山笑う
今の季節、山は笑うみたいだ。お母さんが電話の相手にそう言っていた。それをたしかめるため、ぼくは朝から学校のうら山に向かっている。
うら山には何度も登ったことがある。だけど、ぼくは山が笑ったところを、見たことも聞いたこともない。
お父さんもお母さんもいつも通り、やんちゃな弟にかかりきりだ。ぼくが家を出たことにも気づいていないだろう。
だれに会うこともなく、山のふもとに着いた。散歩をする人くらいはいるだろうと思っていたけれど。
どこに行けばたしかめられるだろう。とりあえず、ちょうじょうを目指す。一人で歩くのもわるくない。
小さな山なので、すぐにちょうじょうに着いてしまった。まだ、山の笑うところは見られていない。
広場のベンチにすわる。けっきょく、ここに来るまで、だれにも会わなかった。世界にぼくだけがいるみたいだ。
なんだか泣きそうになってしまって、空を見上げる。
「一人でここに来たのかい?」
どれだけ空をながめていたのか、ぼくの前におじいさんが立っていた。つばの広いぼうしとスーツで、映画に出てきそうなおしゃれなおじいさんだ。
ぼくはうなずいた。知らない人だったけれど、やさしそうにほほえんでいるからか、ぜんぜんこわくなかった。
「となりにすわってもいいかい?」
ぼくは、またうなずいた。
「ありがとう」
おじいさんはぼうしをぬぐと軽く頭を下げて、ぼくのとなりにすわった。
「君みたいな子が、この山に一人で何をしに来たんだい?」
ぼくみたいなとは、どういう意味だろう。ちょっとふゆかいだ。
「ごめん。言い方がわるかったね」
顔に出てしまったのか、おじいさんは頭を下げた。おじいさんのていねいさにおどろきながら、ぼくは首をふる。じっさい、ふだんならこの山に一人で来るようなことはないのだし。
「山が笑うっていうことをたしかめに来たんです」
「そうかい」
おじいさんはうれしそうに笑った。
「どうして君は、山が笑うと思ったんだい?」
「お母さんが言っていたんです。お母さんはじょうだんがきらいだから、本当に笑うのかなって」
「笑ったところは見られたかな?」
ぼくは首をふった。
「おじいさんは、この山が笑ったところを見たことがありますか?」
おじいさんはゆっくりとうなずいた。
「どうしたら見ることができますか?」
「ここに来るまでにも、見ているはずだよ」
おじいさんはぼうしをかぶって立ち上がると、広場のはしのてすりまで歩いた。
ぼくもおじいさんのとなりに立つ。
ぼくの住む家が見えた。今もお母さんとお父さんは弟にかかりきりなんだろう。
「君は、山が笑うところを見るためだけに、ここに来たのかな?」
ぼくは家を見つめたまま、首をふった。なんだか、おじいさんにはかくしごとができない気がした。
「もう少しだけ、顔を上げてごらん」
言われた通りに、顔を上げる。遠くの山と空が見えた。
「ゆっくり深呼吸してごらん」
言われた通りに、深呼吸する。
「もう一度」
あたたかな日の光と、春のにおいを感じる。
草木のそよぐ音や、鳥の鳴き声が聞こえる。
遠くの山には、あざやかだったり、あわかったり、青空といっしょになって、たくさんの色が見える。
少し前までは、色も音もなかった山に、ぜんぶがもどってきていた。
さっきまでの不安は、やさしく消えていった。
山が笑うことの意味が、分かった気がした。
ぼくがおじいさんの方を見ようとしたとき、後ろからだれかの足音がした。
「やっぱり、ここにいた」
ふりかえると、お母さんが息を切らして立っている。いつの間にか、広場にはぼくたちの他にも人がいた。
おこられるかと思ったけど、お母さんは大きく息をはくと、笑顔でこちらに歩いてきた。
「ごめんなさい」
ぼくとお母さんは同時に頭を下げると、同時に笑った。
「どうしてぼくがここにいることが分かったの?」
「なんとなく、そんな気がしたの」
お母さんは、こまったように笑った。
「わたしも子どものころ、ここにはよく来てたの」
お母さんはベンチにすわると、ぼくをてまねきして、となりにすわらせた。
「わたしのおじいさん、あなたのひいおじいさんが、よくつれてきてくれたの」
「どんな人だったの?」
「やさしい人。それと、おしゃれさんだったの」
おしゃれなおじいさんで思い出した。ぼくは辺りを見回したけど、おじいさんはいなかった。
「さっき、ぼくのとなりにおじいさんがいなかった?」
お母さんは首をふった。
「見なかったけれど。そのおじいさんがどうかしたの?」
「山笑うっていう言葉の意味を教えてもらったんだ」
お母さんはいっしゅんおどろいたみたいだけど、すぐにほほえんだ。
「わたしも子どものころに、ここでその言葉の意味を教えてもらったの。どんなおじいさんだった?」
「おしゃれなぼうしとスーツのおじいさん」
ぼくの言葉に、お母さんはとてもおどろいたみたいだ。
気持ちの良い風がふいて、草のそよぐ音といっしょに、さくらの花びらがひらひらと飛んで行った。
山が笑った。