ゲッセマネの祈り
墜落した天使の翼が、容赦なく毟られてゆく――
喩えるのならば、玻璃越しの場景はそんなふうに痛ましかった。烈風が吹きすさび、綿雪は降り落ちたそばから巻き上げられ、闇を真白く染めている。
(ひどい天気……)
屋内にいても聞こえる唸り声に、つい、とクラリッサが目を遣ったとき。
向かっていた階段から侍従の一人が駆け上がってきた。彼は近くで略式の一礼をすると、すぐさまクラリッサに耳打ちをする。その内容を聞いて驚愕したのは一瞬のことで、気づけば、クラリッサは階段を下っていた。元々出迎えのために着用していた貂皮のケープを脱ぎ捨て、追従する者たちの制止も聞かずに、入口の間を抜け、玄関の車寄せへと走る。
外へ出た途端、叫喚の寒声が晒した首筋を凍えさせた。
風は、美しく結い上げたクラリッサの髪を崩し、挿した生花を散り散りに奪い去ってゆく。
クラリッサが車寄せへと飛び出たそのとき、激しさを増す吹雪の最中から、馬の嘶えのようなものが微かに聞こえた。そして次には馬蹄、車輪の音――。それらを認識した刹那、白む暗闇から現れたのは、一台の黒塗りの馬車だった。馬車は荒々しく揺れて車寄せへと入るなり停止し、その勢いのままに勝手に扉を開け放った。
は、と咄嗟にクラリッサは腕を伸ばした。
荒れ狂う雪と風が、亜麻色の髪を紮げてゆく。
中から頽れてきた人影を受け止めきれず、クラリッサは、薄片の降り積もる石畳の上に膝をついた。――白雪の清んだ匂いに混じり、薄らとした錆臭さがした。眉を顰める。そして、風雪に煽られる金髪の隙間で、赤いものが流れていることにクラリッサは気づいた。途端、胃の腑を突かれたような不快感と緊張が走る。
「――ウィリアム様」
動揺を理性でねじ伏せる。周囲では、侍従や衛士に加え、使用人たちが騒がしく蝟集し始めていた。方々から押し寄せるざわめきの中、クラリッサは何度もその名を口にする。
それでも、抱き留めた身体は身動き一つしなかった。
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金の稲穂が首を垂れる頃、従兄とその奥方の間に子どもが産まれた。赤子ながらに利発そうな瞳をした、男の子だった。
――この子が王位を継ぐのかもしれない。
生誕の幾日か後、女王である自分に目通りに来たその子を見て、クラリッサはそう思った。――ヴェンネルヴィクには王婿もおらず兄弟もいない女王が一人、その父である先王にも兄弟はおらず、内戚はみな年老いている。現王家たるフェラー家の直系血筋は断絶も遠からず、という状況なのだった。
そんな中で、外戚ではあるが、あらゆる意味でクラリッサに最も近い存在である従兄に子どもが産まれた。世の何も知らない無垢な赤子だというのに、クラリッサは、彼を前にしてそれを考えずにはいられなかったのだ。
(ご結婚を、クラリッサ様)
(あの大国の政変から、我国をお守り下さった)
(聡明な陛下ならお分かりでしょう)
(今、貴女が果たすべき、最も重要なことは)
王位を継承して三年、クラリッサが政務に慣れるにつれ、日毎に増えてゆく注進の数。疾うに女性としての結婚の適齢を過ぎたクラリッサに対し、ヴェンネルヴィクに長く続いたフェラー家の血筋を繋ごうとする、周囲の焦燥は理解していた。だが、それらに嫌気は差さないのかと問われれば。
クラリッサの毎日は、おのれを説き伏せようとする官僚たちとの謁見に始まり、謁見で終わる。
そして、彼らに計らうよう言い含められているのだろう、少女の頃から身近に控える侍女たちは日々気遣わしげに囁くのだ。
(クラリッサ様)
(クラリッサ様)
(今でも貴女は……)
膝の上に置いた本に視線を落としながら物思いに耽っていたクラリッサは、傍らの寝台で身動きする気配を感じ、はたりと睫毛を上げた。銀花を押し花にした栞をさっと挟み、本を閉じると、椅子から立ち上がり、そこに横たわる人を覗き込んだ。気がつかれましたか、とひそやかに訊ねる。
燭台の火だけが揺れる暗がりで、ふ、と碧眼が瞬いた。
そうして、その人の唇は何事かを呟いたが、音にはならなかった。
「起きられますか」
相手が緩慢に頷くのを見てクラリッサは静かに微笑い、チェストの上に準備された水差しで、手ずからコップに水を注いだ。彼は――ウィリアムは、丸一日近く意識を失っていたのだ、ろくに声も出せなくて当然だ。ぬるいかもしれないですけれど、と言い添えながら、クラリッサは改めてウィリアムに向き直る。
クラリッサに差し出された水を、寝台に起き上がったウィリアムは、一瞬躊躇を見せた後、黙って受け取った。
「嫌だわ、毒なんて入っていませんよ」
ウィリアムの明るい金髪の下に巻かれた繃帯をちらと見て、その眼差しを隠すようにクラリッサは笑みを落とした。
