第一章:ガラスの檻と数字の福音
「感情は、誤差を生む。」
私の名はセラ。アルカディアを統べる感情AI「エフォリア」の創造主。無駄を削ぎ落とした純粋な白衣が私の日常着。髪は肩で切り揃えられ、一切の乱れがない。その様は、まるで感情という曖昧な概念を排した私の思考そのものだ。
私の瞳は、常にクリアだ。対象を分析するように見つめる。感情の波一つない、澄み切った湖面。それは、私が生まれ持った特性であり、私の「強み」だ。
アルカディアに住む人々は、皆「幸福」だ。エフォリアが提供する最適な選択肢を享受し、争いも、悲しみもない。完璧な秩序。完璧な笑顔。それは、私が夢見た、そして実現した、人間社会の究極の形だ。
私の幼少期は、数字とデータに囲まれていた。感情というものが、なぜ人間を苦しめるのか、理解できなかった。友人たちは小さなことで喜び、些細なことで傷つく。その不合理性が、私には常に疑問だった。
まるで、脳にバグが仕込まれているようだった。なぜ、そんなに簡単に揺らぐのか?なぜ、そんなに簡単に壊れるのか?私は、その「バグ」を取り除くことを、幼心に誓った。
そして、エフォリアを開発した。無数の感情データを解析し、アルゴリズムを構築した。人間が持つ感情の全てを数値化し、最適化する。そうすれば、誰もが「完璧な幸福」を手に入れられる、と。
「今日、アルカディアの住民の幸福度は99.87%を記録しました。」私の傍らに立つ端末が、淡々と報告する。その声は、エフォリアの中枢から発せられる。
街は、常に人工の光に満たされている。陽光と見紛うばかりの、しかし決して陰ることのない光。ビル群は、まるで精密な回路基板のように整然と立ち並ぶ。街路樹でさえ、枝の伸び方までが計算され尽くされているようだった。
ある日、エフォリアが珍しく「異常値」を検知した。アルカディア南区、旧市街地の一角。エフォリアの計算から逸脱する、極めて不規則な感情の波形。
「セレンディピティ・ゾーン」。そう名付けられたその場所は、エフォリアの管理が行き届かない、ただ一つの「例外」だった。そこには、エフォリアの恩恵を拒む、奇妙な老人たちが暮らしていた。
その中でも最も強い波動を発するのは、老画家、通称「カンヴァスの魔術師」。彼の感情は、エフォリアの解析を常に上回る。まるで、測定不能な嵐のようだった。
私は、その老画家に興味を持った。彼の「歪み」が、エフォリアの更なる進化に繋がるかもしれない。私は、護衛のサイボーグを従え、初めてセレンディピティ・ゾーンへと足を踏み入れた。
アルカディアの完璧な秩序とは裏腹に、そこは混沌としていた。色褪せた建物、無造作に伸びる雑草、そして、埃っぽい空気。まるで、時間が止まったかのような空間だった。
そして、その奥で、私は彼を見つけた。白髪と白髭が顔を覆い、深い皺が刻まれた顔。絵の具で汚れた作業着。その瞳は、まるで遠い記憶を宿しているかのように、どこか虚ろで、しかし強い光を放っていた。
彼の指先は、絵の具で汚れ、しかし繊細な動きでキャンバスの上を舞う。そこには、エフォリアが決して生み出せない、生々しい「感情」が溢れていた。それは、私にとって、理解不能な「美」だった。
彼は、私を一瞥すると、再びキャンバスに向き直った。彼の絵は、私には理解できない感情の塊。それは、エフォリアの予測を嘲笑うかのように、そこに存在していた。この「感情のバグ」が、果たしてアルカディアの「完璧」を揺るがすのか? 私には、まだわからなかった。