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大寝所の黒い影(一)

この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。

知っているだろうか。私たちはこの世に生きている限り、多かれ少なかれ、神秘的で、未知で、説明のつかない奇妙な出来事に遭遇するものだ。通常、人はそれらを「幽霊」や「化け物」の仕業として片付けてしまう。


だが、人が口にする「鬼(き:幽霊や化け物)」とは一体何なのか。死者の魂なのか、それとも別の空間に存在する魔物なのか。 『大正新脩大蔵経』第十七巻の『正法念経しょうぼうねんきょう』には、三界六道——欲界、色界、無色界の三界、そして地獄、餓鬼、畜生、人間、阿修羅、天の六道、さらには出家修行の道が記されている。


『正法念経』は地獄や餓鬼、畜生、天界などの異様な内容を詳述した経典であり、多くの仏教学者が研究の対象とする聖典の一つだ。そこには鬼の種類が三十六種にものぼると記録されている。


鬼について言えば、彼らは人に依存し、人の「気」を吸って生きるものだ。陽気が不足している者や「八字(はちじ:生年月日による運勢)」が軽い者は、その隙を突かれやすい。あるいは、体が弱り病床に伏している者、情緒不安定な者の霊気を吸い取る。


過度に精気を奪われた人間は、やがて息絶える。これこそが、伝統的な民間伝承で言われる「抓交替(ジュアジャオティ:身代わり)」の正体だ。


三十六種の餓鬼の中で、軍隊で最も遭遇しやすいのは三つの鬼である。「地下鬼じげき」、「希悪鬼けあくき」、そして「殺身餓鬼せつしんがき」だ。


「地下鬼」は地底や暗がりに潜み、特に湿った場所を好む。軍の倉庫や便所は彼らにとって絶好の居場所だ。彼らが長居する場所には「疫気えきき」が生じ、人間にとって有害な環境へと変わっていく。「希悪鬼」は人の思考に付け入り、兵士たちに悪をなすよう囁きかける。負の感情や恐怖こそが、彼らの精神的な糧となるのだ。


最も厄介なのは「殺身餓鬼」である。自ら命を絶った者たちの成れの果てであり、彼らは自身の死の間際の痛みと絶望を永遠に繰り返す。そして隙を伺い、気が弱った絶望的な人間を自死へと誘い込むのだ。


「どうだい? 二等兵、黄郁佑。少しは幽霊おにについて理解できたかな?」


コー輔(輔導長)はニコニコと笑いながら、ハンヴィーを人影のまばらな交差点へと走らせた。車を走らせて数時間が経過したが、軍の施設らしき建物は一向に見えてこない。郁佑は窓の外の景色が都会の高速道路から、ススキの生い茂る小道へと変わっていくのを見て、不安を募らせていた。


平屋の一軒すら見当たらない。午後の光が陰り、悍馬ハマーが荒れた泥道を走るたびに、風が不気味な軋み音を立てる。道中、コー輔が延々と語る経典や怪談のせいで、郁佑の心は落ち着く暇もなかった。


「コー輔長官、どうしてそんなに幽霊の話ばかりするんですか? 僕はただ、真面目に兵役を務めたいだけなんです。命令に従って、訓練をこなして……。それに、友達が言ってたんです。国軍の『軍の腕章アームバンド』には魔除けの効果があって、幽霊も怖がるって」 「誰がそんなことを?」 「隣の家に住んでる友達です」


悪友・小佐シャオズオの顔が浮かぶ。かつて心靈番組を見ていた際、彼が何気なく言ったのだ。「軍の腕章には軍人の正義の気、強い陽気が宿っている。幽霊は陰の存在だから、陽気が強いものを嫌うんだ。だから除霊の効果があるんだよ」と。


「面白い説だね。……ところで郁佑、君は僕が怖いかい?」 コー輔が聞いた。郁佑は、相変わらず笑みを絶やさない彼を見つめた。確かにこの輔導長は変わり者で、怪力乱神な知識ばかり語るが、見た目は自分より少し年上の、二十代後半の青年に過ぎない。


