8.一つ目
「どう……あたし……せい……ちが……あい……おー……せい……でも……せい……よう……よう……」
孤児院の地下で膝をついて震えているクエルは一人小さな声で何かを呟いている。
ルクスの足はその場で完全に止まってしまっている。
「ぐっ!?ううゥ……いぎッ……うううううううううぅぅぅぅぅぅゥゥゥゥッ!!」
クエルは突如頭を押さえて呻き始める。
「クエル!?」
警戒していたルクスであったがその様子を見て慌てて駆け寄る。
クエルの側に片膝をついてしゃがみ、背中を軽く叩いて自分の存在を気付かせる。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああ!!!──違う違う違う違う違う」
驚いたクエルは飛び退くと触れたのが誰かを確認することなく、膝を抱え顔を伏してブツブツと呟きながら震え続けている。
「クッソ!混乱してんのか!?」
情緒不安定となっている状態のクエルから状況を聞こうとルクスは穏やかに声をかける。
「落ち着いてくれ、クエル。何があった?」
「違うの!あたしこんなこと考えてなかった!あいつが!!」
「あいつ?クエル、クエル!一旦俺の話を聞いてくれ!」
「ごめんなさい。ごめんなさい!ごめんなさい!」
「俺のことを見ろ!!」
ルクスはクエルの顔に両手を添え、強制的に目を合わせる。
真剣さが込められた強くまっすぐな瞳がクエルの意識を捉える。
「ル、ルクス?ルクス!?ウソ!?本物!?」
「とりあえず深呼吸しろ。またパニくられたら困る」
「ご、ごめん」
クエルは小さく深呼吸をする。落ち着きを取り戻したクエルは、ほんのり頬を赤らめチラチラと視線を合わせながらはにかむ。
「落ち着いたか?」
「ちょっとドキドキしてる」
「……そうか…何があった?ゆっくりでいい順を追って話してくれ」
「目が覚めた後、あたしの中に今までと違う感覚がある気がしたの。だから魔法が使えるかもって院長に相談したの」
「院長に?」
「うん。だってルクスもユーリスも魔法が使えるし、相談するなら院長がいいのかなって」
「俺たちは院長に言ったことはないんだが……まぁいい、それで?」
「……そしたら話を聞いてたグローディにオース神父に相談するといいって言われて」
「オース神父?」
「そう。あいつが!あいつとグローディが村の皆に薬を──」
クエルの感情が再び大きく波打ち始めたのと同時に、急にルクスが立ち上がり階段の方へ振り返るとクエルを守るように身構える。
クエルは突然のルクスの動きに不安そうに質問する。
「ど、どうしたの?」
誰かの足音。
戦闘中、村の中に人がいる気配はなかった。
魔獣は全て片付けたはずである。
予期せぬ事態の連続にルクスの表情が瞬く間に険しくなる。
状況の把握ができていないクエルは不安そうにルクスの服を摘まむ。
「……クエル、一歩後ろに下がれ。誰かわからないがこっちに向かってきてる」
「え?でも……」
「そこにいるといざという時に動きが制限される。大丈夫。守ってやるから心配すんな」
「……わかった」
クエルは小さく一歩下がる。
その間にも足音は迷うことなく地下へ続く階段を下りてくる。
ルクスは左足を下げて重心を落とし、守るように左腕をクエルの前へとかざす。
「おや!もしかしてルクス君ですか?
おかえりなさい。顔が見れてうれしいですね。
もしかして、あなたが彼らを送ってくださったのですか?あれは心が痛みますからね~。ありがとうございます」
階段から現れた男からは一切の魔力が感じられない。
しかし、ルクスの背後にいたクエルがしゃがみ込み小刻みに震え始める。
「オース神父……であってるよな?」
「おや!私の名前を覚えてくれていましたか!うれしいですね~」
心からの笑顔でオースがルクスに歩み寄ろうと体を傾けた瞬間。
「動くな!!一歩でもそこから動いたらその瞬間てめぇを敵とみなす」
ルクスが怒気を飛ばす。
「?何か気に入らない事でも?
私が何かしましたか?
ああ!もしかして何もしなかったから怒っているのですか?
それは申し訳ない。急用がありまして──」
「その手に持ってるもんはなんだ?薬か何かか?」
オースの右手には一本の注射器。
その中にオーラが目視できるほど、禍々しく強力な魔力を帯びた真紅に輝く液体が入っている。
指摘されたオースは自慢するように薬を掲げる。
「これに目をつけるとは!ルクス君、やはりあなたは素晴らしいですね!
