大寝所の黒い影(二)
この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。
「大隊長閣下、お疲れ様です!」
安全士官(安官)は敬礼の姿勢を保ったまま、何度も生唾を飲み込んでプレッシャーを逃がそうとした。
この大隊長は他の指揮官とは違う。それは交代式の時から、安官が肌で感じていた雰囲気だった。以前、青土山の独立単位を率いていたのは、出世街道から外れてその椅子に固執し続ける、生気のない老兵だった。
対照的に、バトンを引き継いだ新任の孫大隊長は、彫りの深い顔立ちに太い眉、そして力強い光を宿した瞳を持っていた。交代式での敬礼は隙がなく、その凛とした動作と腹の底から響くような声は、整列していた兵士たちの間にどよめきを起こしたほどだ。
これほどの実力者が、なぜ青土山のような古びた、未来のない砲兵大隊に配属されたのか。安官には理解できなかった。
だがある日の午前、文書室の政戦室を通りかかった際、**輔導長(政治将校)**たちの集まりを盗み聞きして、ようやく情報を得た。孫大隊長はまだ若いが、その着任を聞いた将校たちは口を揃えてこう言った。「軍が本気で青土山を立て直そうと、『切り札』を送り込んできた」のだと。
切り札? 一体どういうことだ。
好奇心に駆られた安官がドアの隙間から覗き込むと、第二中隊(二連)の柯一等陸尉(輔導長)が、まるでお宝でも見つけたかのような晴れやかな表情を浮かべていた。
安官が青土山に来たばかりの頃、先輩から聞いた話では、この柯一尉は怪異に詳しく、符を書いたり除霊をしたり、外では廟の宮司(神職)まで務めているという変わり種だった。
柯一尉は興奮気味に言った。 「軍も面白いことをしてくれますね。幽霊騒ぎが絶えないこの青土山に、あえて『幽霊など信じない』孫大隊長を送り込むとは。本気でこの場所とやり合うつもりのようだ。……しかし、言っておきますが、あの孫大隊長、一目見ただけで分かりました。ただ者ではありませんよ」
「ははは、ただ者じゃないって、まさか神様か何かか?」
他の士官たちが笑う中、柯一尉は微笑を崩さなかった。 だが、その場で一人だけ笑っていない軍官がいた。柯一尉の隣で、険しい表情で何かをぶつぶつと呟いている。白髪が混じった髪に厚い眼鏡、そして小柄な体格。安官はすぐに、それが二等陸佐(中佐)の大隊副官(大隊輔導長)であることに気づいた。
大隊副官が柯一尉に何かを囁くと、柯一尉は頷き、腕に巻いた数珠を「カチカチ」と鳴らした。安官はその音に薄気味悪さを感じ、慌てて自分の連隊へ逃げ帰った。大隊副官が何を伝えたのか、安官は知りたくもなかった。知らない方が幸せなこともあるのだ。
数分後、第一中隊の中隊長(連長)が身なりを整えて部屋から出てきた。三階からは異変を察知した第二中隊の中隊長も降りてくる。二人は孫大隊長に対し、安官と同じく非の打ち所がない敬礼を捧げた。
大隊長は返礼し、周囲を一度見渡すと、第二中隊長に問いかけた。 「曾俊奇、今日お前の中隊に新兵が着任したはずだな?」
「報告します。はい! 本日、成功嶺から一名、黄郁佑二等兵が着任いたしました」
「大隊副官からの報告によれば、その新兵が第一中隊の輔導長室で寝ているそうだな。なぜ第二中隊の兵が第一中隊のベッドを使っている? 第一中隊長、事情を説明しろ」
「報告します。当該の新兵は到着後、急激に体調を崩しました。三等陸曹(下士官)の斉瑋から報告を受け、本日のみ私の中隊の輔導長室で休ませております」
「なぜ医務室に運ばない。大楼の裏に診療所があるだろう」 「報告します。営舎内の医務室はすでに廃墟となっております」
「大隊に医務室がないだと? ……明日の朝、数名を派遣して状況を確認し、私に報告せよ」 「了解しました!」
「以上だ。諸君、夜分にご苦労。早く休め」 「「ありがとうございます、大隊長閣下!」」
中隊長たちが一斉に敬礼し、解散していく。現場には第一中隊の安官だけが残された。 孫大隊長が階段を降りようとしたその時、ふと足音が聞こえてきた。
