フィグメントの空6
あまり、懸命とは言えない前哨戦だった。
2週間後には公式戦で戦うのだ、今から手札を晒すなど愚策以外の何物でもない。
だが、これほど真剣な挑戦状を誰が断れようか。
合理主義者たる武蔵であっても、これを受ける程度の分別はあった。
「【エンジェル10でヘッドオンからスタート、いい?】」
「《了解した》」
天使がいるほどの高さ、高度300メートルの更に10倍―――高度3000メートルから、試合は開始する。
向かい合い、真正面から接近する2機。
これが試合中なら既に先手を打つべく駆け引きが行われるが、試合の開始はすれ違った瞬間からだ。
よって、2人はひたすらに眼前の敵を睨むに終始する。
「【《―――っ》】」
無言のまま、零戦と疾風は交差した。
武蔵は巡航速度を超え、即座にスロットルを押し込む。エンジンが唸りを上げ、プロペラピッチが最適化され、ジェット戦闘機に匹敵する加速によって身体がシートに押し込まれる。
僅かに操縦桿を引き、武蔵は最適解の上昇に努めた。
局地戦闘機を超える上昇力を誇る武蔵の零戦は、あらゆるプロペラ機の追随を許さない。
まず、上を取る。武蔵にとって当然の、最良たる戦術。
追いすがる者などいない空を駆け昇る零戦、対する疾風もまた高度を稼ぐべく緩上昇をしていた。
「《さて、どうするつもりだ》」
これらがオリジナルの機体なら、零戦の限界高度が11000メートル、疾風の限界高度が12400メートル。
世代が違うこともあって上昇率も限界高度も、あらゆる面で武蔵が不利となる。
だが、競技用機である双方共にターボファンエンジンに換装されている。限界高度はパイロットの肉体的な限界を考慮しないなら20000メートルを超えており、改造コンセプトもあって武蔵の零戦が圧倒的優位であった。
このままでは時雨に勝ち目はない。だからこそ何かを仕掛けてくると考えていた武蔵だが、彼女は結局セオリー通りの戦いを続けるだけであった。
しかし、それは落胆や失望には繋がらない。
不利であろうと有利であろうと、最適解の行動をし続ける胆力こそが重要であることを武蔵だからこそ知っている。
空戦に反射神経や運動神経はさほど重要ではない。詰将棋のように、手順を踏んでいくことが空戦の基本なのだ。
そんな競技だからこそ、非才であっても武蔵は最強足り得る。
「《―――このあたり、か》」
疾風の機動が困難となる、高度15000メートル。
武蔵は寡黙な暗殺者のように、疾風の背後に回り込んで攻撃を仕掛ける。
対峙する時雨の選択は、残り少ない運動エネルギーを喪失してでも真正面から迎え撃つことであった。
「《ん、逃げないのか?》」
ヘッドオンとはバカ正直に敵機を狙い続け、ありったけの弾を打ち込むようなシンプルな戦いではない。敵機銃の射線を避け、牽制し、その後の展開を誘導する高度な心理戦だ。
真っ向勝負といえど、その前提条件は彼我で大きく異なる場合が大半。今回も、また。
緩降下という、操縦しやすい状況の零戦。
上昇しつつの旋回後という、大きくエネルギーを喪失した状態の疾風。
いくら世代の差があれど、これだけの条件が揃っていれば武蔵の優位は揺るぎない。
だというのに、時雨は武蔵に挑むのだ。
自棄になったのか、判断ミスか。
「《そんなはずは、ない》」
武蔵の戦術を知り尽くした時雨が、そんな凡ミスをするはずがない。
そんな確信があるからこそ、武蔵は初撃から手を抜きはしなかった。
僅かに機動をずらし、時雨に揺さぶりをかける。
時雨の疾風はそれに食いつく。真っ向からのすれ違いが、ハの字のように斜めからの合流へと変化する。
武蔵からすれば、再び進行方向を戻せばそれだけで横っ腹に食らいつく好機。お膳立てされているようなチャンスだが、それでも彼の経験は当てられると確信している。
武蔵はそれに従い、ある程度の無駄玉を覚悟しての射撃に踏み切った。
弧を描いて疾風に吸い込まれる模擬弾。
時雨はこの攻撃を、急降下で回避した。
「《公式戦でお披露目するつもりだった戦術よ》」
必中を期した攻撃を、あろうことか回避してみせた。
「《まじかよ。お前、高度1万以上で背面飛行してやがったのか》」
上昇からの、そのままの体勢での急降下。
通常ならマイナスGのかかる無茶な機動であり、その程度の動きなら武蔵も予想していたし対応も出来たはずだった。
しかし、その降下は明らかに鋭角。戦闘機という工業製品が当初から想定している、プラスGでの急降下だった。
