失った幸せ
貴族として生まれ育った俺には、幼い頃に決められた婚約者がいた。
始まりは確かに政略だったけれど、俺と彼女の関係は他の政略的に組まれた友人達の婚約よりもずっと恵まれた関係だったと思う。
よく恋愛の話になると聞くような激しく燃えるような心とは無縁な、おっとりとした彼女と過ごすあの穏やかな時間が、当時の俺にとってはかけがえのない時間だった。
でもそんな関係が変わってしまったのは、いつの頃からだったろう。
そう、あれは数日前に成人を迎えた俺に対し伯爵である父が自分の代わりに領地を視察してくるように命じた時だった。
子どもの頃から厳しくも領民を大切にする父の背を見て育った俺は、念願の領地視察を任された事に大きな喜びを感じるとともに酷く緊張もした。
初めて任された本格的な跡取りとしての仕事。決して失敗は許されない。
俺は何日も前から侍従と共に入念に準備をし、領地視察の為王都の屋敷から馬車で領地へと向かった。
直前に会った婚約者との逢瀬で、俺は彼女に対し初めての領地視察でしばらく会えない事を伝えた。
大仕事を目の前にした俺に、彼女はいつもと同じようなおっとりとした口調でこう言った。
「私の事は心配しないで。貴方が領地での視察を成功させる事を毎日祈っているわ。だからどうか無事に戻ってきてね」
心から心配そうな表情をしている婚約者を前に、愛おしいと思う程には俺たちの関係は政略という名の枠を超えていてたと思う。
今思えば政略だなんだと自分の気持ちを誤魔化していただけで、本当は彼女の事を愛していたんだと思う。
心配してくれる彼女をそっと抱きしめ、俺は彼女を安心させる為に慎重に言葉を選び、そして今の俺に出来る精一杯の想いを口にした。
「心配してくれてありがとう。手紙を書くよ」
彼女は笑って俺を抱きしめ返してくれた。
たったそれだけなのに、酷く安心したのを覚えている。
領地に着いてからは現場を視察する為、さっそく準備に取り掛かった。
この視察を無事に終える事が出来たら俺達は正式に婚姻を結ぶ事になっている。俺の活躍を聞いたらきっと彼女も安心してくれる、そう思って気を引き締めて目の前の問題に取り掛かった。
領地の視察は想像していたよりもずっとずっと神経をすり減らすような作業が続いた。現場の責任者と連日面会し現場の状況を把握する。そして問題があれば指示を出し解決に向け人を配置し動かしていく。
精神的な疲労もあったけれど、その度に直前に会った婚約者の言葉を思い出しなんとか持ち堪えた。
そんな日々を送っていたある日、息抜きにお忍びと称し街の酒場に侍従と共に行く事になった。視察も順調に行われていてあの時の俺は完全に気が緩んでいた。侍従は平民だが、俺は平民の暮らしをよく分かっていない。誰にともなく勉強の為と言い訳をし酒屋に足を踏み入れた。
中に入ると人々の活気に満ち溢れた声が行き交っていた。目に映るもの全てが新鮮で、不覚にも視察中だというのにどうしようもなく胸が躍った。
酒場には様々な人がいた。夜も更けていないのにすでに酔い潰れている者、入り口手前で喧嘩を始める者大小様々だったが、その全ての人々が自分の人生を全力で生きているように見えた。
侍従は共にいるがこのような場が初めてだった俺の心は少しの不安と好奇心で浮き足立っていた。適当にビールで乾杯し、侍従と共にその場を楽しんだ。
変装しているからだろうか、近くの席から声を掛けてくる者に自分の身分を悟られた気配はなかった。
それを良い事に自然と俺の手は目の前に置かれた酒へと伸びていく。この時婚約者の姿を思い浮かべていたら、この先何か変わっていたのだろうか。
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目が覚めると隣には知らない少女が裸で眠っていた。一緒にいた侍従はどこにいるのか、昨晩の記憶が途中から全くない事に俺は自分の顔が青褪めていくのを感じた。
慌てて起き上がった俺の動きで、少女の目が微かに開いていく。女性の素肌を見た事がなかった俺は慌てて目を逸らした。
その姿を見て何がおかしいのか少女がくすくすと笑う。
「昨日はあんなに激しくうちを求めてくれたのに、どうして今更初心な態度なわけ?」
「っ!?」
