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フィグメントの空1



 彼の兄は少し―――いや多分に頭のおかしい人だった。

 彼が物心が付いた頃から、記憶の中の兄はいつも上を見ていた。比喩や形容ではなく、文字通り空ばかり見ている人物だった。

 兄は当然のように猛勉強に励み航空学生となり、航空自衛隊の練習機に乗る身分となった。

 人は兄を『空に取り憑かれている』と揶揄したが、その評判ほど周りが見えていない人でもなかったと記憶している。兄としてそれなりによく出来た、普通の感性の持ち主だった。

 そんな兄は変わり者なれど憧れであったし、いつしか弟である彼も航空機に興味を示したのはある種必然だったのだろう。







 だが兄は帰ってこなかった。







 一部では護国の英雄などと持て囃す声もあったが、そんなことはどうでも良かった。

 彼はずるいと思った。兄は散々好き勝手生きて、その最中で死んだのだ。これほど卑怯なことがあろうか。

 死んでしまっては、追いかけることもままならない。今思えば兄は不完全な人間だったが、それでも空を目指すという意味では完成され尽くした人間だった。


「《おい! 機体が保たないぞ、それ以上昇るな!》」


 無線機のヘッドフォンから聞こえる警告を無視し、彼は更にスロットルを押し込む。

 零式艦上戦闘機。通称零戦。

 第二次世界大戦において他に例のないほどに極限まで軽量化された超超ジェラルミンの骨子を持つ、日本海軍の代名詞ともいえる戦闘機。

 彼が駆るのはただでさえ軽い機体を、炭素素材と強化プラスチックに代替することで更に重量軽減した改造機だ。

 搭載エンジンは2000馬力オーバーのゼネラル・エレクトリックのT700カスタム。重量150キロにまでシェイプアップされた超小型高出力エンジンが甲高い悲鳴を上げ、貪欲に高空の酸素を欲する。

 軽い機体は不釣り合いに強力なエンジンに耐えきれず、ミルスペック設計であるにも関わらずプロペラが異常振動を起こす。高度を稼ぐべく多くの機能を削った零戦は、許容限界の閾値が低いことを当然彼は承知している。

 それでも、彼が支払える対価はそのリスク以外にはもうなかった。非才たる彼は、多くを犠牲にしてこの高空まで上り詰めたのだ。

 ルーレットのように回る高度計。やがて空は天頂まであと僅かまで迫り、何もかもが希薄な造り物の世界は藍色に染まる。

 高度20000メートル。プロペラ機としては尋常ではない狂気の高度に達し、それでも尚零戦はその機能を喪失していない。

 零戦の狭いコックピットに与圧などはなく、呼吸を保証するのは酸素マスクのみ。南極大陸に匹敵する極寒に身を晒され、火傷しそうなほど不親切な配置の電熱線が低温火傷を起こす。

