第二章:データに残らない色彩
セレンディピティ・ゾーンの空気は、アルカディアのそれとはまるで違った。埃っぽく、湿った匂い。エフォリアが徹底的に管理する無菌の空間とは対照的だ。私の神経質な指先が、思わず白衣の裾を掴む。不快、ではない。むしろ、奇妙な好奇心が沸き立つ。
「彼のデータは、エフォリアにとって未知の領域です。」私の隣で、護衛のサイボーグが無機質な声で報告する。全身を覆うチタン合金のボディは、陽光を反射して鈍く光る。完璧なフォルム。私自身がデザインした、最も効率的な警護システムだ。
老画家は、私の視線も、サイボーグの存在も気に留めない。ただひたすらに、キャンバスに向き合っていた。彼の絵は、理解不能な色彩の洪水だ。原色の暴動。エフォリアの色彩パレットには存在しない、予測不能な色の組み合わせ。
私は一歩、彼に近づいた。描かれているのは、波しぶきを上げる荒れた海。しかし、その海は青ではなく、燃えるような赤と、深い紫で描かれている。その中心に、微かに人の形が見える。苦痛に歪んだような、しかしどこか恍惚とした表情。
「…それは、何を表しているのですか?」私の声は、分析的な響きを帯びる。感情の揺らぎなど、微塵もない。彼の絵が、私の論理回路に「エラー」を呼び起こしている。
老画家は、ゆっくりと筆を置いた。深く刻まれた彼の目尻の皺が、僅かに動く。初めて、私と目が合った。その瞳は、深淵のようだ。底知れない、しかし抗いがたい引力を持つ。
「これは、痛みだ。」彼の声は、乾いた砂のようだ。しかし、その一言には、エフォリアの全データをもってしても解析できない、重い響きがあった。
痛み?私には理解できない概念だ。エフォリアは、あらゆる痛みを数値化し、除去する。身体的、精神的、あらゆる苦痛は、アルカディアには存在しないはずだ。
「痛みのデータは、全て無効化されています。」私は反論する。それは、エフォリアの絶対的な証明だ。彼が何を感じているにせよ、それはシステムのエラーに過ぎない。
老画家は、フッと鼻で笑った。それは、諦念か、あるいは嘲笑か。私には判断できなかった。
「データで全てを測れると思うか? お前は、空の青さを数字で理解しているつもりか?」
彼の言葉は、私の論理回路を揺さぶる。空の青さ。エフォリアは、その色彩データを正確に記録し、再現できる。しかし、それは、「青い」という事実であり、「青がもたらす感情」ではない。
その時、老画家は、絵の具で汚れた指先で、キャンバスに描かれた海の波をなぞった。彼の指が触れた瞬間、絵の中の波が、まるで生きているかのように、僅かに蠢いたように見えた。私の視覚センサーが、異常を感知した。
「それは、システムの誤作動です。」私は反射的に言う。しかし、私の脳裏には、エフォリアが示さない、データに残らない色彩が焼き付いた。彼の絵は、完璧なアルカディアの調和を乱す、異質な存在だった。
私は、老画家の「痛み」という言葉の真意を探るべく、彼の絵のデータを収集する決意を固めた。この解析不能な感情の波形こそが、エフォリアを真の「完璧」へと導く、最後のピースかもしれない。無機質な好奇心が、私の胸の内で静かに燃え上がっていた。