恐怖を感じる要素などどこにもなかった。 郁佑が首を横に振ると、コー輔は続けた。「失敗して、僕に罰せられるのも怖くないかい?」


「新兵訓練では一度も罰を受けたことはありません。投擲も射撃も成績は連隊でトップクラスでしたから」 「そうか……。なら、うちの連隊に来るなんて、本当に勿体ないな」


コー輔がそう言った瞬間、車はさらに深い山道へと入り込んだ。道は泥から砕石の混じった悪路に変わり、ハンヴィーの激しい揺れが郁佑の体を翻弄する。


「君の友達が言った方法は、ここでは通用しないよ」

「えっ、どうしてですか?」


「幽霊も人間と大差ないんだ。僕が着ているこの軍服もただの布だし、腕章もただの刺繍に過ぎない。それ自体に力なんてないのさ。さっき君は僕を怖くないと言った。幽霊だって同じだ。君の腕章をどうして怖がる必要がある?……だが、唯一効果がある幽霊もいる」


「——死んだ軍人の幽霊だ」


困惑する郁佑をよそに、コー輔は平然と続けた。


「軍隊は徹底した階級社会だ。もし相手が死んだ老兵の幽霊なら、長官である僕の腕章は、彼らにとって威嚇になるかもしれない。だが、威嚇は威嚇に過ぎない。二等兵という君の階級が……」


「……一体何の役に立つというんだい?」


その言葉が終わるか終わらないかのうちに、郁佑の背筋に冷たい戦慄が走った。 突如、耳を裂くような鋭い音が鼓膜を突き刺した。黒板を爪で引っ掻いたような、不快極まりない音。


郁佑の体は大きく揺さぶられ、放り出されるような衝撃を感じた。座席の背もたれに体を打ち付け、冷や汗が止まらない。彼はただ、汚れにまみれたフロントガラスの先を、呆然と見つめるしかなかった。


コー輔(輔導長)が急ブレーキを踏み、ハンヴィーは泥を引きずるようにしてようやく停止した。助手席で荒い息をつく郁佑ユーヨウの肩を、コー輔がポンと叩く。


「ほら、台北からここまで遠かったろ? 車内も蒸し暑かったし、汗びっしょりじゃないか。降りなさい、着いたよ」


郁佑はシートベルトを外し、軍綠色のボストンバッグ(黄埔包)を抱えて車を降りた。足を踏み出した先は、泥と石が混じった、ひどくぬかるんで滑りやすい道だった。これではハンヴィーのブレーキが効きにくかったのも無理はない。


郁佑が周囲を見渡すと、この営舎(軍キャンプ)はなだらかな坂の上にあり、範囲は狭く、一目で全貌が見渡せるほどだった。


コー輔が営門に近づいて声をかけると、歩哨に立っていた二人の兵士が左右から重い門を引き開けた。呆然と立ち尽くしていた郁佑をコー輔が呼び寄せ、慌ててその後を追う。数歩進んだところで、背後の門が閉まる「ゴンッ」という重苦しい残響が響き渡った。


「郁佑、私はこれから文書室——あそこの赤い瓦の平屋だ——に用事がある。君は一人でこの大通りを登っていきなさい。突き当たりにあるビルの三階がうちの連隊だ。着いたらまず安全士官(安官)を探して、政戦(政治戦担当兵)を呼ぶように傳えて。政戦の先輩が案内してくれるはずだ」


郁佑は頷き、コー輔と別れて一人で坂道を登り始めた。配屬先のくじには【青土山営區、獨立大隊第二中隊(二連)、野戰砲兵】と書かれていた。成功嶺(訓練所)の班長たちは誰もこの場所を知らず、「山奧の小さなキャンプだろう、人手不足の今、すぐに廢止されて別の基地に統合されるはずだ」と言っていた。


青土山軍営。そこは軍の施設というより、広大なジャングルの中に突如現れた「不毛の地」のようだった。ボストンバッグを担いで登っていく郁佑の目には、塀よりも高く伸びた雑草が映る。営舎内の空気には、重苦しい湿気と錆びたような臭いが漂っていた。森林特有の清々しい気配など微塵もない。