 周囲360度、あらゆる方向を見渡せど15キロ圏内に誰もいないという事実。およそ普通の生活においては経験しえない孤独が精神を苛む。

 ジェット戦闘機並の上昇速度を披露する零戦、しかしそれでも兄の幻影には追い付けない。いつしか上昇は毎秒数メートル単位にまで落ち込み、零戦の熱はこそげ落ちていった。

 高度という姿なき絶壁。これを超えることを許されるのは宇宙用の往還機のみであり、零戦にその資格はない。

 そして、機体は限界を超える。エンジンが不意に停止したのだ。

 ストール(酸欠)し、ガラガラと不協和音を鳴らすターボシャフトエンジン。零戦はきりもみ状態で回転しつつ、大気の海へと堕ちていく。

 高度の余裕は充分にある。対処療法であれど乱流翼を追加した翼はかろうじて気流を掴んでおり、時間をかければ姿勢を立て直すのはそう難しいことではない。

 流れる大気の中、彼は焦ることもせず蒼穹へと手を伸ばした。


「―――まだ、届かないんだな」


 ふと漏れた言葉が記憶と違うことで、武蔵はここが夢の中だと気が付いた。

 爆撃機侵入から始まったアジア情勢の混乱、『大陸解体』は既に久しく。

 幸いにして軽い被害で済んだ日本の空は、武蔵のような競技者であっても受け入れるまでに治安を回復させている。

 それでも、届くかどうかは別問題。懸命に翼を開こうと、風は武蔵に優しくはなかった。


「《エマーンジェシー! エマーンジェシー!》」


 ――ー否。違うのだ。

 空に幻想を押し付け、勝手に裏切られたと感じたのは彼の個人的な事情だ。

 空は常に超然と存在し、万物を受け入れ続ける。禁断の爆弾を搭載した爆撃機も、無垢な夢を乗せた練習機も。

 そこに境界も壁もなく、ただ風が吹いているのみ。何人たりとも自立せぬ者を許さない無情な、自分の脚で立つ者を国も宗教も選り好みせず許容する暴風が。

 そんな空が、根本から間違ってきたこの男を許すはずがなかった。


「《|白露 時雨が意識を失った! 遠隔操縦に切り替えろ、脱出させるんだ!》」


 当然であろう、彼―――大和武蔵は、空を愛してなどいないのだから。

 濃度を増す大気。零戦は生物の生存を容認しない高い空から、煩雑な俗世へと回帰する。


「《おいっ! 聞いているのか貴様! 白露はお前を止めようと無理をしたんだぞ!? お前のスタンドプレーが事故を起こしたんだ、理解しているのか!?》」


 端目に移る落下傘。そこから吊り下げられた、力なく弛緩した時雨。

 彼を慕い、尊敬し、拙い恋愛感情すら告げてきた健気な女性。武蔵は彼女に視線を向ける。


「―――間抜け」


 そしてかつての武蔵は、そう呟いたのだった。

 所謂、黒歴史という奴である。

 思い出すだけで恥ずべき、どうしようもないかつての自分。

 そんなものを見せ付けられて、武蔵は消沈する思いであった。

 まるで夢の中で失速した零戦のように、地の底まで落ちていく感覚。

 どれほど落ちたのか。不意に背中に強い衝撃を受けて、武蔵は呼吸を止める。


「は、はは、そうか、次は俺か」


 時雨は無茶な飛び方をする武蔵に追いすがらんとした。

 果たして追い付いたところでどうしようというのか、当時の彼女がどう考えていたのかまでは解らない。

 だが時雨は限界超えても操縦桿を戻すことはなく、結果彼女は意識を喪失し、エンジンは停止した。

 どのような状況からでも安全に着地してみせる自動操縦装置だが、エンジンの再始動までは完全な安全を保証していなかった。意識のない時雨にその操作を行えるはずもなく、管制塔は彼女を脱出させた上で自動操縦による着地を試みたのだ。

