祈りの跡
遠く、戦火の音が聞こえる。
ステラにはそんな気がしている。
現実は、外には粉雪が降りしきり、その凝った大気がどんな物音も吸収して、何も響きはしないのだけれども。とーん、と人差し指で鍵盤を叩けば、ため息のように消えてゆく。余韻のない響きにステラは目を伏せ、今度は、両手十指をそこに揃えた。呼吸をする。弾く。
耳が痺れるほどの静謐の最中、音楽の父ヨーゼフ・ハーゼが作曲した、聖歌の旋律が流れてゆく。
流れて、音は呑み込まれる。
ミルヴェーデンの痛々しい深雪のうちへ。
大陸最北に国を構えるミルヴェーデンの女王陛下は、戦争好きの流血主義と名高い。近隣諸国では、屍の上に絶対的な王座を敷き直したとも言われるほどだ。ミルヴェーデン建国の祖を『銀狼』と敬称するのに擬えて、彼女を『血染めの黒狼』と畏怖する者も少なくなかった。
その御前、女王の宮殿で、宮廷楽団の一員でもない自分がまさか音楽を披露することになるなどと、誰が想像できただろう。
ステラは少しばかり優秀な、音楽院の学徒に過ぎない。ミルヴェーデンの隣、大公国フレイヴァルツ、その音楽都市ラルセンにある国立高等音楽院で学ぶ一生徒。
粗相をして首を刎ねられでもしたら。
なぜわたしなどに。
思考は空転し、唇は陸に揚げられた魚のように動くだけ。思い返せば、青ざめた自分に、師はそのような無体をなさる方ではないとひどく渋い表情していたような憶えもあるが、ステラは大方の話を聞いていなかった。聞いていなかったことを、今は、後悔している。
――抑揚なく単調に。
ただ、音が途切れることがないようにだけ、気をつける。
朗々と伸びてゆくパイプオルガンとは異なって、室内楽用のクラヴィコードは微かに歌うような音を鳴らす。特にこのような聖堂では、傍らに立ってようやく聞こえる程度だろう。弾いているステラですらも息をひそめ、耳を澄ます。クラヴィコードで奏でるハーゼの聖歌はもの悲しい。
管弦の音のふくよかさとは比べるべくもない、機械仕掛けの打音がきん、とん、と。
女王の御前で弾いたときは、チェンバロだったが。
(……陛下は)
ととん、と。
ステラは鍵盤を叩く指先に力を籠める。
案内された女王のサロンは、贅を極めたと評してよいものだった。少なくともステラにとっては。指折り数えてみるならば――格天井に、硝子製のシャンデリア。壁面や暖炉装飾の上に飾られた、ステラでも名を知る巨匠たちの数々の油彩画。美しい螺鈿の調度品、シルクの天鵞絨が張られたソファが数脚、それから、窓辺で揺れるカーテンは精緻な手編みのレースだったと思う。そこは、豪勢で品善く整えられたサロンだった。まさに人びとが夢見る女主人の城。
だが、その華やかな空間に用意されたチェンバロと、ステラの前に現れた女王陛下は。
ステラが奏でる聖なる曲は、ただひそやかに盛り上がる。
走るでもなく、叫ぶでもなく。
けれども、降りしきるばかりの白雪に、その響きが消えてしまうことがないようにだけ。
大陸を分断するイェイエル河の河畔、ステラの母国オーベリに生まれた音楽の父ヨーゼフ・ハーゼは、数ある楽器の中でも殊の外、クラヴィコードを愛したと言われている。
家庭用の練習楽器、大型のものでせいぜい室内楽ができるかどうか。オルガンやチェンバロのようには大きく歌えず、秘め事を囁くばかりのクラヴィコードを『静謐の鍵盤楽器』と称して、ハーゼは演奏会にもよく用いた。
ステラはそんなハーゼに傾倒し、幼い頃からクラヴィーア曲ばかりを弾いてきた。幸運にも、十二のときにオーベリの音楽アカデミーの推薦を受け、ラルセンの音楽院へ。だが、決して突出した才能があったわけではなく、秀でて有名な若い音楽家はステラの他に多くいて、この先に道はないだろうと入学当時から気づいていた。況して、ステラが愛するクラヴィコードは家庭でも弾ける楽器だ。師はステラの情熱を買い、目を掛けてくれているけれど、これ以上のものは望むべくもない。そしてそれは、ステラが女子であればなおのことだった。
――ミルヴェーデンの女王陛下は、と。
不敬にも、ステラは考える。
(もしかしたら)
ハーゼの聖歌が終わりへと向かう。頑なで冷たくもの悲しい旋律に、やがて霧が晴れるような、光が射し始める。
声楽があれば、わたしたちに神の恵みが、と歌うところだ。
わたしたちに神の恵みが。
雪が融け、芽吹き。
ステラは目を閉ざした。鍵盤に沈めた指に神経を集中させる。救済と恩寵を、と誰かが耳許で口ずさむ。重音が、深いため息のように。
名残惜しげに、最後の指が離れて。
