あのような異様なものが見えるのか。柯一等陸尉はその理由を明かそうとせず、ただ「何か奇妙なことがあれば、あの黄郁佑を連れて行けば間違いありません」とだけ告げた。
しかし、彼は野戦砲兵の職欠として配属された身だ。いくら一中隊に二つの砲班しかないとはいえ、砲兵は砲兵だ。訓練を疎かにさせるわけにはいかないし、疲れ果てた彼を自分の私用でこき使うわけにもいかない。それに、自分一人で現場に行っても無駄なのだ。黄郁佑がいなければ、自分には何も見えないのだから。
「閣下。近々、今の傳令(でんれい:伝令兵)が他部隊へ異動になります。本部の志願兵が来るまでの間、雑務をこなす新しい伝令を一人育ててはいかがでしょう」
大隊輔導長が、デスクに鎮座する関羽像を磨きながら切り出した。
「伝令か……」
「ご存知の通り、この営舎は面積こそ狭いですが、哨所や周辺の敷地は非常に広大です。山に住む住民との調整や、兵士たちの……大小さまざまな諸問題。伝令がいれば、閣下も公務に専念できるでしょう」
「……分かった」
「おや。孫閣下、すでに心当たりがあるようですね?」
「ああ。第二中隊(二連)に連絡してくれ。黄郁佑という名の新兵だ」
「第二中隊の黄郁佑……ですか?」
「そうだ。彼を私の傳令にする」
「――ハクション!」
風呂上がりの郁佑は、温まったはずの体になぜか得体の知れない悪寒を感じた。
(……まさか、また何か悪いことが起きるんじゃ……)
郁佑は短い髪を乱暴に拭きながら、嫌な予感に身を震わせるのだった。