 結果、時雨の四式戦闘機はエンジン始動に成功して無事着地。

 脱出した時雨は、無意識下での脱出という無茶の代償に、神経に大きなダメージを負った。

 数十年前であれば絶望的な負傷だった。現代においても軽症で済むはずはなく、時雨はその後半年間のリハビリを強いられた。

 その事故の責任が誰にあるかは、議論の分かれるところであろう。

 無茶な飛行を行ったのは武蔵だが、武蔵に分相応に着いて行こうとして痛い目を見たのは時雨の自業自得だ。

 だが何にせよ、結果だけが残った。

 時雨は武蔵を想い続けた。

 武蔵は空に絶望した上に、負傷した恋人を置いて逃げた。

 武蔵が時雨を苦手に思うのは、あまりに情けない負い目があるからなのである。







『2045年7月4日』







 夢であることは夢の中の時点で気付いていたが、どうやら背中の痛みは現実であるらしかった。

 ベッドから落ちて、見慣れた天井を見上げる武蔵。

 ごく普通の就寝中の、彼にとってありふれた悪夢だった。

 背中の衝撃もそうだが、悪夢は悪夢なりに就寝中の武蔵をうなさせていたのか、なんとなく呼吸も荒い。

 そんな彼の手を、優しく取る人がいた。


「うわ、落ちちゃった。まあいいわ、正気に戻る前に拇印、拇印っ」


 武蔵の指から拇印を取ろうとしている時雨であった。

 武蔵は泣きたくなった。こいつがこんなのになったのは武蔵の責任なのだ。

 自宅で寝ている最中に、家に侵入して想い人をベッドから落とし、拇印を奪おうとする女になってしまったのだ。

 色々死にたくなる案件である。


「一概に俺の全責任とは言えないと思うんだ。普通ここまで拗れた拗らせ方しないだろ」


 確かにきっかけではあったのかもしれない、だがヤンデレ化した全ての責を問われても困るというものである。

 ある意味、武蔵は彼女のアレっぷりに救われたといえなくもない。


「まさかお前、そういうことまで考えて道化を演じて……?」


「くんかくんか! ふええっ、武蔵の匂いが染み付いたベッドぉぉぉっ! ぶへへへへへっ!」


「これ素だ」


 武蔵は正気を失っている時雨から手を引き抜き、部屋からの逃走を試みた。

 しかし廊下への扉は本棚をずらして封じられていた。


「くそっ、変なところで用意周到なやつめ!」


 しかしムサシときたら大したものだ。

 事前に把握しておいた、信濃作の秘密の出入り口をわざと放置していたのだ。こんな時の為に。

 貼った覚えのないグラビアポスターを引っ剥がすと、その裏から人が通れるほどの穴が出現する。

 そして、その穴の先には少女趣味丸出しの妹の部屋。

 ベッドの上には、奇妙な動きをする妹の姿がおぼろげに見えた。


「ぶへへへへっ! おにいちゃああああん!」


「くそっ、こいつもか!」


 こんな夜中に、信濃が兄の名を叫んで何をしていたかを問い詰める気は彼にはない。

 スウェットに片手を突っ込んで何をしていたか、武蔵はさらさら問い詰める気などない。

 ないが、かといって取り込み中の妹の部屋に突撃する勇気は流石になかった。


「逃さないわよ、武蔵いいいっっ!!」


「こえーよ!」


 ところがムサシはやっぱりえらい。

 武蔵の部屋の出入り口は1つ2つではない。第3の出入り口があるのだ。

 窓を開けて外に出る。建築法を絶対にクリアしていないであろうちゃっちい橋を渡ると、隣の民家へと突入。

 そろそろ本格的に暑いせいか不用心にも開けっ放しとなっていた窓を開けると、室内へ侵入した。


「寝苦しいのです、サンタアリア」


 アリアの部屋である。

 ベッドの上には当然のように部屋の主たる少女が寝息をたてている。

 布団を吹っ飛ばして眠る彼女はまこと色気に欠けていたが、それでも信濃の恥態を見た後とあってはとても健全で尊いものに思える武蔵であった。


「こらっ、外にはいっちゃいけないったら!」


 慌てた様子で追いかけてきた時雨。慌てているからなのか、発言が奇妙なことになっている。

 武蔵といえど、アリアの部屋はともかく廊下に出て家の中を走り回るのは躊躇われた。ここから先は不法侵入になってしまう。

 仕方がなく対峙する武蔵。ジリジリとにじり寄る時雨。眠る部屋の主たるアリア。

 窓からは信濃の「オゥ、オゥ、イエース! イエースカモーン!」という洋物風の嬌声が聞こえてくる。

 武蔵は諦めない。例えメインヒロインが騒ぎに気付かず眠りこけていても、ツンデレが夜中に不法侵入してきて拇印を求めてきても、妹が「イエスイエース! フォック! フォックススリー! ガンナウ!」と機銃を発射していても、決して諦めなどしない。

