01.ここに天使はもういない
ここから本編です。
地の底から低く唸るような音が響動み、それに続いて降り注いだのは、天の最果てから幾重にも輪を成す天使の美声だった。
主よ、偉大なる我らが御方よ
穢れし罪深きわたくしたちを
わたくしたちを憐れみ給え
「翻意するお気持ちはございませんか」
宗教音楽の父ヨーゼフ・ハーゼの母国、オーベリ製の荘厳なるパイプオルガン。憐れみ給えと祈り請う、少年たちの聖歌隊。天地の境界に魂を留められているかの如き錯覚を起こすその音楽の御許で、ヴィンセントは強張った表情をしてそう訊いた。深い鳥羽色の瞳は真剣そのものだった。けれども。
貴方の問いも聞き飽きたな、と。
ウィリアム=メディオフ・オルブライトはそれら全てを一笑に伏す。
「もう決めた」
イェイエル河に分断された大陸の西側、大国クロンクビスト。長きに渡り、西側を統べる『教会』と双肩であったこの国は、今宵を最後に『彼ら』と一線を画す。国の首座司教は空位とし、儀礼及び裁判を含め、クロンクビスト王家ひいては国内政治への介入を今後一切、許容しない。
幾月経てども変わらないウィリアムの返答に、ヴィンセントは眉を顰めた。
「……寄る辺を失い、悲しむ者、憤る者もおりましょう」
「国民に開かれた聖堂や礼拝堂を全て閉鎖しようというのではないし、彼らに信仰を止めろと命じるつもりもない。ただ、我がクロンクビスト王家は貴方がたから距離を置く。それだけのことです、ヴィンセント」
「神の恩寵なき王を、一体誰が支持するというのです」
天への鍵は、教皇が持つ。
よって、新たに即位する諸国の王は、教皇から王冠を戴くのが通例であった。教皇を代理人として、彼によりその人が、神に国を治める権利と義務を委ねられた者――王であることを示すのだ。即位と共に政教を分離させ、その慣習を廃するとなればどうなるか、ウィリアムとて、わかっている。
わかっていても、既に選んだ道なのだ。
振り向かずに歩むと決めた。
――あの日おのれが、歩めと言った。
「ウィル」
親しみを込めた名を呼んで、なおも食い下がり説得を試みるヴィンセントの胸中を、ウィリアムは知らない。ヴィンセント・クロフ――新たなる教皇猊下、ユストゥス七世。目前の男の言葉が真であるか偽であるか、あるいは彼の本音が善であるか悪であるかを判じたところで、今更何も変わらない。
主よ、偉大なる我らが御方よ
穢れし罪深きわたくしたちを
わたくしたちを
「貴方の慈悲は、それを必要とする方に差し上げて下さい、猊下」
憐れみ給えなど、思わない。
ウィリアムはうっそりと微笑する。
「私が戴く王冠は、貴方の手を以てしても清らかになどなりませんから」
光そのもののような美しい歌声が、二人で相対するこの部屋にまで降り注いでいる。調和する声を眩く感じた瞬間、ふと、天に召される聖母の姿が脳裏に思い描かれて、ウィリアムは肩を竦めた。すると、パイプオルガンの鈍い音色が咎めるように鳴り響き、今度はつい、咽喉を鳴らして笑ってしまった。
暗闇なのか夜明けなのか、判然としない鳥羽色の双眸が、ウィリアムを見る。
聖歌が聞こえている。
ウィリアムは口の端を吊り上げたまま、碧眼を伏せた。
「ここに天使はもういない」