ネタは簡単。疾風は元より、背面飛行のまま上昇していたのだ。
「《フォルスキャノピー……妙に上昇が遅いと思ったら》」
そう、いくらなんでも武蔵は優位なポジションを取れ過ぎていたのだ。
疾風とて上昇率は悪くない。敵機の上昇に、確かな違和感はあった。
日本軍機の多くは、上部が緑で下部が灰色であることが多い。
その先入観があったからこそ、時雨の疾風が下部まで緑で塗装されており、更に背面に偽のキャノピーまで描かれていることに気付けなかった。
フォルスキャノピー。空中戦において、敵機を混乱させる為の特殊迷彩である。
無論、特殊なのは塗装だけではない。飛行機というのは、基本的に水平に飛ぶように出来ている。
それなりの長時間背面飛行を続けていたからには、それ専用の改造をしていたはずだ。
あれだけ長時間の背面飛行となれば、機体は当然として、時雨の負担も半端ではない。ずっと逆立ちしたまま操縦しているのと同じであり、フットレバーを操る為に肩にベルトが食い込むほどに全身を緊張させ続けなければならない。
かなりの苦痛を強いる飛び方だ。相当に練習を詰んだ戦術であることは疑いようがなかった。
だからこそ、武蔵は『こんなところで手札を切るとは』と驚いた。
「《だが、それでもこちらの優位は変わらない!》」
確かに想定外の逃げ方であったが、降下中の零戦ならば充分に追いすがれる。
疾風を追うべく慎重にスロットルを操り、操縦桿を引く武蔵。
しかし、そこから時雨は再び上昇へと転じてみせた。
「《―――っ、これって》」
あまりにセオリーから外れた機動に、武蔵は予想しきれない。
再び真っ向から迫る疾風。あるいは衝突するのではないかと思うほどの機動に、武蔵は咄嗟に操縦桿を引いて対応する。
すれ違う2機。そのままに武蔵は操縦桿をなぎ倒し、高度を水平に保ちつつターン。
下手に離脱など出来ない。零戦は本来、急降下や最高速度勝負こそが不得手なのだ。
仰ぐように空を見上げ、疾風の位置を確認する。
武蔵の右旋回と同じく、時雨もまた上昇しつつの右旋回を行っていた。
「《これは、かなり変則的だが―――オフセット・ヘッドオン・パスか!》」
S字を中心から描くように、左右対称に旋回する2機。
しかし、武蔵は時雨の考えを図り損ねる。
この機動は、同じ性能の戦闘機が行えば最終的にS字が8の字となり、再び中心でヘッドオンする。
だが相手より自分が旋回性能で勝っていれば、先にターンを終えて相手の背後を取るチャンスが生まれる。
零戦と疾風。どちらも優秀な旋回性能を有しているが、どちらが優秀かといえば零戦の方が小回りが効くのだ。
だからこそ、なぜ時雨がオフセット・ヘッドオンパスを選択したか。
単純な判断ミスなどありえない。
否、そうではなかった。
大前提から間違っている。旋回性能に優れる方が優位、というのは水平方向で行わた場合の話だった。
このオフセット・ヘッドオン・パスは上昇、下降しつつの縦方向に行われているのだ。
「《あ、まずい》」
気付いた時には、もう遅かった。
疾風のプロペラピッチがリバースに切り替わり、4000馬力のエンジンが急ブレーキをかける。
上昇中の飛行機がブレーキをかけたらどうなるか、などと説明するまでもない。
ラダーが蹴られ、疾風のケツが制御された横滑りを起こして天上へと起立する。
そして、疾風は上昇からそのままに急降下へと移行した。
ハンマーヘッドターン。意図的な失速による、ある意味最速の切り返し方法。
オフセット・ヘッドオン・パスでの勝負に不可欠な旋回性能を、更に別の空戦技能で補ったのだ。
「《――――――っ》」
上から狙われる、その恐怖を武蔵が知らないはずがない。いつも彼こそがやっていることなのだから。
焦りで闇雲に動かしてしまいそうになる操縦桿を精神力で押し留め、相手が最も嫌がる回避行動に専念する。
急降下一撃離脱に特化した武蔵の零戦だが、急降下での逃走には向いていない。脆弱な零戦の機体構造では、プロペラ戦闘機最強格の疾風からは逃げられない。
こうなっては、小手先の勝負であった。
嫌がらせのような回避機動を繰り返し、時にトリッキーな操縦を交えて疾風から逃げ続ける。
いくら苦手といっても、降下中だからこそ機体の性能差が出にくいという部分もある。武蔵が全力で操れば、地力の差は誤魔化しようはあった。
時に、零戦のとっておきの機能である時差入力すら駆使しての遁走。機体が空中分解する寸前の挙動を繰り返し、疾風を翻弄する。