これは魔婚薬というものでして、魔力の有無による差別や不平等をなくすことができるかもしれない新薬なのです。
この薬いまだ未完成ですが、完成した暁には人という種族は新たなステージに到達できるやもしれない!いや、必ずや私が到達させてみせます!」
「新たなステージ?」
「その通りです!人が魔族に並ぶ、いや、超える存在となるかもしれない!
そう、この薬により人は新たな種族へと進化するのです」
「進化?てめぇも魔神の御先とかいうやつか!?」
進化と言う言葉を聞きルクスの魔力が高まる。
その様子を見たオースが慌てて一歩踏み出す。
「ルクス君、魔力の放出をやめなさい!」
「一歩でも動いたら敵と見なすと言ったはずだぜ!」
オースを敵認定したルクスの魔力が一気に高まる。
直後、クエルが呻き声を上げながら苦しみ始める。
クエルの様子は尋常ではない。
小さく丸まり、頭を抱え込み、苦痛に耐えるように体を捻る。呼吸が荒く、時折痛みを誤魔化すように床に頭を打ち付ける。
「何をした!?」
ルクスは怒気を帯びてオースに問いかける。
「彼女が今苦しんでいるのはあなたの魔力が原因ですよ」
「なんだと?」
ルクスは半信半疑でありながらも発していた魔力を抑える。
だが、既にオースはクエルから興味を失い冷静になっている。
「かわいそうに……そこまで症状が進行してしまってはもう手遅れですね。
……残念です。せっかく素晴らしい才能の持ち主であったのに、こんな形でダメになってしまうとは……」
後半は会話ではなく、ブツブツと独り言のように呟きながらルクスに背を向ける。
追いかけて問いただしたいルクスであったが、今なお苦しんでいるクエルのことが気がかりとなり動くことができない。
「おい、待て!俺の魔力が原因ってどういうことだ!!」
「そのままの意味ですよ。やはりあなたの魔力は他人に干渉することが出来るようですね。
神に愛されたその力、非常に羨ましいですね~。
……しかし、クエルは何百年かけてやっと現れた外部魔力を制御できそうな子だったのですがね……本当に残念です。
ああ、別に責めてはいません。私が目を離し、時間を空けてしまったせいですから。また努力するのみです。
そうだ!クエルはあなたが送ってあげてください。その方がクエルも嬉しいでしょうから」
オースは足を止めて振り向き、穏やかに返答する。
オースの言葉が終わる直前、クエルの呻き声の質が変わった。
激痛に悶える声から唸るような声になり、体がビクンビクンと脈打つ。
「ウガ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!」
「クエル?クエル!?」
明らかに異常な状態に、ルクスは片膝をついてクエルに呼びかける。
「ア゛ガッグウウウウゥゥゥゥギア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ガッガッ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!」
「おい!どうなってんだ!!」
ルクスが振り返った時オースは既に姿を消していた。
ルクスはオースを追う訳にはいかない。目の前で起こっている状況がそれを許さない。
クエルの背中がボコボコッと膨れ上がると、肉が外へと押し出されるように体が肥大化し、全身に白く太い毛が生え揃ってゆく。
そのまま地下室の天井を突き破ると、煙の切れ目から月光が差し込む。
「こいつは……!?」
人の形に近い手に鋭い爪、全身を白い毛で覆われた腰の曲がった長毛犬のような姿。
「こいつは……前、村を襲った……クエルが…魔獣に…………送ってやれだと…彼ら?……なら…じゃあ…じゃあ……!!」
「キィィヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
「オォォォォーーーーース!!!」
今の状況が、オースの言葉の意味が、自身のしたことが、ルクスの脳内で結びついてゆく。
理解した内容を整理し呑み込みたいルクスであったが目の前の状況がそれを許さない。
魔獣となったクエルが容赦なくルクスに左手を振り下ろす。
叩きつけた振動により地下室の天井が瓦礫となって降り注ぐ。
「くっ、地形が悪い」
ルクスは床を強く蹴ると地上へと着地し、一つ呼吸するとクエルと相対する。
「ふぅーーー」
「グウウウウキィヤアアアァァァ!!」
クエルの先制攻撃に対し、ルクスは側面を取るように加速する。
側面を取ったルクスは両手に魔力を集中させ、クエルの脇腹めがけて突っ込む。
建物ごと薙ぎ払うクエルの腕を空中へ回避し、背中へと手をつくとクエルを元の姿に戻そうとする。
「動きながらだと効果が薄いのか!?」
クエルに変化はない。
目を青白く血走らせて、なおもルクスへと襲いかかる。
「じっとしててもらうぞ」
クエルの攻撃を回避しながら、赤黒い血液でできた糸を生成する。1本1本が蜘蛛の糸のように細い。