三階からゆっくりと降りてくる、その奇妙な足音に、安官は恐怖で壁際に身を縮めた。 しかし、孫大隊長は即座に顔を上げ、その音の主に向かって言い放った。
「——誰だ?」
やがて、その足音の主が姿を現した。不気味な微笑を浮かべながらゆっくりと階段を降りてきたその男は、角に身を縮める第一中隊の安全士官を一瞥すると、孫大隊長に向かって敬礼を捧げた。
「こんばんは、孫大隊長。私は第二中隊(二連)の一等陸尉(一尉)、柯魁晉です。大隊副官から私の話は聞いているかと思いますが」
「柯魁晉か。貴様が幽霊に詳しいという噂は耳にしている。この営舎でどんな馬鹿げた作り話を広めているかは知らんが、私が来た以上、そんな下らぬ怪談で兵たちの軍紀を乱すことは許さん。……いいか! 二度と怪力乱神な世迷い言を口にしてみろ、貴様の中隊(二連)ごとタダでは済まさんぞ!」
大隊長の峻烈な警告を、柯一尉は淡々とした笑みで受け流した。そして、安全士官のデスクの斜め向かいを指差して言った。 「大隊長、新兵の黄郁佑が寝ている輔導長室は、あそこですよ」
警告を無視された大隊長は、柯一尉を鋭く睨みつけた。真夜中でなければ怒号を飛ばして処罰を与えたいところだったが、彼はかろうじて理性を保ち、声を低く抑えて吐き捨てた。 「柯一尉、貴様のその物言いに注意しろ」
「了解しました、大隊長」 柯一尉は再び敬礼をしたが、傍らで盗み見ていた安全士官の目にも、彼に反省の色がないことは明らかだった。柯一尉はそのまま背を向け、ゆっくりとした足取りで三階へと戻っていった。大隊長はその背中を見送って溜息をつき、青土山の軍紀の乱れを憂いた。
夜は更けていく。大隊長は自分の部屋へ戻ろうと背を向けたが、なぜか先ほどの柯一尉の言葉が脳裏にこびりついて離れなかった。
大隊長の視線が、第一中隊の輔導長室に向けられた。 外見は古びた網戸と、その奥にある時代がかった木の扉。取り立てて特殊な点は何もない。大隊長は歩み寄り、網戸を開けてドアノブを回そうとした。その時、ドアノブに幾重にも巻き付けられた「黄色い紙」に気づいた。そこには筆文字で呪文のようなものが書かれていた。
「安全士官、このドアノブの紙は何だ。なぜこんなものが巻き付いている」
「ほ、報告します! それは前任の輔導長が貼ったもので……魔除けのためだと聞いております!」
「魔除けだと? フン、どいつもこいつも馬鹿げた妄想に浸りおって。……この新兵は、ここに寝ているのだな?」
安官の返答を待たず、大隊長はドアを押し開けて部屋の中へと足を踏み入れた。その様子を見て安官は息を呑んだ。 ドアがカチリと閉まった後、安官は引き出しの中にある輔導長室の鍵を思い出した。長らく空室だったその部屋は、事務担当の斉瑋が管理しており、常に施錠されているはずだったのだ。先ほどまで、中には体調不良の新兵が寝ているから時々様子を見るようにと申し送りを受けていた。
だが、今、大隊長は鍵を使うこともなく、自らの手でその扉を押し開けた。 安官は恐る恐る席を立ち、一歩、また一歩と部屋の入り口に近づいた。網戸を開け、ドアノブを確認した瞬間——彼は弾かれたように自分の席へと逃げ戻った。
固く巻き付けられていたはずの符咒が、いつの間にか焼き尽くされたかのように、黒い灰となって散っていたからだ。
安官はデスクの隅で身を縮め、交代までの残り一時間を数えた。彼はラミネート加工された魔除けの札を握りしめ、この一時間、何も起きないことをただ祈るしかなかった。
大隊長が足を踏み入れた第一中隊の輔導長室は、部屋というよりは物置に近い状態だった。 手前の事務机からベッドにかけては整頓され、清掃も行き届いているようだが、なぜか公用のウォーターサーバーが持ち込まれている。ベッドの後方には雑多な軍需品や鉄製の棚が積み重なり、窓を完全に塞いでいた。
その時、ベッドから激しく荒い呼吸の音が聞こえてきた。 大隊長が歩み寄ると、新兵の黄郁佑が全身を激しく痙攣させ、目を見開いて上段の底板を凝視していた。 (癲癇か?)