 武蔵は花純に電話した。

 コールが1つ終わるより早く、電子音の後に涼やかな声が聞こえる。


「《ご主人様、ご要望をどうぞ》」


Broken(ブロークン)  Arrow(アロー)! Broken Arrow!」


 ブロークンアロー。この言葉には、2つの意味がある。

 1つは、事故的な核兵器の喪失案件。

 そしてもう1つが、進退極まった状況における、味方への損害を覚悟した無差別爆撃コール。

 即ち、『この場はにっちもさっちもいかないから、爆撃して戦場を引っくり返してくれ』という最悪の要請である。

 すぐに無数のドローンが接近し、スタングレネードが投下される。

 閑静な住宅街に轟く爆音と閃光。連鎖して吠える犬。獣のように身体を震わせる信濃。


「なっ、どこ―――!」


 武蔵はすかさず時雨の脇を抜け、橋を渡り、自室に飛び込んで窓の鍵を締めた。


「ふう、これでなんとか……っ、―――!」


 天啓が降りた。

 否、それは降りたなどという生半可な発想ではなかった。

 天啓の急降下爆撃。スーツカのそれに匹敵する、武蔵の脳天を貫く雷鳴。

 もう爆撃なのか雷撃なのか判らなくなっているが、ともかく武蔵の紫芋色の脳細胞は思考停止に等しい無思慮っぷりで行動を開始する。

 鍵を開け、窓を開き一言。


「しぐれかわいい」


「えっ」


「かわいい女の子の脱ぎたてのパンツほしいなー。誰か提供してくんねーかなー」


 とても頭の悪い提案。

 しかし、時雨はそれでも釣られた。釣られてしまった。

 餌の枯渇した環境下では、ルアーでも容易に引っかかってしまうのである。

 スッポンポンと下着を脱いだ時雨は、脱ぎたてほやほやのパンツを武蔵に差し出した。


「はい。……大切にしてくれると、嬉しいです」


「あ、ども」


 武蔵は部屋にあった軍手でそれを受け取り、再びアリアの部屋へと戻った。

 彼の奇行に訝しみつつも、一応ついていく時雨。

 アリアは騒ぎなど素知らぬ顔で、依然悠然と眠り続けていた。

 寝相が悪いのか、ベッドから落ちてスケキヨのように逆立ちをしているがむしろ都合がいい。

 上下逆さまのまま天使のように整った容貌を穏やかな表情のままに晒す彼女のパジャマを剥ぎ取り、武蔵はパンツを時雨のそれと交換した。

 するとどうであろうか。なんと、武蔵は合法的に現役女子高生の脱ぎたてパンツを手に入れてしまったのである。


「よし」


 時雨はちょっと泣いた。


「武蔵が喜ぶのなら、私はそれでいいわ」


「そうか―――時雨は、強いな」


「ううん。私は強くなんかない。ただ、そうしたいからするだけよ」


 寂しげに笑う時雨。

 彼女には、これからもそんな強さと優しさをずっと持ち続けてほしい。

 武蔵はそんな気持ちを真っ直ぐに時雨に伝えた。

 時雨はガチ泣きした。

 さすがに憐れに思った武蔵は、彼女の頬を伝う涙をそっとハンカチで拭った。

 アリアの部屋から拝借したハンカチである。

 時雨は暴れだした。

 アリアは結局、最後まで起きなかった。







「結局お前、何しに来たの?」


 武蔵がアリアのパンツを額縁に入れながら、時雨に訪ねた。


「……ふん。私にそんな態度を取ってもいいのかしら?」


 武蔵は表向ききょとんとした表情を作りつつ、内心舌打ちする。。

 彼は気付いていたのだ。時雨がやってきた時点で、深夜12時を超えていたことを。


「そう、既に運命の24時間は始まっているの。これから1日、私は武蔵に何をしてもいいということよ」


 武蔵は国外逃亡を本気で考えた。


「動かないでね」


 これが命令なのだとしたら、初手から武蔵の逃走は封じられてしまった。


「とりあえずこれ」


「なんだ?」


 武蔵は手ぬぐいを頭に巻かれた。


「なんだなんだ、元々薄暗いのに何も見えないぞこれでは」


「その状態のまま、この紙にサインをしなさい。フルネームで、綺麗にね」


「怖い」


 武蔵は恐怖した。

 ただ武蔵の直筆サインが欲しい、なんて事情ではないことは明らかだ。

 書けば、なんらかの書類が完成する。どう考えても碌でもない書類なのは明らかである。

 名前記入欄の位置から、おそらく婚姻届の類ではないことがほぼ唯一の救いであった。


「さあ書きなさい。私の言うことが聞けないの?」


 いつになく強気な時雨。

 他チームへの協力という無茶をさせた身としては、武蔵に抗う術はなかなった。


「外泊許可書とかじゃないだろうな」


「…………。」


「なんか言えよ」