ただの荒れ果てたキャンプならまだしも、あちこちの斜面には、いつからそこにあるのかも分からない墓標の残骸が散乱していた。郁佑は恐怖のあまり目を閉じ、心の中で「南無阿彌陀佛」を唱えながら歩を速めた。これからの軍隊生活に対する不安が、どす黒く胸に渦巻く。


ビルの入り口に着く頃には、空はすでに黃昏色に染まっていた。階段を登ると、食器を手にした兵士たちが数人ずつ降りてくる。夕食の列に並びに行くのだろう。整った軍服を着て大きなバッグを背負った郁佑とすれ違いざま、何人かが肩をぶつけ、不審そうに彼を振り返った。


三階への階段の踊り場で、急いで降りてきた一人の男と正面からぶつかった。「おっと!」「あ、すみません!」


相手が落とした食器を拾おうと郁佑が腰を落としたが、相手は手を振って制した。その腕には上等兵(志願役の先輩)の階級章がある。小柄だが身のこなしは非常に俊敏で、数秒で散らばった食器を回収した。


「新入りか?」とその先輩が聞いた。 「は、はい! 本日配屬されました二等兵、黃郁佑です!」 「俺は張梁寬ジャン・リャンクアン小寬シャオクアンって呼んで。二連だろ?」 「はい、二連です!」


「早く準備して食堂に行け。日が暮れるぞ。……ここに来る途中、感じただろ? この営舎が……あんまり……『綺麗クリーン』じゃないってことを。新入りの君に、一つだけいいアドバイスをしてやる。このキャンプでは夜、絶対に……」


「——一人で行動(落單)するな」


小寬先輩はそれだけ言い残すと、足早に階段を駆け下りていった。踊り場に一人取り残された郁佑は數秒間呆然とした後、再び上を目指した。三階に上がると、あたりは妙に靜まり返っていた。正面の安官デスク(安官桌)には誰もいない。安官がいると聞いていたのに人っ子一人いない状況に、郁佑は途方に暮れて立ち盡くした。


トイレにでも行っているのだろうか? 安官デスクの左後方に目を向けると、そこは二連のトイレだった。薄暗い黃色の電球がちかちかと點滅し、公眾トイレ特有のアンモニア臭が漂ってくる。


突如、大きな手に背中を突き飛ばされ、郁佑は飛び上がって振り返った。そこにいたのは安全士官……だが、奇妙なことに、同じ階級章をつけた男が三人も立っていた。


「コー輔が言ってた二連の新兵か? トイレをじっと見て……腹でも壊したか? 中から出てくるのが『人間』じゃないかもしれないから気をつけろよ」 一人の安官がニヤリと笑った。 「い、いえ! 大丈夫です! 本日着任しました、黃郁佑です」


「大丈夫なもんか、最悪だよ。……ったく、みんな飯に行っちまって、俺たちだけがこんな気味の悪い場所に放り出されてる。門まで迎えに行こうと思ってたんだが、もう上がってきてたんだな。言っておくが、夜はこの営舎を一人でうろつくなよ。俺は一連の齊瑋チー・ウェイ。お前の下の階だ。こっちは二連の先輩、阿江アジャン。そっちは営部連(本部中隊)の徐寶シュー・バオだ」


「阿江先輩、徐寶先輩、よろしくお願いします」 「『ゴミ』は今いない。荷物を持って一連の安官デスクまで来い」と阿江が吐き捨てるように言った。


「ゴミ……ですか?」 「うちの連隊の政戰だよ。新兵が来るって自分で言っておきながら、部隊と一緒に飯を食いに行きやがった」 「あの、阿江先輩……先に荷物を置いてもいいでしょうか?」


郁佑ユーヨウの問いに、二連の先輩である阿江アジャンは眉をひそめた。何かを言いかけて、それを飲み込む。他の二つの連隊の安全士官たちも苦虫を噛み潰したような顔をしていた。彼らは三階の寝室を数回一瞥したが、何も言わず、黙々と階段を降りていく。郁佑は釈然としないものを感じながらも、先輩たちの後を追うしかなかった。


二階の安官デスクに着くと、阿江と斉瑋チー・ウェイ中山室レクリエーションルームから椅子を持ってきた。斉瑋だけがデスクの椅子に座り、残りの三人は小さなプラスチックの腰掛け(板凳)に身を預けた。