大隊長は即座に状況が異常であると判断した。彼は机の上のボールペンを掴むと、郁佑が舌を噛まないようその口に差し込んだ。全身を激しく震わせる新兵を前に、大隊長は冷静に観察を続けた。 意識障害、四肢の痙攣……。通常、癲癇の発作は数分で収まるはずだが、この郁佑という小兵の状態はあまりにも長すぎた。
大隊長は郁佑の体を抑え、その震えを止めようとした。渾身の力で郁佑の腕を掴み、彼を抱き起こそうとしたその時。
大隊長の右手が郁佑の右腕——あの刺青のある箇所に触れた瞬間。 彼の耳元に、一つの音が飛び込んできた。
「ヒッ……ヒッ……ヒッ……ヒッ……」
「……ん?」
孫大隊長は一瞬、躊躇した。 今、女の笑い声のようなものが聞こえなかったか? それも、極めて鋭く耳障りな声だ。
彼は腕を掴んでいる小兵に目をやった。先ほどまでの激しい痙攣は収まり、白目を剥いていた瞳も、今は朦朧としながら大隊長を見つめている。表情には依然として恐怖が張り付いているが、全身の震えは止まっていた。
大隊長が郁佑に持病があるのか問おうとした、その時。 再びあの奇怪な音が耳元にまとわりついてきた。
「ヒッ……ヒッ……ヒッ……ヒッ……」
「何の音だ?」
大隊長が音のする方へ鋭い視線を向けると、そこには蛇のようにねじれた黒い影が、わずか数歩の距離に浮かんでいた。 郁佑の顔は恐怖でさらに蒼白になる。だが大隊長は、この真っ黒な正体不明の物体を凝視しようとした。郁佑の腕を離し、その影へとにじり寄る。
しかし、手が離れた瞬間、黒い影は煙のように掻き消えた。
消えたのか? 大隊長は先ほど影があった場所まで歩み、周囲をくまなく見渡したが、どこにもあの異様な影は見当たらない。 (見間違いか……?) 大隊長は頭をかいた。だが、目の前の黄郁佑は、相変わらず絶望的な表情で自分を見つめている。
「どうした?」大隊長が問う。
郁佑は震える指で、大隊長の背後を指差した。 大隊長が振り返っても、そこには何もなかった。
(この長官には……見えていないのか?) 郁佑は驚愕した。そしてさらなる異変に気づく。先ほどまで自分を押し潰そうとしていたあの影が、この長官を避けるように逃げ回っているのだ。 郁佑はこの長官に会うのは初めてだったが、なぜかその軍服に輝く梅の階級章(少佐)に、既視感を覚えた。どこかで見覚えがあるような気がしてならないが、思い出せなかった。
影は部屋の中を四方八方へと逃げ惑っていた。ねじれた体をくねらせ、壁や天井を遊泳する。今の影にはもはや女の形跡はなかったが、あの鮮紅色の唇だけが異常に目立ち、「ヒッヒッ」という笑い声が部屋中に反響している。
影は郁佑が自分を見ていることを知っているのか、何度も彼に近づこうとした。だが大隊長の存在を忌避しているようで、郁佑の周囲を徘徊するに留まっている。大隊長はそんな怪異には目もくれず、郁佑を凝視した。
「お前が今日着任した、体調不良の新兵、黄郁佑か?」 「え……は、はい! 報告します!」 「お前に何か持病はあるのか?」 「……いえ、ありません」 「妙だな。それにしては癲癇の発作が長すぎる。新兵訓練中にも起きたのか?」 「いえ、僕は……持病なんて……うっ……」
言いかけた郁佑は、言葉を失った。 大隊長の背後に現れた影が、天井に届くほど巨大に膨れ上がったのだ。 赤い口はもはや一点ではなく、巨大な血盆大口と化し、漏れ出る笑い声は低く、野太い、砂を噛むようなダミ声へと変わっていた。その轟音が長官の声をかき消し、郁佑に強烈な眩暈と吐き気を催させた。
郁佑の意識が遠のき、体が再びベッドに崩れ落ちようとした。 背後の影がじわじわと迫ってくる。逃げたいのに、体は鉛のように重く、指一本動かせない。あの金縛りの悪寒が、再び全身を包み込もうとした。
その時、一筋の熱が郁佑の右腕を駆け抜けた。 倒れかけた郁佑の腕を、大隊長が力強く掴んだのだ。 その瞬間——先ほど消えたはずのねじれた黒い影が、再び大隊長の眼前に姿を現した。
「……一体、こいつは何だ?」
大隊長は郁佑のそばに現れた黒い塊を、逃がすまいと直接その手で掴みにかかった。 影は大隊長を避けるように、足元から床下へと潜り込もうとした。 その瞬間。
ドスン!