手首が浮いた。
「――……相変わらず」
一曲を弾き終わり、浅い息を吐いて聖堂の天井を見上げたステラの耳に、唸るような声が聞こえた。
「ド下手だな、おまえ」
肩越しに振り向けば、いつからそこにいたのか、身廊に整然と並べられた長椅子に、一人の青年が長い脚を鬱陶しげに組んで座っている。相変わらずなのはそちらの方だわと、ステラは呆れ顔でその青年に向き合った。
「あなた生きてたの」
五年も顔を見ていなかったので、死んだのかと思っていた。ステラが正直に言うと、彼は顔を顰めた。
「勝手に殺すな」
宝石のように美しい翡翠の眸が、似つかわしくない険を乗せる。
ステラは乾いた笑いをはき、青年を観察した。
美妙に緑がかった黒髪に、同じ深みの長い睫毛、それに縁取られるのは翡翠の瞳。輪郭は鋭く精悍な顔つきで、恐ろしく仕立てのよさそうな衣服に包まれた体躯は引き締まっている。組んだ脚の上で頬杖をつく腕と、黒い手袋に包まれた指は、ステラには羨ましいばかりに長い。きっと、その十指は、どんな音階でも鍵盤に躓くことなく踊るのだろう。
出逢った当時から美少年と呼んで差し支えなかった彼は、完璧な美貌の均衡を何一つ狂わせないまま、大人の男になったようだった。
――ただ一点を除いては。
「ド下手」
口の悪さだけは、相変わらずである。
麗しい天使にさえなれるだろうに、彼は、ステラの前だと自ら進んで悪魔になる。
「ハーゼの聖歌で自己主張すんなこの阿呆。大体弾いてるときに余計なことを考えすぎなんだよ。あちこち音が跳ねてるし転けるし途中にいらない和音があった。下手なのか耳が悪いのかバカなのかどれだ。あぁ、全部?」
全くうるさい男である。
少年の時分であればまだ可愛げがあったのに、成熟しきった今では単に存在全てが厭味だ。ステラに限らず、みな口を揃えてそう言うだろう。――女王のサロンで、とても懐かしい面影を見つけたときに湧き上がった一瞬の喜びは、恐らく気のせいだったに違いない。ステラはうんざりと息を吐く。
ミルヴェーデンの女王陛下がなぜ、面識もなく、ラルセンの一学徒に過ぎないステラを招請したのか。
理由は、この青年だったのだ。
「あなたがコルデーリア女王陛下の王弟だったとは存じ上げませんでしたわ、シグローヴ公爵閣下」
ミルヴェーデン女王の弟、シグローヴ公爵クライド・レイド・スカルスガルド。
女王の御前で、そのように紹介されたときのステラの絶望感は、きっと誰にも理解できない。ステラは拳を握った。
嫌な言い方をするな、と。
男は渋面になる。
「騙したわけじゃない」
「本当のことを言わなかったのに?」
公爵の言葉は詭弁だ。けれどそう思う一方で、『彼』は言えなかったのだと、ステラにもわかっている。
クライドと名乗る少年と出逢ったのは、ステラがラルセンの国立高等音楽院への入学を許可されたばかりのときだ。オーベリからラルセンへやってきたばかりで何もかもが心許なかったとき、何の気もなく足を運んだ孤児院の慈善音楽会で、ステラは彼に出逢った。
まだ誰も集まらない礼拝堂の中、彼は、舞台に用意されたチェンバロを調律していた。工具を片手に楽器の中を覗いたり、下に潜ったりしながら、使い古されたチェンバロを診ている。ステラが長椅子の隅で眺めているうち、そうして一通りのことを終えるとやがて鍵盤の前に座って、発音を確かめるためか、簡単な練習曲を弾き出した。
簡単な、練習曲だった。
子どもでも弾けるくらいの、たわいない。
けれど、その後で聴いた音楽会の曲目をさっぱり憶えていないほど、ステラは胸を震わされた。きれいだった。――きれいだったのだ。奇跡を聴いているかのようだった。美しさの中に神を見るのだと説くのなら、調律師の少年が弾いた練習曲は、ステラにとってまさしく神を見たようなものだったろう。
それと同時に、ステラは自分の歩みの道果てにも気づいたが――それすらも。それすらも、遠く翳んでしまうような。
(……貴女のクラヴィーアはとても美しいと聞きました、ステラ・エルドレッド)
そして実際とても美しかったと、賛辞を口にして微笑んだのは、清らかな貴婦人だった。数多流した血がその身に凝固した『黒狼』ではなく。
いいえ、とステラは内心で女王に首を振るう。そんなはずがありません、コルデーリア女王陛下。
シャンデリア煌めく、絢爛なサロン。額縁の向こうで栄誉ある画家たちの筆が笑う。一級品に取り巻かれ、チェンバロは居心地悪そうにステラを待っていた。高級だが旧式の、古いチェンバロだった。
しかし、一鍵を叩けば。