青土山の夜。窓の外には濃い霧が立ち込め、点在する街灯の白い光さえも、夜の闇を突き通すことはできない。外では絶え間ない鳥の鳴き声と、どこからか野良犬や野良猫の遠吠えが聞こえてくる。その鳴き声は妙に奇怪だった。先輩たちが話している間は騒がしく鳴き立てているのに、会話が途切れると、まるで示し合わせたかのように、外も内も同時に静寂に包まれるのだ。


郁佑が外の音を気にしているのに気づき、阿江がその肩を叩いた。郁佑が我に返って振り向くと、隣に座っていた営部連(本部中隊)の徐宝シュー・バオが口を開いた。 「新入り! あのバカ犬どもの『吹狗螺(犬の遠吠え)』を気にするな。耳を貸すんじゃないぞ。さもないと、聞こえちまう……」


「新入り、お前の分の弁当は頼んであるのか? じゃないと食いっぱぐれるぞ」 徐宝の言葉を遮るように、阿江が割って入った。徐宝は鼻で笑い、斉瑋が余計なことを言うなと徐宝をたしなめる。徐宝は耳をほじりながら、不機嫌そうに吐き捨てた。


「いいだろ、どうせすぐに知ることになるんだ。ここは邪気が強すぎる。今話しておかないと、こいつが実際に遭遇した時、前の新兵みたいに腰を抜かして北投の八么八(精神科病院)送りだぜ」 「初日から脅すんじゃない」 「ふん! 俺が言わなくても、阿江か連隊の政戦が寝る前に話すさ。早いか遅いかの違いだ。……おい新入り、郁佑だったな? お前、さっき俺たちがなんで三階にいたがらなかったか、なんで寝室に入れなかったか、理由を知りたくないか?」


「し、知りたくないです。先輩、お願いですから……聞かせないでください」郁佑が懇願する。 「お前、幽霊が怖いのか?」 徐宝は郁佑の怯えきった表情を見て、かえってサディスティックな遊び心を刺激されたようだ。不敵な笑みを浮かべる徐宝から逃げようと、郁佑は「トイレ」を口実にその場を去ろうとした。しかし、立ち上がろうとした瞬間、視線の先のトイレの照明が、古い黄色い電球を明滅させ始めた。


郁佑は唾を飲み込み、右腕の経文の刺青に触れた。 (大丈夫だ……これはじいちゃんが彫ってくれたものだ。これがある限り、変なことは起きないはずだ) 自分に言い聞かせ、震える足でトイレに向かおうとした。


トイレへ……。 ——その時だった。


人の横顔——いや、得体の知れない「黒い影」が、トイレの壁からゆっくりと、あまりにもゆっくりと滲み出してきた。その横顔はこちらへ向かって回転し、やがて郁佑と視線がぶつかった。その顔はひどく不鮮明で、まるで古い写真が黄色いシミで汚れたかのようにぼやけている。


だが、郁佑にはなぜか、その口元だけがはっきりと見えた。 その口は笑っていた。凍りつくような、冷酷な笑みだ。


郁佑の思考が停止した。板凳に座ったまま、指一本動かせない。 思い出した。子供の頃、実家の近くの公園で見たあのものと同じだ。あの時と同じ「笑顔」と「恐怖」が全身を貫き、体の芯まで冷え切っていく。


「ト……トイ……トイレ……」 「ははっ、新入りの分際でその手は食わねえぞ! 逃げるな。先輩は慈悲で教えてやるんだ。地獄の沙汰も聞き次第、だろ? 聞けよ、最近新兵が入ってこないから、この話を披露する機会がなかったんだ」


「トイレに……顔が……」 「顔?」


徐宝シュー・バオがトイレの方を見たが、そこには何もなかった。阿江アジャン斉瑋チー・ウェイの二人も視線を向けたが、人の顔らしきものは微塵も見当たらない。三人は怪訝そうな顔で郁佑ユーヨウを見つめた。


(な、なんで……? 僕にしか見えてないのか? じいちゃんの刺青は? 効いてないのか?)