 立場の優位を足がかりに、更に優位な状況を構築する。

 ランプの魔神に願い事の回数を増やすようなインチキだが、世の中そんなインチキは案外通用したりするものだ。

 もっともそういう手段を使うのはもっぱら武蔵であり、頭のインチネジが数本抜け落ちた系女子である時雨とてまだまだ良識に従って生きているのであまり心配はいらない。

 完全に真っ黒な契約ではないはずだ。武蔵はそう自分に言い聞かせながら、一応指先に集中して、おそらく綺麗であろう字でサインを書き込んだ。


「これでいいか」


「…………。」


「どうした、無言はやめろ」


「成功ね」


 何が成功なのか。何か見落としたのだろうか。

 武蔵は手ぬぐいを取り、思わず辺りを見渡した。


「どうしたの? 何もしてないわよ?」


「その弁明がまずおかしい」


 身体をぱたぱたを触るも、特に不審な点はない。


「公文書偽造はするなよ」


「バカね、書いたのは間違いなく武蔵なんだから偽造にはならないわ。どちらかというと強要罪よ」


「……そうだな」


 真っ黒だった。

 こんな女に誰がした、と問われればまあ間違いなく武蔵の影響なので、彼としても糾弾しにくい。


「時雨さんには、これからも健やかに成長して頂きたいと思います」


 定型文的なことを言いつつ、武蔵は家から時雨を追い出した。


「まったあっしたー!」


 いつになくイキイキと手を降ってから帰路につく時雨。

 また明日というが、まさか言葉通りに24時間後ではあるまい。

 彼女は早朝から行動を開始するはずだ、その為に今日になった瞬間に契約書へのサインを強いたのだから。


「一応家まで送るべきだったか」


 あれでも女性である。マナーとして安全に送り届けるべきであっただろう。

 若干罪悪感を感じつつ、武蔵は家に戻った。

 そして翌朝、武蔵は酷い目に遭う。







 新しい朝が来た。

 絶望の朝だ。


「信濃、お兄ちゃんは今日お腹痛いから休むことにするよ」


「引きこもりはその一言から始まるんだよ、お兄ちゃん」


 美しい妹は、そっと兄の手をとって奮起を促す。

 昨日の恥態を晒した人物とは思えないほどに、妹は兄を真摯に心配していた。


「お兄ちゃんは、これからはもっと健全で規則正しい生活を心がけた方がいいと思う」


 武蔵は心底、反応に困った。

 ある意味、信濃ほど健全かつ健やかに生きている者はいないのではなかろうか。

 彼女の堂々とした言葉からは、そんな錯覚を抱かせるほどの説得力が醸されている。


「俺もお前ほど強く自由に生きたいものだ」


「自由の不自由さを嘆いたら人として終わりだよお兄ちゃん」


「妄言だ、聞き流せ」


 少なくとも、武蔵には人が通れるほどの大穴が開いた隣室であれほど声高らかに愛を叫ぶ勇気はない。

 彼女の度胸からすれば、隣人の美少女のパンツを強奪するなどシャイボーイのかわいいイタズラでしかないだろう。

 リビングの壁にかけられた額縁、それに収まったパンツを一度見つめて、武蔵はそう自己分析した。


「…………?」


 図々しく今日も朝飯をタカりに来るアリアは、下半身に違和感を感じつつももくもくと食事を続けていた。

 テレビからBGMのように垂れ流す朝のニュース番組。

 どうやら、神田川の動物園でボノボがうさぎ小屋に入って出られなったらしい。


「やべー組み合わせだねお兄ちゃん」


「もうなんていうか、なんだそのニュース」


「ーーー!」


 妙なニュース番組。それを聞いたアリアは、きゅぴんと即座に目を醒まして外出の準備を始めた。


「私はもう家を出るのです」


「おう、どうした。ボノボ見たいのか」


「私に触れたら火傷じゃすまないぜ……」


 意味不明な決め台詞を残し、そそくさと大和家を出ていくアリア。

 彼女のことはさして気に求めず、兄妹はマイペースに朝食を続けるのであった。







 玄関から出ると、そこで時雨と花純が睨み合っていた。

 この2人、ほぼ同時刻から大和家の前でスタンバイしつつ、互いに「なんだこいつ」と思っていた。

 しかしもしかしたら色恋沙汰とは別件、あるいは信濃やアリアに用事があるのかもしれない。

 そんな可能性を捨てきれないからこそ、どうにも互いに声をかけにくかった。

 「私の武蔵に手を出すんじゃねーぞ」と牽制しておいて「いや別件だし。何言ってんのあんた」と返されたら羞恥で悶えること請け合いである。

 よって、2人は武蔵が現れるまでひたすら無言のままに腹を探り合っていた。

 それはさながら冷戦。大国同士の睨み合いが如き、誰も勝者のいない戦争。

