17.愛さぬよりも愛して失え
屋敷まで借用する本とその必要がないものに分別し、マリアベルはいつも通り司書室の青年アベリー・テニスンに声を掛けた。やあ、と気軽な調子で挨拶したアベリーは、二つの山に分けられた本の題名をざっと見ると、こちらが貸出だねと言って帳面を開く。慣れたものだ。アベリーは理解力が高く、目端の利く優秀な図書館員だった。国立図書館に通う女子はそう多くないので──殆どが議員か学生、つまり男性である──当初こそマリアベルの存在に不思議そうな顔をしていたものの、すぐにどうでもよくなったらしい。選書の気が合うのと、彼の興味の大半は詩作に向いているためだ。
「……『エルヴェシウス会派における「神の平和」運動と信徒の清貧について』? また変なもの読むねえマリア」
「あなたこそ随分古めかしい詩人を読んでいるじゃない、フィリブ・フランシスなんて。当代のシェイクシャフトでも読めばいいのに」
「シェイクシャフトの喜悲劇は興味深いけど、彼の言葉には美しい韻律が足りないよ」
君ならわかってくれるだろ、と小さく笑うアベリーに、マリアベルは肩を竦めた。腕がよく人気のある作家だが、確かにマリアベルも好んでは読まない。
「まあいいや。今日は四冊だね、借りない方は僕が棚に戻しておくから」
「今日は私が自分で戻すからいいわ、アベリー。それより借用の方をスタインズ侯爵家の従僕に渡しておいてくれないかしら、もう来ると思うんだけど少し待っててと伝えて」
記帳を終えたアベリーが顔を上げた。いいけど珍しいね、と貸出しない本を差し出される。この青年の、人懐こくもあっさりとした、他者に深入りしないところがマリアベルは好きだ。たまにはねと微かに笑い、数冊の本を持って館内の奥へと踵を返した。
途中、普段使用している閲覧席を横切る。玻璃を透かす光は薄らと黄金色になっていた。広く取られた空間の隅、二人掛けのソファを一瞥して、マリアベルは深い本の森へと入ってゆく。
(──エリーと賭けをしたと聞いた)
半刻の微睡みから目覚めたウィリアムは決まり悪そうな顔をして、起き上がるなり、マリアベルに会いに来たもう一つの理由を話した。スタインズ侯爵家での賭け事を聞かされ、マリアベルは本当に了承したのかと疑ったらしい。エリオット・ミラーには信頼がないのだろう──否、相手が信頼に足る人間かどうかではなく、そのように心を寄せることをウィリアムが回避しているだけかもしれないが。
マリアベルは最終的に将棋に勝った、が、エリオットが勝利した体を作ったので「了承」と言うのならその通りだ。ハーシェル公爵家の舞踏会と王室の夜会に、ウィリアム──『ウィリアム・メディオフ=オルブライト』の同伴者として出席することに同意した。マリアベルがどこの馬の骨であっても、あの男はあるじを信用するというのだから。
(どういうことか、君は、本当に理解しているの)
重ねられた問いは、深い声だった。悲しげにも聞こえたし憤りのようにも思えた。けれどもマリアベルは、碧眼から目を背けることはしなかった。
初対面は感じの悪い失礼な男、それが週に一回数十分だけ図書館内で交流するようになり、つい先立っては二人で一日街を歩いた。振り返ればそれだけの関係性である──『それだけ』であることが今のウィリアムにとってどれほどの意味があるのか、察せないほどマリアベルは愚鈍ではない。たとえ始まりはそういう意図ではなかったとしても。だから、これは彼にとって酷な仕打ちなのだとは思う。
おのれの膝の上で寝ている年上の男を本越しに眺めて、マリアベルは、彼を稚いように感じた。皮膚には触れないところで、少し髪を梳いた。きらきらしている。美麗だとか燦爛たるだとか形容する語彙はいくらでもあるだろうに、金の髪から長い睫毛、青白く痩せた輪郭にも粒子が踊って、ただ、きらきらしていると思った。