けらけら笑う少女の方を見る事が出来ず俺は素早く服を着てその場を後にする為ドアノブへと腕を伸ばした。すると後ろから少女が声を掛けてきた。
「ねぇ、また会おうよ。うちら相性いいみたい」
思わず驚いて振り向いた俺に少女は素早くキスを落とした。呆然としている俺を見て、まるで悪戯が成功したように笑う少女は首を傾げつつ魅惑的な体を押し付けてきてこう言った。
「うち待ってるから」
俺は慌てて少女を突き飛ばし、急いで部屋を後にした。
今朝の事はきっと何かの間違いに違いない。そう思いながら屋敷へ向かって歩いていると、ふと先ほどの少女の事が頭によぎった。
先ほどは慌てていて分からなかったが、少女の顔は俺の婚約者にどことなく似ていた。まさか自分はまだ婚約者に過ぎない彼女に対し、そんな邪な思いを抱いていたのかと自分で自分を殴りたくなった。
それに今婚約者の顔を思い浮かべるのは、罪悪感で押しつぶされそうだった。ここへ来て自分のしでかした事の重大さが重くのしかかってきていたからだ。
屋敷に戻りすぐに湯浴みをした。どうしてだか自分が酷く汚れてしまったような気がした。すぐにでもこの取り返しのつかない事実を湯と共に洗い流してしまいたかった。
あれから少女とは会っていない。あの日侍従も酔い潰れ別室に女と共にいた事が後から分かった。でも責める気にはなれなかった。
俺はもう成人した大人だ。その大人が自分の行動の不始末を他人に擦りつけるわけにはいかない。少しでも気を緩ませるとあの日の記憶が強制的に蘇り嫌悪感で叫び出したくなった。だから視察に集中する事で無理矢理意識からあの日の記憶を追い出した。
俺はあれから頻繁に手紙のやり取りをしていた婚約者にも便りを送れずにいた。手紙だけではこの事実を彼女が知る由もないというのに、何故だか彼女に筒抜けになるような気がしたからだ。
さらに二月が経ち視察も終わりを迎える頃、屋敷に来訪者が現れた。俺宛の来客だと聞いて嫌な予感はしていたが応接室に行くと相手はあの時の少女だった。
「なんの用だ」
「どうしてそんなにぶっきらぼうなの?あんなに求めてくれたじゃない」
内心目の前の少女に怯えている俺に対し、少女は衝撃的な事を告げた。
「うち、妊娠しちゃったんだよね」
「……は?」
「うちさ、妊娠しちゃったっぽいの。あ、もちろんうちは他の男に体を許したりなんかしてない。相手はあんただけ。ねぇこの意味分かるよね?」
目の前が真っ白になった。あの日の記憶はないが、目覚めた時確かに俺も少女も服を身につけていなかった。状況から見てそういう事なのだろう。
俺は思わず頭を抱えてしまった。こんな事婚約者には絶対に知られるわけにはいかない。俺は動かない頭をなんとか働かせて解決策を見つけようとした。
するとそれまで黙っていた少女が騒がしく声を発した。
「もしかしてあんた、うちの事見捨てる気なの?そんな事したらうちみんなに喋っちゃうからね?領地を取り仕切る伯爵家のお坊っちゃまは平民を妊娠させた挙句弄んで捨てた、って」
その言葉を聞いて俺は覚悟を決めた。少女には周囲に俺たちの事を言いふらしたりしないように言いつけ、代償として秘密裏に囲う事を約束した。不自由にさせる代わりに囲われている間の生活を保証する事でなんとかこの場を納めた。
少女にはこれ以降俺達の間にあった事は他言無用だと伝え、さらに屋敷にも勝手に押し掛けないように念を押した。同時にもしこれらの約束を破った場合は一切の援助を断ち切る事も伝えた。
そして俺は領地での視察を終え、王都にある伯爵邸に戻ってきた。父には視察を無事に終えた事を報告し、領地で起こった自身の不始末を悟られたくなくて報告が済むと早々に疲れたからと自室に籠った。
父には少女の事を最後まで報告する事が出来なかった。もしそんな事をしたら厳格な父は間違いなく彼女との婚約を白紙にし、俺を勘当するだろう。
数日後にある婚約者との逢瀬で、俺は彼女だけには本当の事を伝えるつもりでいた。誠心誠意謝罪して許される事ではない事は分かっている。不貞を犯した自分が言うのもおかしなセリフだけれど、それでも彼女にだけは誠実な自分でいたかった。