大隊長が力強く床を踏みつけた。その軍靴は、正確に黒い影を捉えていた。 不思議なことに、踏まれた箇所には穴が開き、耳を裂くような怪鳥の叫びが一連の輔導長室に響き渡った。
大隊長は耳障りな絶叫に眉をひそめながら、左手でその黒い物体を床から引きずり出した。 手に伝わる感触は重く、ひどく冷たく、滑っている。まるで巨大なトカゲか蛇のような爬虫類の感触だ。影が大隊長の手首に巻き付こうとした瞬間、彼はそれを力任せに投げ捨てた。
影はその隙を突くように、一瞬にしてその場から姿を消した。
「ちっ……どこへ逃げやがった!」
郁佑の手を離すと、大隊長は血眼になって、先ほどのねじれた黒い物体を探し回った。 傍らで郁佑は、その光景を呆然と見守るしかなかった。 今まで怪異に遭遇するたび、自分はただ金縛りに遭い、弄ばれるだけの存在だった。 だが、目の前の長官は幽霊を力任せに引きずり出し、あまつさえ放り投げて見せた。その上、逃げた幽霊を捕まえようと息巻いている。
「クソっ、あの蛇みたいな野郎、どこへ行きやがった!」
「か、閣下……あ、あの……あれは、蛇じゃないと思います……幽霊です……」
「幽霊だと?」
「幽霊」という言葉を聞いた瞬間、孫大隊長は奇妙な声を上げ、ピタリと動きを止めた。 彼は郁佑の目の前まで歩み寄ると、その鋭い眼光で彼を射抜いた。郁佑の心臓が激しく跳ねる。 大隊長は不機嫌そうに鼻を鳴らし、郁佑を一瞥すると、冷徹な命令を下した。
「腕立て伏せ三十回、用意!」
「えっ……?」
「疑う余地があるか! 五十回だ!」
「い、いえ、そうじゃなくて! 閣下、僕は……」
「六十回」
「うう……」
先輩の怪談に怯え、右腕の刺青はなぜか効力を失い、幽霊に襲われ——。 ようやく助けてくれた長官に、今はなぜか理不盡な腕立て伏せを命じられている。 郁佑は床に伏せた。まだ眩暈は完全に引いていなかったが、必死に姿勢を整え、背筋と足を真っ直ぐに伸ばして体を床から持ち上げた。
「一で下げて、二で上げろ。一、二、一、二……」
理不盡だと思いながらも、郁佑は素直に六十回の腕立て伏せを完遂し、荒い息を吐きながら床に倒れ込んだ。 すると、大隊長が郁佑の襟首をガシッと掴み上げ、汗だくの彼をベッドへと引きずり戻した。
「休むならベッドの上で休め。床に這いつくばって、犬のつもりか。……汗だくだな、シャワーを浴びてこい」
「い、いえ、閣下! 明日の朝にします! もう遅いですし、服を着替えるだけで十分ですから」
つい先ほど、あの影を最初に見たのはトイレだった。風呂場はそのすぐ隣だ。 郁佑にしてみれば、自分から怪異の巣窟へ飛び込むような真似は、死んでも御免だった。
「浴びろと言ったら浴びろ! 時間を選ぶな!」
言うが早いか、大隊長は郁佑を引きずって部屋の外へ出ようとした。 郁佑はベッドの支柱にしがみつき、必死に首を振って拒絶する。 風呂場、トイレ、倉庫——。建物の隅にある、薄暗く湿った場所。そこは怪異が最も好む場所だ。 だが、そんな郁佑の恐怖など知る由もない大隊長は、いい大人が子供のように駄々をこねているとしか思わなかった。 苛立ちを募らせた彼は、郁佑を力ずくで輔導長室の出口まで押し出した。
「嫌だ、嫌だ! 閣下、あそこには幽霊がいるんです! シャワーなんて絶対嫌だ!」