「嫌だ、嫌だ、嫌だ……! 来るな……っ!」


「おい! 新兵(学弟)!!」


阿江の怒鳴り声で、郁佑はようやく我に返った。激しく肩で息をする。目の前にあるのは、何の変哲もないトイレだった。黄色のタングステン灯は点滅しておらず、ドアには汚れがついているだけだ。古びたタイル、染みついた尿の臭い——。先ほどの黒い影も、あの不気味な笑い顔も、どこにもいなかった。 郁佑は大きく呼吸を整えたが、手のひらは嫌な汗でびっしょりと濡れていた。阿江は郁佑の様子が尋常でないと察し、その背中を強く叩いた。


「どうやら『当たっちまった』みたいだな」斉瑋が低く呟いた。 「マジかよ! 俺たちも一緒にいたのに。クソっ、こいつだけであたりやがった!」 徐宝が驚いて騒ぎ立てるのを、阿江が鋭い眼光で黙らせた。 「黙れ、シュー! 余計なことを言うな!」 阿江はそう吐き捨てると、斉瑋から一連の輔導長フドウチョウ室の鍵を借りた。


「いいのか? 連隊長から管理を任されてるんだろ」


「構わねえよ。ここの輔導長も幽霊にビビって逃げ出したからな。今は空室だし、俺が書類仕事をする時しか使ってねえ」


「ああ、そういえば阿江、お前は二連の『政戦』だったな」


「政戦兼、第一課事務(参一)だ」阿江は大きく溜息をついた。


阿江は郁佑を支え、一連の輔導長室へと入った。主人がいない部屋にもかかわらず、そこは完璧に整頓されていた。阿江は郁佑をベッドに座らせ、自分もその傍らに腰を下ろした。


「おい、新兵。少しは落ち着いたか」 「は、はい……阿江先輩、もう大丈夫です」 「……悪かったな。一つ聞くが、お前、もしかして『陰陽眼(霊感体質)』か?」 「……陰陽眼?」 「さっき、見えたんだろ? 『あいつら』が」


阿江は部屋に備え付けられていた紙コップの水を郁佑に差し出した。郁佑がそれを受け取ると、阿江も一口水を飲み、張り詰めた空気を緩めるように話し始めた。


「まったく、軍隊に来るだけでも最悪なのに、こんな鳥肌の立つような事態まで我慢しなきゃならねえなんてな。……もしお前に『見えている』なら、話しておいたほうがいい。うちの二連の寝室で起きている、あの不可解な出来事についてだ」


「不可解な出来事……?」


「あの口の軽い徐宝のやつは、さも自分が知っているかのように話してたが、あいつだって退役した先輩から聞いた受け売りだ。だが、さっきのお前の怯え方を見て確信したよ。お前も『見た』んだな。……なぜなら、俺も経験があるからだ」


郁佑は目を見開いて阿江を見た。阿江は自嘲気味に笑った。 「そんなに驚くことか? その後もいろんな怪異に遭ったが、あれが初めての経験だったから、今でも鮮明に覚えているよ」


「三ヶ月前のことだ。俺も新兵訓練を終えて、コー輔のハマーに揺られてこの最果ての青土山あおつちやまに来た。それから二週間後、面会休暇(懇親假)の関係で、俺は運良く三連休をもらったんだ。休みに入る前日の夕飯時だった。その日は午前一時に哨戒に立っていてひどく疲れていたから、俺はこっそり寝室(大寢)に戻って仮眠を取ることにしたんだ。……まさか、あんな恐怖を味わうことになるとは思わずに」


「ベッドに横になりながら、このクソみたいな場所を離れてどこで遊ぼうか考えていた。次第に眠気が襲ってきて、意識は暗闇に沈んでいった……。どれくらい経っただろうか。唐突に意識が覚醒したんだ。猛烈な『重み』が全身にのしかかり、指一本動かせない。直感的に目を開けようとしたが、瞼が癒着したみたいにビクともしないんだ」


「(夢を見ているのか?)と思ったが、違う。俺の意識ははっきりと目覚めていた。驚いたことに、瞼を閉じているはずなのに、なぜか周囲の寝室の光景が透けて見えるんだ。その異常な状況を理解できずにいると、耳障りな音が聞こえてきた。……何かをずるずると引きずるような音が、寝室の入り口からゆっくりと、俺の方へ近づいてきたんだ」