 しかし、均衡は崩された。

 武蔵という名のキューバ危機は、明確に冷たい戦争に熱を差し込もうとしていた。

 しかし、そうはならなかった。


「――――――。」


 口火を先に切ろうとしたのは花純。

 財閥の令嬢として海千山千の彼女が本気で討論すれば、時雨に勝ち目などない。

 だからこそ。だからこそ、時雨は初手から最大火力を持ち出した。

 弾道ミサイルのように懐から飛び出したのは、1枚の紙。当然ながら、「武蔵を24時間好きにしていい権利に関する権利書」である。

 しばし歯がゆそうに唸っていた花純は、しかしすぐに調子を取り戻して武蔵に深々と一礼した。


「おはようございます、ご主人様」


「ウム」


 なにがウムだ、調子に乗るな。

 武蔵と花純以外の全員が内心そう思った。


「協定に基づき、今日はご主人様と共にあることは出来ません。我が身の無能をお許し下さい」


「大義である、花純よ」


「恐縮であります」


 なにが大義だ、調子に乗るな。

 武蔵と花純以外の全員が内心そう思った。

 アリアに関しては、既に騒ぎの脇を抜けて学校に向かっていたのでいない。

 とことんメインヒロインの自覚がない女である。


「あー、うん、こっほん」


 咳払いをした時雨は、気を取り直して予め考えておいたセリフを口にした。


「おはよう! もう、やっと出てきたぁ。遅刻しちゃうよ武蔵くん!」


「はっ」


 時雨は絵に描いたような、テンプレな幼馴染みキャラを演じた。

 武蔵は鼻で嗤った。


「何のつもりだ。気持ち悪くてゲロるわ。おーろおろろー」


「そこまで言うのがお兄ちゃんだね」


「さあ、学校に行きましょ! おてて、繋いであげちゃうから」


 そう言って、右手を差し出す時雨。

 交渉とは元来、握手とは反対の手でナイフを握るものだ。

 時雨の左手には武蔵自由権利書がはためいていた。


「しかもいつの間にか花純がいなくなってるし」


 忠犬花純は約束を遵守するらしい。

 まさかあの頑固者を排除して見せるとはと時雨を見やると、彼女はキョトンとした表情で首を傾げてニパッと笑った。

 こんな拗れた奴でも、いや拗れた奴だからこそこれほど屈託のない笑顔を人に向けられるのだろう。

 無邪気とは元来、恐ろしいものなのだ。


「お兄ちゃん、そろそろ時雨ちゃんと向き合ってあげようよ」


「そうは言ってもなあ」


「ヘタレ」


 いーっ、と唸って武蔵を嗜める信濃。

 時間が解決するという言葉もあるが、時間が経てば経つほどに拗れた関係は絡まっていくものだ。

 2人の繋がりを正すには、もう一度力づくで糸を千切って結び直すしかない。

 それはある種、武蔵と時雨に共通した認識なのだ。


「そしてその機会が訪れるのは、次の試合の後ーーーだと思ってたんだが」


「くんかくんか、ぶへへへぶえええええっっっ!」


 武蔵に縋り付いて匂いやら何やらを嗅ごうと必死になる時雨。

 美少女が寄り添ってくるというのに、全然ドキドキしない武蔵。


「お前って普段は抑えているが、リミッターが外れたら0,6信濃くらいになるんだな」


「私の名前をお兄ちゃん大好き度合いの単位にしないでよ」


 次の公式戦、時雨達との決戦は2週間の後である。

 14日間。それなりに長くも短いこの猶予を、参加チームは粛々と練習調整に費やすべき。

 馴れ合いなど許されない。いざ試合となれば、それまで費やした全てをぶつけ合う相手となるのだ。

 ……だというのに、何故か時雨はグイグイ来てしまう。

 堪え性がないというべきか、ここまでくると武蔵だって戸惑ってしまうのである。


「肉食系女子って奴なんだよ」


「狩猟系女子じゃねーかな、もう」


「ほら、はーやーく!」


 手をぶんぶん振って手招きする時雨。

 どの道登校はせねばならないので、兄妹は歩き始める。


「―――おかしい。何か、違和感がある」


 時雨は信濃ほど外見を気にしないわけではない。少なくとも、人目があれば少しは自重していた。

 しかし、1日好きにしていいデーが開始したからといって、いきなりこれだ。

 何かおかしい。武蔵は、そんな違和感を感じたのであった。


「何か、大きな違和感が―――」


 数分後、武蔵は気付いた。

 通学ルートがいつもと違う。

 というか、目的地がどう考えてもいつもと違う。

 あっ、やべえなこれ。

 武蔵がそう気付くのは、あまりにも遅すぎた。

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