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リバー・リバー・リバー  作者: 大堀晴信
1/3

出会って5秒

 ガラス張りのドアが並ぶ細く狭い通路を抜けて、左へ曲がった突き当りにある男便所をおぼつかない足取りで目指す。


 このカラオケ屋は古くて小汚い7階建ての雑居ビルで、奇数階が男便所、偶数階が女便所となっている。不便極まりない。


 トイレとは呼ばず、便所と呼ぶのがお似合いの薄汚いけど定期清掃だけは気にしている便所。


 0時からのフリータイムで朝の5時まで飲み放題。ちなみに今何時かはわからない。


 確か今オレがいるのは5階のはずだ。でも、ここが4階であろうと6階であろうと、左に曲がった突き当りにある便所は小便をする所であることに間違いはないはずだ。


 何処からか漏れてくるノリノリで下手くそなウタ声を鼻で笑い、オレは愉快になる。


 左に曲がり、ぼんやりと青い紳士型のマークが目に入ると、少しだけ冷静になり、愉快に加えて少しうれしくなった。ここはやっぱり5階だ。


 今日便所に来たのは何度目のことだろうか。用をたして鏡をのぞくと、少しだけ目の周りが赤いが、それなりのオレが映っていた。


 自分の顔に触れてみると手のひらも顔の皮膚も、サイズが微妙に合わない借り物のスーツのように違和感を感じる。そしてあの爆音の鳴り響く小さな部屋にいたことにも違和感を感じる感じる。


 戻るのかったりいなと鏡に向かって呟いていたら、いきなりバコンッ! と個室のドアが勢いよく開いた。オレは酔っていて驚きはしなかったが目を疑った。出てきたのは女だったのだ。でも、もしかしたら女の格好をした男なのかもしれない。今のオレが判断するには、もう少し近くで見なければわからない。


 カツコツとヒールを鳴らして、壁づたいにこちらに向かってくる。腰のくびれから弧を描くように膨らむラインは膝許ですぼまり緩いアールを描き足首はへし折れそうに細く黒いヒール。


 ほのかに柔らかく甘い香りが流れ、女であることを酔っているオレの脳ではなくて本能が感じとった。


 女は男用の便器に腰をぶつけてよろけた。やはりここは男便所だ。女がゆらゆらと揺れているのは、オレが酔っているせいなのだろうか。


 女がオレに向かって歩いてくる。虚ろな目でオレを見つめながら歩いてくるのだ。すると近づいてきた女がオレの目の前で足をもつらせてバランスを崩した。オレは女の肩を掴んだ。細いけど柔らかい肩だった。


 大丈夫? とオレが訊くと、女は虚ろな瞳で顔を上げた。空気がとろける。


「キスしようか」


「うん」


 どちらが「キスしようか」と言って、どちらが「うん」と言ったのかわからないが唇を合わせた。


 唇も柔らかくて何よりも気持ち良かった。キスでそう感じたのは初めてだった。オレはそれをもっと濃密に感じたくて、できるだけ唇を緩めた。今まで生きてきたなかで、こんなに柔らかいものをオレは知らない。


 オレは堪らず女の腰を引き寄せた。女から吐息が漏れる。オレは何故か涙が出そうになって、それはよくないと思い舌を入れた。まるで意識の向こう側で起こっていることのようで舌がおかしい。でもそれは決して悪い意味ではなくて、オレのなかにある動物的本能が、意識を凌駕しているからだ。口の中だけがオレの所有物ではなく、別の意思を持った生き物のようだ。


 ヤバイと思った。心臓が震えてきた。心臓なのか? わからないけど身体の中心の何かだ。


 女の腰に食い込ませた指先まで震えてしまいそうだ。だからオレはさらに女の腰を強く引き寄せた。女から甘い吐息が零れる。オレはゾクッとした。


 ドアが開く音がしたがオレは聞こえないふりをした。ここで目を開けてしまえば、すべてが終わる気がしたからだ。オレは終わらせたくなかった。こんなにも官能的なキスは二度とないと思ったから。でも女は目を開けてしまったようだ。


 それもそのはず、トイレに入ってきた男が冷ややかな目でオレたちのキスを見ながら用をたしていたからだ。女は恥ずかしそうに俯いた。


「濡れてたでしょ?」


 何故かそんな台詞がオレの口から零れた。女を辱めたかったわけでもないのに、そんなことを言ったオレはやはり酔っている。

 

 オレは男便所を飛び出していった女を追うことをしなかった。そして覚束ない足取りで506号室を目指す。


 やかましい自分の部屋に戻るとジーマを一気に飲み干した。さらにもう一本、一気飲みしようとしたが、少しだけ飲み残してしまったところで、オレにマイクがまわってきて、ハイテンションでアップテンポな曲のキーを上げて、必死に歌い切り、残りのジーマを飲み干して大声で騒いだら、あれは夢だったのかもしれないと思った。



 5時になり外へ出ると空の向こう側が少し明るかった。夜と朝の境目だ。こういう空は好きだった気がする。


 駅前のロータリーで仲間たちと解散した。電車が動き出している。出勤するのであろう大人たちが駅に吸い込まれていく。死人のような顔で。


 そんな光景に徐々に酔いが冷めていく。この大人たちは何のために生きているのだろう。いずれオレもこんな顔をして生きていかなければならないのだろうか。絶望に似た脱力感に襲われる。


「ケージ、お水買ってきたよ」


 マミがミネラルウォーターをオレに差し出した。それで口を濯ぎ吐き出す。そんなオレを横目にサラリーマン風の男が通り過ぎる。見下されたようでくやしくなり、煽るようにペットボトルを口の中に傾ける。よく冷えたさらりとした水がオレの中を通り抜ける。これは酒じゃない。逃れられない現実なのだと実感する。

  

「ケージ、飲み過ぎだよ」


 マミがオレの背中を摩る。オレは立ち上がりフラフラと歩き出すがまっすぐ進めない。すかさずマミがオレの腋に手を入れて支える。


「マミ、ありがとな、ホテル、行こ……」


 たまたま目に入ったラブホテルの入口にマミを押し込んだ。


 部屋に入るなりマミをベッドに放り投げ、オレはベルトを外しパンツ脱ぎ捨て、ろくに前戯もせずにマミのパンツだけ脱がしてすぐに入れて、キスもしないで我が儘に腰を振り、数分後、呆気なくイッた。


 男はイッた後、どうでもよくなる。目の前の女がどうでもよくなる。備え付けのティッシュで拭いて、皺の寄ったシーツに身を沈める。横にいるマミが欝陶しい。たまらなく欝陶しい。オレを見ないでくれ。


「ねえ、ケージ、アタシのこと好き?」


 そんなもん、知るか! と叫んで唾を吐きかけたくなるが、ぐっと堪えて「ああ」と曖昧な返事をした。マミはオレの腕に絡み付いて「ホントに?」と訊ねる。


 メンドくせえ。マジでメンドくせえ。オレはマミの唇をキスに似た行為で塞いだ。虚しくなって、バカみたいだと思った。ただの唾液交換だ。


 あれ? と思った。いつか唇が溶け合うような官能的なキスをした気がする。マミとのキスではないことは間違いない。でもそのキスを思い出せない。

 

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