その音は、こうだった。 「ヒッ……ヒッ……ヒッ……ヒッ……」


何かがこすれ合うような、不快なノイズが延々と響く。 その時、俺は一団の黒い影を見た。人の顔をした黒い影だ。


その得体の知れない影は、入り口から俺のベッドに向かって、床を這うようにゆっくりと近づいてきた。その顔を説明するのは難しい。ひどく不鮮明で判別がつかないんだ。 だが、なぜかその口元だけははっきりと見えた。凍りつくような悪寒を覚える、歪んだ笑顔を。


必死にもがいたが、体はビクともしない。影はさらに近づき、ついに俺の枕元まで這い上がってきた。 その瞬間、俺はようやく気づいたんだ。


ずっと聞こえていたあの「ヒッ……ヒッ……」という音は、この影の口から漏れ出している笑い聲だったんだ。音は次第に大きくなり、狂った女の金切り聲のような高笑いへと変わっていった。


俺は心の中で、ありったけの罵詈雑言を叩きつけたが、何の役にも立たなかった。 影はゆっくりと俺の足から這い上がり、次第にその人型がはっきりとしてきた。


それは女の体だった。全身が黒くねじれた、女の姿。 それが俺の太ももに這い上がった瞬間、頭皮が痺れるような氷の冷たさが全身を駆け抜けた——。


「人の顔をした……黒い影? 悪寒のする……笑顔?」


阿江アジャンの体験談を聞きながら、郁佑ユーヨウは先ほど安官デスクから見た、あのトイレの黒い影を思い出していた。阿江が語る「金縛りの正体」は、自分が目撃したものと、あまりにも酷似していた。


「最後は、俺がいないことに気づいた班長が連中を連れて探しに来てくれたんだ。寝室の明かりを全開にしてな。そこで、ベッドの上でガタガタ震えている俺が見つかった。 体が動くようになった時には、影に覆われていた両腿はアザだらけで、まともに歩けなかったよ。


……これを知ったコー輔(輔導長)が符咒おふだをくれてな、肌身離さず持つように言われた。それからはあいつには会ってねえ。 クソっ、あの時はマジで漏らすかと思ったぜ! あの黒い女が『ヒッ……ヒッ……』と笑いながら近づいてくる絶望感は、お前には想像もつかないだろうな。 ……俺は別に迷信深い方じゃないが、安心のためにコー輔の符咒は今でも持ち歩いてるよ」


阿江はポケットから防水のチャック袋を取り出し、中にある符咒を郁佑に見せた。 それを見た郁佑の脳裏に、再びあの黒い影の笑顔がよぎり、顔色がまた紙のように白くなった。


「そんな顔をするな。今日はもう休め。このキャンプは全体でも百人いないし、軍人も兵士も入れ替わりが激しいから、残ってる連中はみんな顔見知りだ。 斉瑋チー・ウェイに頼んで、あいつの連隊長に話を通しておくよ。あの連隊長はクソ真面目で口うるさいが、斉瑋の頼みなら許可するはずだ。 ここで少し横になってろ。安心しろ、ここは安全だ」


見知らぬ怪異に遭遇して神経をすり減らしたせいか、あるいは長距離の移動による疲労のせいか。 緊張が解けた郁佑は、急烈な睡魔に襲われた。目をこすりながら頷き、ベッドに横たわると、阿江の姿が次第にぼやけていく。 彼はそのまま、深い眠りへと落ちていった。


どれほど時間が経っただろうか。郁佑は唐突に目を覚ました。


周囲を見渡すと、そこは元の輔導長室だった。机の上の常夜灯だけが、ぼんやりと灯っている。 ドアの隙間の外は暗く、どうやら消灯時間まで寝てしまったらしい。


(……自分の連隊に戻るべきかな?)


ベッドに横たわったままそんなことを考えたが、阿江の怪談を思い出し、やはりここに留まるのが得策だと思い直した。郁佑は溜息をついた。 なぜまた、こんな怪力乱神なものが見えるようになってしまったのか。 昔、じいちゃんが彫ってくれたあの刺青の力は、もう消えてしまったのだろうか? それとも、別の要因があるのか?


