03.王冠を戴く者
兄が異母姉を呼ぶ声が、今でも耳に残っている。
あの頃、おのれが棲み家にしていた主宮の部屋からは、歳の離れた兄が暮らす特別な離宮がよく見えた。天気の好い日は殆ど、朝の早い時間から、気分の弾ける跫音とそれを追い掛ける侍女たちの制止が響き、ややあって兄の、異母姉を迎える声が聞こえたものだった。
光が、あふれているような。
清らかで美しいあの。
天使を呼ぶ、声。
異母兄姉の中には早朝から騒々しいと嫌悪していた者が多かったが、おのれは兄のあの声が好きだった。だから、晴れの日の朝は必ず、離宮に一番近い窓を開けておくようにと侍従らに言い含めていた。異母姉の跫音が遠くから聞こえてくると──否、彼女の来訪の頃合いになると決まっておのれはその窓辺に立ち、縁に頬杖をついて、ふたりの様子を隠れて眺めていたのだった。そのくらい好きだった。あの声と、光景が。
日々血で血を洗うかの如き、暗澹としたこの王城オクセンシェルナにおいて、彼らの姿はただひとつ、信じられたものだった。
──夜半、ウィリアムは昔日と同じように窓辺に立ち、外を見つめた。
愛しさを憶えた日々はあたかも夢であったかのように過ぎ去って、幾つも歳を重ね、そして立場を変え、移した居室から眺める風景はかつてとは大きく変容していた。開け放たれた窓から射し込むのは朝陽ではなく星影となり、眼下に広がるのは愛情ではなく憎悪になっていた。目を伏せ見下ろす先で、光が揺れている。新月の夜のみに咲く、銀花の光だ。
部屋から見えるのは、喪った妃に恋着した父王が造った、気狂いな恋の花園。
片恋の花が今宵も、常闇の中で咲き匂っている。
.
.
.
壁際に控えた侍従のアランが溜息を噛み殺したのが、目端に映った。唾を飲み込んだのを見るに、咽喉元まで迫り上がったのをどうにか堪えたらしい様子である。
盛大に息を吐きたいのはこちらの方だと内心で毒づきながら、ウィリアムはおのれの執務机を挟んで真向かいに立つ男を見遣った。
毅然としたさまでウィリアムに対峙しているのは、クロンクビスト貴族が一、枢密顧問官を務めるハーシェル公爵エリオット・ミラーである。かつては社交界で実に極めて迷惑なほど、数多くの浮き名を流した甘い顔立ちの見目麗しい男だ。が、生まれてこの方よく見知った相手である上、毎朝顔を合わせているので本当に心底見飽きた、とウィリアムは辟易とする。
「貴方もいい加減しつこいな、ハーシェル公爵」
「陛下が強情をお止め下さればすぐにでも口を閉じますが」
「そうかな。私は貴方が大人しく黙しているのを、幼少期から一度も見たことがないんだけどね」
「仕える御方がいつも手の掛かる方ばかりなもので」
ああ言えばこう言う。昔からやたらと弁が立つので本当に煩わしい。
初夏だというのに、エリオットはきっちりと黒の金襴緞子のジャケットに身を包み、こちらを威圧せんというばかりだ。──学友の兄を手こずらせた、昔の放蕩なミラー家の嫡男はどこへやら、である。エリオットと話していると、おのれの方が立場が上だということをつい忘れそうになる。
ウィリアムは机の上で両手を組むと、小首を傾げてみせた。
「公爵、いいことを教えてあげよう。口数の多い男は嫌われるよ」
対し、エリオットは冷ややかに眸を眇め、うっそりと嗤った。
「それはご自分の経験からでしょうか、陛下。先日も女王にあしらわれておりましたね」
女王とは、兄が九年前に婿入りした小国ヴェンネルヴィクのあるじこと、クラリッサ・フェラーのことである。
そういえばこの間の非公式の面会のときはエリオットも傍にいたなと、ウィリアムは朧気に思い出した。──まずい、と呟く。これは分が悪い。
「あれは親愛の表現……」
「では私も、陛下への敬愛ゆえに」
ウィリアムが一瞬頬を引き攣らせたのを見逃さず、エリオットは畳み掛ける。
「妃をお迎え頂きたい」
イェイエル河に分断された大陸の西側、クロンクビスト。君主制を奉じるこの国の、その中枢である王城で日々繰り広げられる王と公爵の遣り取りを知らない者がいるとするならば、それは十中八九、外国の人間だ──と、そんなふうに社交界で断じられるくらいには、ウィリアムの執務室でのこの光景は、朝の恒例行事と化していた。
室内では、侍従や政務官は自ら望んで存在しない者として末席の壁際に控え、王の狗である近衛騎士はウィリアムの背後で我関せずと沈黙している。部屋の奥に置かれた高級木材仕様の大きな執務机を挟み、椅子に座したウィリアムと、その真正面に泰然と起立するエリオットの構図は、最早一つの典型と呼ばれて久しい。画家が絵筆を持つのさえ厭がりそうなほど、陳腐な様相なのだった。
事の理由はただ一つ。王がいつまで経っても妃を娶らない、ということである。
ウィリアムには、正妃どころか、妾妃の一人さえいないのだ。
──クロンクビスト現王であるウィリアム=メディオフ・オルブライトは、今年で二十八を数える。とにかく結婚の遅かった、兄のサディアスが件の女王──当時は未だ王太子だったが──と婚姻を結んだ年齢に追いついていた。兄の成婚の遅さは長く異例だと囁かれ続けたが、ウィリアムはそれを追い越してさらに婚期が遠そうである、というのが、この一、二年における国内諸侯や近侍たちの専らの見立てとなっている。
当然、ウィリアムは、おのれに関するそういった風聞を知っていた。
だが、王子の頃には憶えきれないほど贈られていた令嬢の肖像画も、人に纏わりつかれて鬱陶しいだけの茶会や舞踏会の招待状も、戴冠して以降は鳴りを潜めているのだから、自分にはどうしようもない、というのがウィリアムの言い分なのである。地位で以て婚姻を強要したとしても、先が見えている。
「……と、何度説明したら、貴方に理解してもらえるんだろう」
「詭弁を弄するのは止めて頂きたいと何度申し上げたらご理解頂けるのか、そのお言葉そっくりそのままお返し致しますよ、陛下」
ウィリアムがわざとらしく嘆息を洩らせば、エリオットは口の端で嗤笑する。
永遠に平行線である。
そうして、この場にいる中で一等年若いアランが空気に堪えかねて焦れ始めると、その頃合いを見計らったように執務室の扉が外から敲かれるのだった。
「──議会の時間だ、公爵」
小さな笑いを落とし、ウィリアムは、天鵞絨張りの美しい一脚から立ち上がる。扉を敲く音にすかさず飛びついた若い侍従と、さも何も素知らぬふりでそれを敲き、室外から着衣を持ってきた古顔の侍女の方へと足を向けた。
陛下、と渋みを含む声には、ひらりと背を向け。
誰にも悟られぬように気をつけながら、ウィリアムは、クロンクビスト王家の血を引く碧眼をうっすらと昏く染めた。
「ねえ、エリオット。兄上の親友だった貴方にはわかるでしょう」
──自ら手を伸ばして、血に塗れた王冠の縁を掴んだおのれに。
いくら訴えても、答えは『否』だ。
「僕に王妃はいらない」