郁佑の悲鳴に近い哀願を聞くと、彼を掴んでいた手の力がふっと抜けた。 特赦を受けたような心地で、郁佑は脱兎のごとくベッドへと逃げ戻った。 振り返ると、太い眉を寄せた長官が、不審げに自分を凝視していた。
「幽霊? どこに幽霊なんていやがる」
「えっ……?」 大隊長の言葉に、郁佑は虚を突かれた。
「か、閣下、さっき見たじゃないですか! あの黒くて、体がねじれて、血みたいな色の口をして……ヒッヒッて女みたいな声で笑う影を!」
「あんなもの、ただの大きな蛇だ。裏山がこれだけ広いんだ、どこからか紛れ込んできたんだろう」
(蛇だとしてもデカすぎるだろ! それに、壁を通り抜けたり地面に潜ったりする蛇がどこにいるんだよ!)
郁佑には長官の論理が全く理解できなかった。 あれは絶対に長官の言うような蛇ではない。自分が一生彼女ができないという呪いをかけて誓ってもいい、あれは間違いなく強力な悪霊だ。 あるいは、もし長官の言う通り蛇なのだとしても、それは千年を生きた「蛇の精」に違いない。 子供の頃に読んだ『白蛇伝』のように、人の姿に化けて自分の精気を吸い尽くそうとしているのだ。
「千年の蛇の精だと? 貴様の頭の中には糞でも詰まっているのか! よくもそんな馬鹿げたことが言えたもんだな!」
郁佑が自分の考えを必死に説明すると、返ってきたのは大隊長の烈火のごとき怒声だった。
「幽霊だと? この世に幽霊なんてものは存在しない!」
その言葉が耳に触れた瞬間、黄郁佑の脳裏に記憶が蘇った。――これは、新兵訓練の部隊配属抽選(大抽籤)の前夜に見た、あの夢ではないか。夢の中の指揮官は正装を纏い、その肩には今目の前にいる長官と全く同じ、一輪の「梅」の階級章が輝いていた。
確か……梅の花一つの階級は……。
「連隊長(中隊長)殿!」
ゴンッ!
言い終えるか否かのタイミングで、郁佑は孫大隊長に頭をはたかれた。
「何が中隊長だ、私はこの営舎の大隊長だ! 貴様という新兵は、どこまで図太い神経をしているんだ。幽霊だと騒ぎ立てる次は、長官の階級を間違えるとは。眼球は飾りか! この青い名札の上の階級章を見ろ。次に見誤ってみろ、タダでは済まさんぞ!」
(大隊長って、梅の花二つじゃなかったっけ……?) 郁佑は頭を抱えながら、新兵訓練の班長に教わった記憶を辿った。だが、改めて孫大隊長の階級章を見ると、確かに一輪の梅だ。そして視線を名札の方へ落とすと、そこには確かに「大隊長」の文字が刻まれている。郁佑はぐうの音も出ず、長官を見つめるしかなかった。
「大隊長閣下、失礼いたしました!」
郁佑は跳ねるように直立不動の姿勢をとり、完璧な敬礼を捧げた。孫大隊長はそれを見て、少し意外そうな顔をした。 (こいつ、マヌケな割には動作だけは正確だな。体格も悪くないし、反抗的な分子にも見えん。……だが、着任早々発作を起こしたかと思えば、シャワーは嫌だと駄々をこね、今度は幽霊だと? 幽霊などどこにいる……。だが、さっきの怯え方は――)
孫大隊長は郁佑の瞳を覗き込み、あの恐怖に満ちた表情が演技ではないと感じ取った。 あるいは、これがいわゆる「新兵症候群」というやつか。大学を出たての兵士が初めて実戦部隊の訓練に放り込まれ、過度の緊張から幻覚や体調不良を訴えることは珍しくない。連隊の輔導長によく観察させる必要がある。 この兵は確か……第二中隊(二連)だったか。第二中隊の輔導長は……。