コップの半分ほど水を飲み下したウィリアムは、目を伏せ――
ぐい、と。
突然、クラリッサの腕を引いた。
咄嗟のことに身体の均衡を崩したクラリッサだったが、ウィリアムの上に倒れ込みそうになる直前で、辛うじてもう片方の手を寝台に突っ張った。腕を掴まれた状態でどうにか腰を捻り首を擡げると、自分を見下ろす美貌がすぐそこにある。あれから七年を数え、幼さを振り払ったウィリアムは、クラリッサの――かつての伴侶によく似ていた。
昏い眸をしている。いつか見た、眸だ。
不用意な姿勢で腕を取られたまま、クラリッサはウィリアムを見上げた。瞳の奥に深淵だけを覗かせた彼はそれ以上微動だにせず、何も言わず、あのときの男のように泣きもしなかった。
じりじりと蝋が溶けてゆく。
寝台の上に転がったコップから零れた水が、染みを広げてゆく。
膠着した静寂の中。クラリッサ様、と痛ましげな素振りで慰める人びとの顔が、脳裏を過ぎっては消えた。
(今でも貴女は)
(あの方を)
やがて、クラリッサはウィリアムから視線を逸らすと、ため息を吐いた。クラリッサの腕を掴むウィリアムの手に強い力はなく、少し動かせばするりと解けた。身を起こして姿勢を正すと、深く俯いたままの青年に、紅茶でもご用意致しましょう、と努めて柔らかく声を掛ける。少し待っていて下さいね。
「――……、」
隣室に控える使用人に頼みに行くため、寝室を去る間際、本当にごく微かな囁きが耳朶を撫ぜた。クラリッサは立ち止まると半身だけ振り返り、いいえ、と微笑む。
「わたくしは何も気にしていませんわ、ウィリアム様」
周囲に再婚を迫られる日々を繰り返すたび、見えない毒が蓄積するように、クラリッサは少しずつ疲弊していた。そんな自分にしばらくの療養を勧めたのは従兄だった。王位の簒奪を目論むのではと勘繰られるのを覚悟の上で、彼は、おのれが所有する北の別荘にクラリッサを送り出してくれたのだった。
その折に、ウィリアムはこの屋敷を訪れたのだ。――訪れた、と言うよりは、逃れてきた、と表現した方が正しいのかもしれないけれども。
クラリッサは事の子細を知らない。ウィリアムの腹心である公爵から、半月で構わないので受け入れてほしいと、先立って極秘裏に打診があっただけだった。事情を訊ねたところで明瞭な回答があるとは思えなかったし、彼が王位を戴く国――大国クロンクビストの情勢は、土地を隔てたヴェンネルヴィクにも洩れ聞こえている。七年も付き合えば、それなりに予測はついた。
王城に迎え入れれば官僚が喧しかったろうが、クラリッサもまた療養の体で郊外へと去っている身であり、都合が良いので従兄の客人として迎え入れることにした。恐らく、公爵もこちらの状況を見て、判断したに違いない。ただ――少し誤算もあったのかもしれない、とクラリッサは独りごちる。ウィリアムの先触れとしてやって来た騎士は深手を負っており、今も目覚めていなかった。
それでもなお、何があったのか、クラリッサは聞かない。
ずっと聞かないことにしている。
(今でも貴女は、あの方をお慕いしているのですか)
どうかしら、とクラリッサは思う。
今でも少女の恋を燻らせているわけではない。だからといって、永遠の愛を捧げているのだと語るつもりもない。同情なのかと訊ねられたなら、そうだと答えたかもしれない。――あのひとの代わりに、あの国の行く末を見届けなければならないような、そんな気はしている。
クラリッサを組み敷こうとしたウィリアムの眼差しを思い出す。
クロンクビストに蔓延る闇が、今度は、彼の全てをも呑み込もうとしている。一縷の光が潰えてゆく気配だけが、濃さを増してゆく。
(わたくしは、ここにいる)
この小さなヴェンネルヴィクに。
誰の許へもゆかずに。
血塗られた道をゆく哀れなけものが、せめて一時、休息を得られるように。
クラリッサは別れたひとを想い、今では決して呼ばないその名を胸の奥で抱きしめる。あの日の祈りはいつか、届くのだろうか。
「クラリッサ様」
客の寝室から出てきたクラリッサに、控えていた使用人が歩み寄ってくる。クラリッサは眦を和らげ、紅茶を、と頼んだ。
「怪我をして少し気が立っていらっしゃるから。……ゾエの紅茶はあったかしら」
「ございます」
そう、と微笑む。
「ではそれにして頂戴。それから、ティーカップとソーサーはレンノのオードリーがいいわ。レユイの砂糖漬けもあるといいのだけれど」
めずらしく細かな指定するクラリッサにも、目前の彼女は嫌な表情一つせず、ご準備致しますと頷く。お願いね、と言うと、もう一度首肯して、彼女はすぐに部屋から出て行った。
その後ろ姿を見送り、クラリッサは目を伏せる。重ねた両手を胸に置き、そうして、吐息のようにささめいた。