だが、それでも。
疾風の機銃弾は零戦を掠め、時に着弾する。
武蔵の零戦に搭載された独特の機能、時差入力。事前に操縦を入力し、時間差で出力することで高いG中でも細やかな操作を可能とする能力。
これを十全に扱うには、予知に等しい未来予測が必要となる。本来なら武蔵は必要な、そして可能なタイミングで有意義に活用することで戦況を優位に進めてみせることが出来る。
だが、この模擬戦においては勝手が違った。
時差入力という機能を活用出来る、このタイミングであれば敵がどう動こうとこうするべき、という瞬間が極端に少ないのだ。
当然である。この機能と技能は、武蔵が時雨の傍らで構築した戦術なのだから。
どう動いても読まれている、という感覚を武蔵は拭えない。不利な状況に気圧されているからではなく、明確な確信として。
「《むうっ》」
武蔵は口を開こうとして、しかし止めた。
無線が敵味方完全オープン状態であるレジェンドクラスにおいて、言葉で相手を動揺させるのはルール上問題はない。
競技者としてそれを厭う者はいるが、武蔵はそうではない。
だからこそ、追い詰められ気味の武蔵もまた時雨を動揺させようとしたのだが、すぐに口をつぐんだのだ。
実をいえば、彼は時雨こそがそういう作戦をとってくると思っていた。単純に比較すれば、時雨は武蔵に一歩及ばないはずなのだから。
しかし彼女は愚直に、作戦と技術だけで挑んできたのだ。
明らかに対武蔵戦を想定した積み重ね。そんなものを見せられて、相手たる武蔵が小手先の対処など出来ようか。
これは実戦でも公式戦でもないのだ。最悪、勝ち負けは問題ではないのだ。
時雨は、純粋に操縦技能で勝ちたかったのだ。
落ちてゆく高度。2匹の鋼鉄の鷹は、もつれ合うように落下していく。
空中戦は空戦エネルギーの奪い合いであり、長期化すると徐々に速度を失っていく。
2機の有様は既に飛行というよりは、制御された落下であった。
「《まさか、やる気なのか。試合までもうすぐなんだぞ》」
「【ケチ臭いこと言ってるんじゃないわよ!】」
やがて、遂に2機は滑走路の底まで落ちる。
地面効果で辛うじて浮き上がり、歪なほど高いパワーウェイトレシオにて無理矢理に加速。
体勢を立て直した零戦と疾風は、滑走路上を駆けるように舞い、正面から接触した。
「《―――っ!》」
「【くうっ!】」
翼端が衝突しただけだが、脆弱な航空機によっては致命的。
バランスを崩した機体。しかし無理矢理にエンジンパワーで持ち直し、降着装置で地面を削りながら再び両機は浮かび上がる。
そして、くるりと反転した2機は再び衝突した。
「《っ、こういう練習はしてなかった、ぞ!》」
「【アリアさん相手じゃ、ね!】」
エアレーサー、競技用機は簡単には墜落しない。
工業製品としての徹底した安全管理、非常時は搭乗者の操縦を奪ってでも機動修正する自動操縦システム。だが、今回はそういう意味ではない。
貨物を載せているわけでも長距離を飛ぶわけでもない、翔んだり跳ねたりすることに特化したエアレーサーは、そのあまりに極端なパワーウェイトレシオ故に容易く宙を舞えてしまうのだ。
軽い機体に強力過ぎるエンジンは、その気になれば0速度でヘリコプターのように機体を浮かび上がらせてしまう。
よって、空中戦が続き、地面にまで達した場合『こういうこと』が起こるのだ。
翼端が、機体が、降着装置が地面を跳ねる。
墜落判定を受けるギリギリの、しかし機体が生きている限り落下しない状態。
『 Birds cage』。エアレースにおいてのみ発生する、あまりに特殊な戦場であった。
「《こんのぉっ!》」
「【なめない、でえぇっ!】」
滑走路をプロペラが叩き、その反動で急旋回する零戦。
フレームが歪み、配線が断絶する。
ギイギイと泣く零戦の機体に、武蔵は歯を食いしばり更にスロットルを押し込んだ。
相手機に機銃弾を撃ち込めば、それをプロペラによるチェーンソーで反撃される。
敵機が不用意に浮かび上がれば、機体の下に潜り込み、下部を切り裂く。
こうなってしまっては、戦いは凄惨を極めるのだ。
再び撃ち込まれる機銃弾。大きく避けることなど出来ず、なんとか致命傷にならない場所で受け止める。
互いに高度0速度0で墜落しないほどの技量を持っていた場合にのみ発生する現象。
「《っと、まだまだ!》」
「【こんちくしょおおおっ!】」
Birds cageが始まれば、もう離脱する手段はない。
