正義の御旗作戦
サルザワヒトシ二等海士は、親の反対を押切り入隊した頑固者である。横須賀地方隊で教育課程を3ヶ月受けた後、きりざめに配属された。一方でカニモトエイキチ一等海士は、"横須賀の弾丸"と呼ばれていた。暴走族のリーダーあがりで、何度も少年院に入っていたが、少年院の所長から自衛隊に入って一からその性根を鍛え直して貰えと言われ入隊した札付きの悪だ。二人は江戸晴海埠頭で発見された。
猿蟹合戦ならぬ薩摩・長州と徳川幕府の戦いは均衡を保ったまま、1867年3月の小春を迎えていた。巨大戦艦2隻と、イージス艦1隻の切り札を隠し持つ幕府海軍としては、何とか主戦場を海上に持って行きたかった。ゼアーで日本は、米国にメンチを切り失敗した事を海野達は知っている。ディスでは逆に薩摩・長州がその様な暴挙に出る可能性がある。天皇様に全てを掲げた大日本帝国にとって徳川幕府は、250余年の鎖国を解かない倒すべき悪魔であった。
通常兵力においてゼアーでは、薩摩・長州は幕府の約3分の1の兵力で倒幕を果たしている。それほど、"正義の御旗"の持つ影響力には注意警戒する必要があった。とは言え既に宮家(天皇一家)は殺害している為、薩摩・長州が正義の御旗作戦をとっても意味は無かった。ゼアーでの徳川幕府軍の敗因は、武器防具の差にあった。薩摩・長州は、フランスやエゲレス(英国)の最新式の銃剣やピストルを戦場に大量に投入して、戦いを有利に進めた。それに加えて徳川幕府軍の兵士はその辺の普通の青年をかき集めた、言わば寄せ集めの軍隊であった。その一方で薩摩・長州は士気の高い志願兵士で構成されていた為、徳川幕府軍よりも強かったと言われている。
鎖国を止め世界各国との貿易を再開する事で、劣勢を打破するという策を決めた15代将軍徳川慶喜は、ディスの世界において幕臣勝海舟の助言もあり、ゼアーよりも早く鎖国を解いた。その恩恵はまず、庶民生活の向上に表れた。それまでは魚しか食ってこなかった日本人が、ビーフやポークを食べられる。そのインパクトは徳川幕府に追い風となった。庶民の胃袋を掴んだ旧徳川幕府は、これを契機に真日本陸海軍を創設した。陸軍元帥に勝海舟、海軍元帥に海野玄太郎を起用する人事案を堅めた。
「私が元帥ですか?」
「不満か?」
「いえ。しかし他に適任者がいたのでは?」
「君以上に信頼出来る者はいない。」
「将軍の命とあれば、やらない訳にはいきませんね。」
「頼みますよ?海野元帥。」
「って感じで元帥になっちまった。」
「は?マジすか?元帥ってエグいっすね。」
「ま、陸軍元帥には勝さんがついたし、慶喜公は総司令官って事で決着したからさ、もう後には戻れないな。」
「はぁ…。」