ルクスはクエルの間合いへと踏み込む。
攻撃をギリギリのところで回避しながら、何度もクエルの周囲を素通りする。
ルクスを捕らえることのできないクエルは咆哮しながら辺り一面に当たり散らし、瓦礫と埃が舞う。
準備のできたルクスはクエルからほんの少し距離を取ると、自らに繋がった糸を思いっ切り引く。
すると、糸が絡み合い編み込まれ太い綱へとなってゆく。その綱がクエルへ絡みつき、行動を制限する。
足を取られたクエルは地面へと倒れ込む。
すかさずルクスはクエルの上空へと飛躍すると、ルスヴァンが見せた要領で超巨大な鎹を生成する。そのまま7ヶ所地面へと打ち付け、クエルを固定する。
「グルルルル……」
「先生の技、見といてよかったぜ」
思い描いた拘束の形になったルクスはクエルを何とか元の姿に戻そうと、ゆっくりとクエルに近づき鼻先に手を伸ばす。
クエルの拘束に成功したと思われたルクスであったが、手がクエルに届く寸でのところで後方へと飛び退く。
クエルはガチンと歯を鳴らすと全身に万力を込め、力ずくで拘束を振り解く。
「ギィヤヤヤヤアアアアアアアアアァァァァァァァァァァ!!」
「やっば!」
勢いそのままにルクス目掛けて両拳を振り下ろす。
意表を突かれたルクスであったが転がるように回避する。
クエルの拳が叩き付けられた地面には巨大なクレーターができ、破片が数百メートル上空まで巻き上がる。
「あっぶね!」
常にちょこまかと動き回るルクスに憤り、クエルは怒声を上げ、攻撃の手をより苛烈にする。
ルクスはドンドン速くなるクエルの攻撃を捌きながら、さらに数回なんとか魔法を叩き込む。
しかし、クエルに目立つ変化はない。
それどころか攻撃が掠り始め、徐々にルクスは劣勢に立たされつつあった。
「クッソ……変化なしか……やっぱ持続性がないと上手いこといかないのか!?」
(まずいな。思ったよりも強い、というより対応力が高い。このままだと、さすがに余裕がッ──)
尻尾から撃ち放たれた槍のように鋭く固い毛がふくらはぎを貫き、ルクスの動きが一瞬止まる。
それを逃さず、クエルの攻撃が遂にルクスを捉える。
「ガハッ!」
クエルの攻撃が直撃したルクスは、家2軒をぶち抜き壁に激突する。
しかし悶絶してる暇はない。追撃を加えんとクエルが迫る。
体勢を立て直し横っ飛びに回避することで、何とか直撃は免れるが、腹部の4分の1が消し飛び大量の血が噴き出す。
「ブヘェッ……ゴッポッ……エホッ……エホッ……」
内臓が破壊されたことにより、ルクスの口と腹から大量の血が溢れ出す。
ルクスは、戦うと、強くなると決意した日から苦痛に耐える覚悟をしてきた。
それでも痛いという現実は覆せない。その表情は苦痛に歪み、何とか痛みから逃れようと体を小さく折る。
大きく舞い上がった砂煙の中でクエルの目が不気味に光る。
ルクスはクエルの目を離さずゆっくりと立ち上がる。
「ダメか……」
歯噛みしたルクスは小さく呟くと覚悟を決める。
負傷部に手をかざすと、沸騰するように肉が盛り上がりシューっという蒸気のような音とともに瞬く間に肉体が修復される。
眼前で起きた事象にも、暴虐の獣と成り下がったクエルには攻撃を躊躇する要因にはならない。即座に更なる追撃へと移行する。
高速で振り下ろされるクエルの手をルクスの生み出した刀が貫通する。
「ギィヤア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!」
クエルは痛みから立ち上がり体をのけ反らす。
それでも闘志は衰えることなく、痛がると同時にドリルのように螺旋状にした尻尾を地面に滑らせルクスを仕留めようとする。
ルクスは巨大な盾を生成すると、衝撃のタイミングに合わせ斜めに傾けることで攻撃をいなす。
尻尾をいなしたルクスは強く踏み込むと一気に間合いに入り、クエルの頭部目掛けて刀を振り抜く。
ジリュ
ルクスは目を見開いた。
クエルは振り抜かれた刀を、ついさっきルクスが盾で見せたいなし方を自らの毛で真似してみせたのだ。そのまま、腕を振り下ろしルクスを地面へ叩き落す。
ルクスは魔力全開にし全身を防御した上で、クエルの攻撃を左腕で守る。
だが、勢いを殺すことはできず地面に衝突し反動で体が弾む。
「ぐっ!」
激痛に顔を歪めるも追撃されぬよう、魔法により生成した糸をクエルの後ろ脚に絡ませ背面へと滑り抜ける。
今度はクエルの両脚から血が噴き出る。
「キィヤヤヤアアアアアアアアァァァァァァァァ!!」
「くッそ……これじゃあ無駄に痛めつけるだけか……」
交差際にクエルの脚へと振り抜いた刃も体勢が不十分であり、落とすに至らない。
ルクスの見せた糸を応用して、クエルは長毛を操り止血と縫合を完了させる。
(どんどん適応が早くなってる!?……こいつは……長引けば長引くほど不利になるな)
ルクスは両手に短刀を生成する。
〈──紅威──〉
バックンっと心臓が大きく跳ねると、ルクスの皮膚がほんのりと紅く染まってゆく。
(速度で押し切る!!)