(柯魁晉か)
よりによって、あの神だの幽霊だのと怪しげな術を好む男が担当とは。孫大隊長は頭痛を覚えた。あの男に任せれば、「千年の蛇の精」の話も、本当に化け物話へと昇華させかねない。大隊輔導長に相談するか? いや、あの老兵も着任早々、私に仏像や経典を押し付け、大隊長室の周りで呪文を唱えながら水を撒いていたような奴だ。
「ああ、もう!」
考えがまとまらないうちに、孫大隊長は奇妙な叫び声に驚かされた。次の瞬間、巨大な質量が自分に向かって倒れ込んできた。重心を崩した大隊長は、そのまま尻餅をついて床に転倒した。自分に飛びついてきた「巨大な物体」は、他でもない郁佑だった。
「か、閣下! あそこ、あそこに今、小さい人が! 走り去って消えました!」
敬礼したまま動けずにいた郁佑は、考え込んでいた孫大隊長の背後に、身長三十センチにも満たない奇妙な小人が現れるのを目撃したのだ。その生物は短い手足で、郁佑の視線に気づかぬまま輔導長室のドアの前を横切り、ベッドの下へと滑り込んだ。郁佑の足の間をすり抜けた際、痺れるような感覚が走り、彼は思わず孫大隊長に飛びついたのだ。
「小さい人もクソもあるか! どけ! さっさとその体をどかさないと、貴様を再起不能にしてやるぞ!」
「も、申し訳ありません! 閣下!」
郁佑は慌てて飛び起きたが、時すでに遅し。孫大隊長の瞳に宿る怒りの炎と、無理やり引きつらせたような笑顔を見た瞬間、今夜は終わりのない腕立て伏せが待っていることを悟った。 案の定、大隊長の野太い声が響いた。 「腕立て伏せの姿勢、用意!」
その夜、郁佑はさらに七十回の腕立て伏せを命じられた。頭は金縛りに遭った後のように重く眩んでいた。さらに大隊長から直々に「今週の休暇は外出禁止。毎晩、大隊長室に出頭せよ」という通達まで受けてしまった。 (今年はなんてついてないんだ……) 心の中で溜息をつき、汗の臭いが染み付いた体でベッドに潜り込んだが、過度の疲労が功を奏したのか、その夜は怪異も笑い声もなく、彼は泥のように眠りについた。
翌朝、五時三十分。 軍の起床ラッパがスピーカーから鳴り響き、朝の光が輔導長室の隙間から差し込んだ。郁佑は毛布と蚊帳を完璧な豆腐型に畳むと、酸っぱい臭いのする軍用下着を脱ぎ捨て、バッグから清潔なシャツを取り出して着替えた。
(朝だ。幽霊はいない。人間がたくさんいる)
その事実に安堵し、郁佑は一刻も早く戦友たちに会いたいと願った。勢いよくドアを開けると、目の前に立っていたのは――昨夜の孫大隊長だった。
「……おはよう、幽霊恐怖症の二等兵。貴様のおかげで、昨夜は上段のベッドで一夜を明かす羽目になったぞ。部屋に戻って私服に着替える時間すら惜しくなった。軍に入って数年経つが、一晩のうちにこれほど私を困らせる兵士は初めてだ。……忘れるなよ、夕食後、時間通りに大隊長室へ来い!」
大隊長は郁佑の肩を叩き、含み笑いをしながら、その肩の骨をミシリと握りつぶさんばかりに力を込めた。
この時、黄郁佑は悟った。 軍隊には、白昼堂々と姿を現し、深夜の猛鬼や悪鬼をも凌駕する殺傷能力を持つ「鬼」が存在する。 その「鬼」の正体は――**「大隊の長官」**という名の怪物だった。