寸分の狂いなく調律された音が鳴る。
――ステラの知る『彼』は、とても美しかったのだ。
見目ではなく。
その指が音楽に触れるとき、涙がこぼれ落ちるほど格別に。
「わたしを嘲笑いたかったの?」
まさか、彼の姉である女王が弟の音楽を知らないはずなどないだろう。完璧な発音のチェンバロが用意されていたのがその証拠だ。何と言って、公爵は女王にステラを紹介したのか。
唇を噛みしめたステラに、違う、と否定する男の声は強張っていた。
「……陛下に、聴かせたかっただけだ」
「何を。どんなに楽器が古くても演奏者がへたくそでも美しく聴かせられるほど、自分の調律は天才だってことを?」
「穿つな。そういうことじゃない」
「じゃあ、どういうことよ!」
――ハーゼのように。
あの日の調律師の少年のように。
わたしにも、クラヴィーアを奏でることができたなら。
遠く、戦火の音がする。果てなく、終を知らずに、ミルヴェーデンにはこんなにも深い雪が降っているのに。祈りも悲鳴も何もかもを、その静寂に呑み込んでゆくのに。ステラの耳には戦火の音がする。――誰が。
一体誰が、あの女性を『黒狼』などと呼ばうのか。
「わたしには神様なんて弾けない!」
脳裏を過ぎる。
場に馴染まぬ、古びたチェンバロ。
華美なもの、背負ったものに疲弊したような、華奢な体躯。扇を握る指先は引き攣れていた。サロンに現れた彼女を取り巻く人びとの視線、その異様さ。女王は決して背を折らず、眸を逸らさずにいたけれども。それが一段と悲愴だった。ステラを見つめて微笑んだあの眼差しが、白い頬が、唇が、聖母のように見えれば見えるほど。
そのような無体を為さる方ではない、と。
ステラの師は言った。ステラはそれをきちんと聴いていなかった。
「わたしは……!」
(とても美しかった)
(自由で、伸びやかで)
(貴女は)
(音楽を愛していて)
(その愛で、きっとどこへでもゆけるのね)
「いい」
クライドは、短く言った。
「俺はマリアに、神を聴かせたかったわけじゃない」
だから泣くなと、ひどくぶっきらぼうに、クライドはステラを慰めた。そこでようやくステラは、肩で息をする自分が、ぼろぼろと涙をこぼしていることに気づく。慌てて両手で拭おうとするが、一度あふれ出したものは止まらず、それどころか意識した途端に身体は勝手にしゃくり上げ始めた。視界が潤みきって、尊大な男の輪郭もぼやけた。静まり返る聖堂に、ステラの嗚咽が溶ける。
かた、と物音がした。
雪白の凍んだ匂いに包まれる。ステラが呼吸を止めたとき、羨ましいほど大きな手が、ステラの小さな背を撫ぜた。それから微かなため息と、ガキ、と呟く憎らしい声がする。何かを言い返してやりたかったが、再び迫り上げてきた涙で詰まって、ステラは何も言えなかった。
「……陛下は喜んでいた」
ステラを緩く抱きしめながら、ステラにだけ聞こえるよう、クライドはまるでクラヴィコードのように囁く。単調な響き。機械仕掛けの打音。きん、とん、と歌う。
俺にはド下手にしか聴こえないおまえのクラヴィーアで、陛下は喜んでいた。嘘じゃない。懐かしいものを聴いたと、……子どもの頃の絵本をひらいたみたいだったと。どんな世界でも信じられた、子どもの頃のような。
感謝している、と。
めずらしく真摯に聞こえたその声に、一瞬虚を突かれたステラは、ややあって、男の腕のなかで小さく笑った。口の悪さは相変わらずだけれど、何となく、ステラの知る調律師の少年はもういないのだと思った。
男の着る上等な生地に、ステラの涙が滲んでゆく。
今、不器用にもステラをあやしているのは、女王陛下に跪くミルヴェーデンの王族の青年なのだ。もしかしたら――もしかしたら、ステラがあの日聴いた美しい『神様』は、すでに彼の手の内にはいないのかもしれなかった。
神を聴かせたかったわけじゃないと、クライドは言った。
――きっと。
自らの道果てを思い知ったあとでも。
それでも、愛するクラヴィコードと共に生きてきたステラと、このひとは違う。
(とても美しかった)
(貴女は)
(その愛で、きっとどこへでもゆけるのね)
愛すべき音を吸収してゆく粉雪の向こうで、遠く、戦火の声がする。ステラにはそんな気がしている。ふと、ステラは恐る恐る腕を伸ばし、凍えた身体の男を静かに抱き返した。そうして、そっと目を閉ざす。ハーゼの聖歌を、乾いた唇でひそやかになぞる。なぞる。
わたしたちに神の恵みが。
雪が融け、芽吹き。
救済と恩寵を。
――深いため息のような、クラヴィコードの音がする。