ルクスは地面が沈むほど踏み込むと、クエルの正面から真っ直ぐ突っ込む。
クエルの反応がやや遅れる。
その間にルクスはクエルの背後まで駆け抜ける。
握られた短刀の刃にひびが入り砕け散る。
それでもルクスは止まらない。
瞬時に短刀を再生成すると、体を反転させ空中を蹴り込んで即座にクエルへ向かう。
既にクエルが捉えきれる速度ではなく、縦横無尽に刃が降りかかる。
固くしなやかな長毛に阻まれ皮膚まで到達していないものの、確実に長毛を削ぎ落し、刃がクエルの命にかかるのも時間の問題であった。
本能でその事を理解したクエルは賭けに出る。
ルクスが反転するたびに発生させている衝撃音を聞き、タイミングと角度を計る。
ルクスが左腕方向から迫ると同時に、クエルは今まで鎧のように固く閉ざしていた長毛を一気に広げる。
「!?」
予想外の行動にルクスは止まることができない。
クエルは刃が左腕に深々と食い込む激痛に耐え、逃がすまいとルクスを絡め捕る。
勢いを殺されたルクスの体にクエルの牙が突き刺さる。
しかし、全身を薄く魔力で覆っているルクスの体にはそれほど深くは刺さらない。
致命傷を与えるためクエルは大きく頭を振り、自分の顔ごとルクスを何度も何度も地面や瓦礫となった家や壁に叩き付ける。
ゴリッと牙と骨が擦れる嫌な音がし、ルクスの右腕が下がる。
ルクスの脱力を感じたクエルはルクスを口に加え、勝利を宣言するように高々と掲げる。
だが──
「ごめんな」
ルクスは左手をクエルの目の前にかざす。
次の瞬間、ルクスの掌から突き出た一本の槍が目から脳へと貫通する。
「ガッッ!」
小さく悲鳴を上げるとクエルのもう片方の目から光が消え、ダラリと全身の力が抜けルクスから顎が外れる。そして、そのまま地面へと崩れ落ちた。
ふわりと音もなく着地したルクスは、自らの手によって地面に横たわるクエルを静かに見下ろす。
人の声はもちろん物音一つしない静寂。月明かりに照らされた村は荒れ果て、全体が黒く煤けている。
ルクスはゆっくりと辺りを見渡す。
村に人の姿はなく、あるのはルクスによって生命を奪われた数百体の魔獣の死体。横たわる山のような屍の中に、ただ1人ルクスだけが立っている。
ルクスは血に汚れた自身の両手を見つめる。
「はー……はー……はぁ……はぁ……はッ…はッ…はかッはかッはかッはかッ!!」
戦いが決着し静まり返った戦場の中、徐々に興奮の熱が冷えてゆく。
勝利の達成感も満足感もない。
改めて、自分のしたことが、オースの発言が、悪夢のような現状がルクスの脳裏を埋めてゆく。
呼吸が荒く浅くなり、手が小刻みに震える。恐怖が、後悔が、罪悪感が、嫌悪感がルクスに纏わりつく。
それらの感情を呑み込むように目を閉じ奥歯を嚙み締め、血が滲むほど拳を強く握る。
やがてスルリと力が抜ける。
「…………最悪だ」
ルクスは力なく天を見上げるとポツリと呟く。
そして、フラフラとした足取りで崩壊し2割ほど残った、もう誰も待っていない孤児院へと帰える。
ルクスは震える体を押し殺すように、焼け跡の中に偶然残った、埃だらけの毛布に小さく包まり静かに目を閉じた。