郁佑は確かめるように、右腕の刺青に觸れようとした。


——しかし。 指一本、動かすことができなかった。


一体、何が起きているんだ?


郁佑ユーヨウは状況が掴めず、必死に身を起こそうとした。 だが、全身に抗いようのない力がのしかかり、ベッドに縫い付けられたかのように微塵も動けない。


郁佑はパニックに陥り、渾身の力を込めたが、一向に効果はなかった。 その時、不意に音が聞こえてきた。何かが床をこするような音。いや、それとは少し違う。


音は次第に近づき、郁佑はついにその正体を聞き分けた。あの音だ……。


「ヒッ……ヒッ……ヒッ……ヒッ……」


まるで呪文のように、「ヒッ……ヒッ……」という笑い声が一連の輔導長室に響き渡る。 郁佑は泣き出したい気分だったが、涙一滴すら流すことができず、瞼を閉じることさえ叶わない。 二段ベッドの下段に横たわったまま、上段の底板を凝視するしかなかった。


やがて、上段の板から黒い影がじわりと浮き上がってきた。 阿江アジャン先輩が言っていた通り、それは女のような形をしていたが、女というよりは「蛇」に近かった。全身がぐにゃぐにゃとねじれ、絡まり合っている。


ただ一點、顔にある血のように赤い唇の笑みだけが異常なほど鮮明で、あの笑い声はその口から漏れ出していた。


(ここなら安全だって言ったじゃないか、阿江先輩!)


郁佑の視界の中で、その黒い影は自分に、自分の體へと、刻一刻と近づいてくる……。


「餓鬼道、その十五。阿毘遮羅あびしゃら疾行餓鬼しっこうがき。 疾行鬼は夜間を得意とし、常に壁を伝って橫行する。足は地に着かず、腹部で這い、瞬く間に千里を駆け、門やベッドを越える。 形體は影に近く、血のような鮮紅色の唇を持つ。疾行餓鬼が這う時、女の細い笑い声に似た音を発し、その声を聞いた者はこの鬼に憑かれ、やがて両足を失うに至る——」


コー輔導長は、ハードカバーの小冊子をめくりながら読み上げた。 開かれたページには、「疾行餓鬼」と太い文字で記され、その橫には水墨画のような鬼の挿絵があった。


挿絵の餓鬼は體がねじれ、上半身は振り亂した髪に覆われ、女のようにも見える。 だが、その唇だけが鮮血を滴らせるように赤く、見るもおぞましい姿だった。


「二連の小兵たちに渡した符咒おふだは、それなりに効いているようだな。それ以上何も言ってこない。 だが、新入りの黃郁佑という二等兵……道中観察した限りでは、生まれつきの『陰陽眼いんようがん』のようだが、何かの術で封じられているのか? あの天性の資質、実にもったいない」


柯輔導長はため息をついて本を閉じ、思い直したように獨り言を漏らした。


「もっとも、見えるだけで対処法も知らず、法術も使えないようだがな。だがあれほど強力な陰陽眼の持ち主ともなれば、私の半端な符咒では太刀打ちできまい。 ……いいなあ、羨ましい。あの、陰と陽の両面を見通す力が、私も欲しいものだ」


郁佑の能力を心底羨みながら、柯輔導長は明かりを消し、蚊帳かやを吊ってベッドを整えた。 その時、外からドスンドスンと響く、重厚な足音が聞こえてきた。


その力強い足音を聞いて、柯輔導長は再び羨望の念に駆られ、橫たわりながら呟いた。


「天賦の才を持ちながら、生かしきれないとは。実に、実にもったいない……」


一連の安全士官(安官)は、デスクで今にも居眠りを始めるところだった。 だが、危うく意識が沈む寸前で、彼は跳ねるように飛び起きた。


今夜の巡察チャーシャオに現れたのは、とてつもない大人物だったからだ。 安官は椅子から立ち上がり、直立不動の姿勢を取る。


一体何の冗談だ。一階の営部連(本部中隊)の安官も、腰を抜かして暗号(合言葉)を送るのを忘れたに違いない。


「大隊長閣下、お疲れ様です!」


安全士官は、人生で最も完璧な敬禮を捧げた。

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