久しぶりに見た彼女の姿に俺は涙が出そうになった。何も知らない彼女は俺の帰りを待ち侘びていたと笑顔で言ってくれた。その姿を見て俺は最後まで不貞を犯した事を打ち明ける事が出来なかった。俺はずるい。この時になって俺は彼女を失うのが怖くなった。
あの日の俺は出来るだけ普段と同じような態度を取れていただろうか。彼女の話も上の空で聞いていたような気がする。
次第に彼女の顔を見るのが気まずくて俺は何かと理由をつけて会うことを避けていった。きっと彼女も俺の態度に気付いていただろう。しかし何も言ってくる事はなかった。
月日が経ち少女の出産が近づいてきた。その間俺は少女に付けた監視からの報告を読み少女が約束通りに他者へ言いふらしていない事を確認し安堵していた。
もうすぐ出産を迎える少女にあの夜たった一度の過ちで人生を変えてしまった詫びのつもりで何かと世話を焼いたし、頼まれた物は約束通り何でも買い与えた。本来の婚約者を蔑ろにし、一夜の関係に過ぎない少女に意識が向いていた、だから天罰が降ったのかもしれない。
ある日父に応接室へ呼び出され、向かった先のソファには彼女の父親である伯爵が座っていた。
婚姻はもうすぐだから何か不手際があったのかと思い、思わず声をかけようとした俺を父は片手で制し、椅子に腰掛けるように促した。
そして俺が着席したのを見計らって彼女の父親はゆっくりと口を開いた。
「今日は貴殿に聞きたい事があってこちらへ伺った。貴方には現在下町に囲っている愛人がいるというのは本当だろうか。またその愛人は現在身籠っていてもうすぐ産月だということも」
俺は冷や汗が止まらなかった。下町に囲っている少女の事は細心の注意を払って隠し通していた。出産に当たって心細いという少女の様子を見に行った際も、ともも付けずにひっそりと向かった。それなのに一体どういう事だろう。言葉を失っている俺の姿を肯定と取ったのか、伯爵は机の上に数枚にまとまった報告書を置いた。
「いや、いいんだ。すでに事実確認は取れている。今日ここへ来て君を呼んだのは、私の娘との婚約を白紙に戻した事を告げる為だ」
報告書を受け取った父はしばらく目を通した後、静かにそれを机へと戻し、目の前に座る伯爵へと頭を下げた。
「愚息が申し訳のない事をした。それに御息女には謝罪しても仕切れない傷をつけてしまった。婚約は白紙、こちらの有責で手続きを。慰謝料もそちらの望む金額をお支払いしたい」
俺は父が伯爵に謝罪をしている間、目の前の光景をただ眺めている事しか出来なかった。分かっていた事じゃないか。少女と関係を結び子供まで出来てしまった時点で完璧に隠し通す事は難しい。分かっていたはずなのに、ここ数ヶ月何もなかったから気が緩んでいた。
最後に伯爵へ彼女に会って謝罪をしたい事を伝えても、娘には会わせないと断られた。
父からこの場で勘当される事も覚悟したが、最後まで父が俺に言葉をかける事はなかった。
それからすぐ少女が男児を出産した。
俺の子供だと言われていたのに、生まれた子供の顔を見てみると血縁関係を確認するまでもなく俺には似ても似つかない色味の子供だった。
出産を終えた少女が何やら喚いていたけれど、俺の耳には何も入ってくる事はなかった。
「ははっ」
今更騙されていたと知っても遅い。本当はここで少女に怒るべきなのだろうが、何故だか俺はこの状況がおかしくて仕方なかった。
あの日自分が一人前になったかのように舞い上がり、羽目を外したのは他の誰でもない自分自身だ。
記憶がなくなるまで飲酒をし、隣に寝ていた少女との関係も答えられないような愚か者なのだ、自分は。
あの父がまだ俺を勘当していなかったのは、子供が本当に俺の子か確認する為だろう。
子供の父親が俺ではないと知った今、俺の行く末は決まっている。
少女の行く末も決して明るいものではないだろう。
あの父の事だ。邪魔なものはさっさと切り捨てるだろう。そうでもしなければ当主は務まらないのだから。
でもそれでいいと思う。
婚約者であった彼女を傷つけ、誠実ですらなかった俺がどうなろうともう俺自身どうでもいい。
ただ、傷つけた俺が願うのもお門違いだがこの先彼女には、彼女一人だけを愛してくれる人と幸せになってほしいと思う。
でももしあの日に戻れたら、二度と間違えないのに……そんな夢物語のような事を考えながら俺はしばらく笑う事しか出来なかった。
end.




