02.マグダレナ
羽音が聞こえるほど力強く翼を羽ばたかせ、二羽の海鳥が戯れながら海面から飛翔する。
上甲板の手摺に気怠げに頬杖をついていたマリアベルは、白い羽根を毀しながらも滑空してゆく鳥たちの影を、ふと、思い立ったように視線で追い掛けた。眩さが晴天を切ってゆく。どこからともなく聞こえてくる乗船する人びとのざわめきや、船体に打ち寄せる波の音、地響くような動力音さえ遠くに、鳥たちの翼がばさ、とマリアベルの耳を打つ。
彼らは陽射しを浴びて真白く輝きながら、水平線を目指して飛んでゆく。上昇する美しい直線。網膜にその軌道が灼け残る。
マリアベルは、つばの広い帽子の下で、ふ、と眸を細めた。
さんざめく太陽の真下、潮風をまとって角帆が吼える。紺碧の波間では、激しく強い光が弾けている。
「……暑い」
ヨンナ=エストバリ海上を迷いなく突き進む客船レイア、その甲板で手摺に凭れ直しながら、マリアベルはうんざりとした声をはいた。
初夏でも余念なく贅を尽くして着飾った紳士淑女が船上の余暇に勤しむ傍らで、女一人で船首側の甲板に出て、至極億劫そうにしているのが物珍しかったのだろう、近くにいた少年――質素な甲板衣から察するに下働きの――が、つい洩れたおのれのその独白に咽喉を鳴らした。頬杖をついたまま半眼で見遣れば、これくらいで暑いって、と呆れた表情で彼は笑った。
「お姉さん、生まれはどこだよ」
仕方ないなあ、水でも飲むかと訊いてくるのでそれに頷きながら、北よ、とマリアベルは答えた。
「北のミルヴェーデン。……の、さらに上。最果ての孤島、ディンケラ」
「へえ」
「まさかクロンクビストがこんなに暑苦しいだなんて思わなかったわ」
客向けに手配していたわけではないに違いない、少年が差し出してきた飲料水はいかにも乗組員用の水筒だったが、マリアベルは躊躇わずに受け取った。さらに少年は、婦人に直飲みは忍びないと腰にぶら下げた杯を手渡してきたので、マリアベルは手ずからそれに水を注いで、口を付けた。噛むように一口含むと、冷えた真水が咽喉を滑り落ちてゆく。
ふと、迷わねえのな、と落とすような声が聞こえ、清涼感に静かな息を吐いていたマリアベルは、横目で少年を見遣った。
「なにが? 毒でも入れていたの」
「……そんなわけないけど」
ならいいでしょう、そう素っ気なく返すと、マリアベルはさらに水を呷る。変な女、と少年が乾いた笑いをはくので、よく言われるわ、と杯の内側に声を残しながら答えた。――レイアはそれなりの身分の人間が乗船できる帆船である、当然、婦人の誰もがこんな軽率な行動は取らないだろう。そもそも同伴者も供もなく一人で上甲板に出るわけがなく、身なりについても、日傘も手袋もないというのは考えられないことなのである。マリアベルは眉を顰められない程度の外出用ドレスを着、日除けにつば広の帽子こそ被っているが、それだけだった。
マリアベルは水筒と杯を手にしたまま、手摺に肘を付き直す。
「港まであとどのくらいなのかしら」
「クロンクビストまではもう少し西南西へ下るね。一刻掛かるかどうか。まだ少し暑くなるかも」
「そう」
最悪ねと独りごち、最後の一口を飲み込む。少し仰け反り晒された首許を海風が撫ぜてゆく。
「暑いのはそういう季節だから仕方ないよ。お姉さん、クロンクビストへ行くのは初めて?」
「初めてね」
「旅行?」
「似たようなものだわ。見聞を広めるため」
白い波頭から水飛沫が跳ねた。船首が水面を切りひらいてゆくさまに眸を細め、ふっと溜息を吐くと、マリアベルは少年に向き直った。彼は不思議そうな眼差しでマリアベルを見返している。少年のくすんだシャツから覗く肌はこんがりと日焼けし、癖のある髪もまた陽射しで色褪せていた。水筒を差し出した手は薄汚れて傷の目立つ、労働者のそれだ。だが、瞳はきらめき、強い生命力に満ちあふれている。きれいな眸だった。
「一人で行くの?」
マリアベルはやや俯き、帽子の陰で口の端を歪める。
そうして肩越しに後方へ視線を投げた。船首手摺から離れ、操舵により近い場所、そこには佩刀した黒髪の男が一人、立っている。
マリアベルの身体を避けてその目線をなぞった少年は、瞬くと、なんだよやっぱり野郎連れかよ、と態度を一変させて唾を吐いた。マリアベルは笑う。水筒と杯を少年へ返し、残念、ただの監視役だけれど、と少し乱れた帽子を整え直した。拍子にはらり、光を弾くほどの銀灰の一房が零れ落ちる。
マリアベルは顔を上げる。
白緑の双眸に、果てなく広がる紺碧の海原が映った。
「お水、どうもありがとう。もう少し頑張るわ」