一時離脱や上昇してはあっという間にケツから模擬弾を撃ち込まれる。
相手を出し抜くにはとにかく先手を打たねばならない。例え、それが機体にダメージを受けるような無茶な手段であったとしても。
結果として、 Birds cageを行えるほどのパイロット達は、機体の自壊を前提にとにかく攻勢を仕掛け合うのだ。
よって、こうなった2機はひたすら衝突寸前、あるいは部分的な空中接触を甘受しての平面的ドッグファイトを強いられる。
絶対安全が保証され、機体ダメージもデータ上で計上されるのみであるはずのレジェンドクラスにおいて、死傷者が出る可能性がある唯一の戦い。
一度始まってしまえば、決着が付くまで終わらない。
機体を壊しながら戦う、1流同士のみに許される決闘なのだ。
主翼がひしゃげ、尾翼が失われ、機体外装に大穴が空く。
油圧からオイルが血潮のように吹き出し、キャノピーが蜘蛛の巣を張ったようにひび割れる。
それでも、動翼を手動に切り替え、爆砕ボルトでキャノピーを投棄し、戦いは続行される。
「《っと!》」
僅かに失速するも、ギアが滑走路を跳ねるだけで再び揚力は回復する。
多少車輪が地面を走っただけでは、ルール上はタッチアンドゴー、一時的に滑走路を走っただけと認識される。
敵機を撃墜判定にするには、完全に相手を屈服させねばらなない。
Birds cageを行ったからには、少なくともどちらかは大破するのだ。
「《お前、ここまで折込み済みか―――!》」
「【機体剛性じゃ、疾風に分があるものっ!】」
不意に、零戦のエンジンがストールした。
燃料供給パイプが断絶したのか、ガラガラと不協和音を鳴らして動力喪失したのだ。
ぐちゃり、と崩れ落ちるように滑走路に叩き付けられる零戦。
降着装置は折れ、零戦は遂に地面に伏した。
「【まだ、飛んで、飛べやぁ!】」
疾風もまた、甚大なダメージを受けていた。
だがそれでも、零戦のように堕ちることはなかった。徐々に加速してゆき、零戦の傍らをパスして飛行を安定させてゆく。
やがて、疾風は上昇して安定飛行をしてみせた。
文句の言いようのない、 Birds cageの勝者であった。
「《うわ、負けた》」
武蔵は呆然として、遮るもののない空を見上げる。
力なく、しかししっかりとした挙動で旋回する疾風。
片や、零戦は既に身じろぎ一つできない。火が出てないだけマシという状況。
完全に武蔵の敗北である。
「【武蔵、これで証明したわ。私は貴方に守られるような弱い存在じゃない】」
「《面倒くさい奴》」
「【何言ってんのよ、あんたの面倒くささに私が合わせてんのよ】」
そう言われては、どうにも反論できない武蔵。
疾風は丁寧に滑走路に侵入し、慎重に着陸する。
ゆっくりと減速し、滑走路上に停止。駐機場に移動することもなく時雨が機から飛び降りる。
「どうよ!」
「どうと言われてもな。こうも対俺専用の戦術で来られたら、正直お前が俺に並び立ったのか判断しかねる」
「ケチ臭っ! セコい! 乳首が前方後円墳!」
「さすがに聞き逃せない風評被害があったぞ」
武蔵もまた、動かない零戦から飛び降りた。
普段より嫌に低い主翼位置が、嫌というほど敗北を突きつけてくるようであった。
時雨が武蔵に駆け寄り、武蔵に対峙する。
そのまましばし見つめ合い、時雨は口を開いた。
「す、す……好きです。付き合って、くださいぃ」
「今更照れるなよ」
武蔵は観念したように、そのまま時雨を抱きしめる。
「抱きしめ方が手慣れててなんか嫌」
「実際それなりの数の女の子をハグってるからな」
投光機の逆光、重なる影。
こうして、ようやく2人の確執は終わりを告げたのであった。
しばしの後、苦笑する武蔵と時雨はようやく離れる。
「身体が、熱いわ」
「そうだな、少し昂ぶってるかもしれない」
再度、先程より情熱的に唇が重ねられる。
燃えるように火照る身体。若者達の熱情の炎が、彼らを煌々と照らす。
「なんか、ほんとに熱くない?」
「熱っ、背中が熱いっ、燃え、燃えてるー!?」
彼らの背後で、零戦と疾風が炎上していた。
メラメラと燃え盛る2機。
「これだから Birds cageは嫌だったんだ!」
「いやー! 疾風が、私がレストアした疾風がぁー!?」
やがて基地所属の消防車が現れ、あっという間に炎は鎮火する。
しかし、それで航空機が再び飛べるようになるはずもない。
「「試合、どうしよ」」
2人は大きくため息を吐くのであった。