心の柔いところに爪を立てられるのは、痛いだろう。わかっている。痛ましい、可哀想にと慰めるだけでこの人が救われるのならどんなにいいだろう。だが、力を持たない憐憫は決して人を救わない。最果ての凍土に埋めた死体の数だけ、マリアベルはそう信じている。
よく知り合ってみるのは面白そうだと言ったのはあなたよ、と。
抑揚のないマリアベルの言葉を、彼はどんな気持ちで受け止めたのか。
ほんの一瞬、意識していなければそうとは気づかない程度の間を置いて、そうだったねとウィリアムは肩を竦めた。マリアベルもまた、瞬きの隙間で、エイジェルステットの人いきれの中で見た笑顔を思い出さなかったわけではない、それでも同情はしなかった。
では後日正式にお願いするよ、そう微笑んで、ウィリアムは席を立った。
(改めての自己紹介はまた今度ね、ベル)
複数の棚を巡って本を戻しながら、マリアベルはやがて、採光用の窓が全くない古書の区域へと足を踏み入れた。最後の一冊である。夕刻のため、既に壁掛けの洋燈のいくつかに火が灯されている。揺らめく自らの影を踏みながら目的の書棚の前に辿り着き、目線より少し上の、取り出したときのまま空間が出来ている場所へ本の角を置いた──拍子に、おや、と声を掛けられた。
「またお会いしましたね、マリアベル」
含み笑いをしている。振り向かずとも想像がついた。マリアベルは本を棚へ押し込む。
「付いてきておいてその言葉はわざとらしいですわね、ボルジャー卿」
ウィリアムが仮眠を取っていたときには気配があった。棚の影から付かず離れず護衛をしていた『オーウェン』には動かないよう目で釘を刺しておいたのだ。最初の邂逅とレックスたちの言動から、衆目のある国立図書館で何らかの行動を起こすほど浅慮な男とは到底考えられなかった上、館内の静けさの中では耳慣れない物音は響きすぎる。余計なことをすれば立場が悪くなるのはウィリアムだ、支持が盤石ではないクロンクビストの国王。
それに、襲撃事件を経てからの今日である、マリアベルが向こう側だとしたら接触するのはおのれにする。
──子犬にそう伝えろと言ったのだから。
「ご存知だったか。まあそうでしょう、貴女の書棚の選び方は複雑だった。そして最後はこんなにも暗い場所へ本を返しに来ている」
私を誘導しましたな、愉快そうにジュード・ボルジャーは笑った。
マリアベルの嫌いな類いの男だ。それにしても、クロンクビストの人間は駆け引きを好みすぎだと唾を吐きたい気持ちになる。
「自意識過剰ですわ、わたしの読みたい本がここにあっただけでしてよ」
振り返ったマリアベルは、道を塞ぐように予想通り片目眼鏡の男が立っていることを確認して、ドレスの裾を抓んだ。淑女の礼をする。こんにちは、またお会いしましたわね、ボルジャー卿。何て奇遇なのでしょう。白々しく言葉を連ねる。
「ですが残念、家の者を待たせているのでゆっくり歓談する時間はありませんの。ご用件なら手短に」
顔を上げ、マリアベルはするりと微笑む。
ふむ、とジュードは手で顎を撫でる。
「なるほど。確かに、あのスタインズ侯爵家をお待たせするわけにはいきませんな。誤解されて忠心篤いラドフォードに狩られては堪らない」
マリアベルは胸中で呆れた。ジュードには名前しか教えていなかったはずだ。毎週家門の馬車で往来しているとはいえ、どんな価値があるかもわからない小娘をよくよく観察しているものだ。エリオット・ミラーといい、どこまで調査済みなのだか。
火が揺らいだらしい、男の風采の陰翳が濃くなる。声遣だけは温厚げなふうであるが、それだけだ。初めて会ったときと同じ朱色の着衣──教皇の後見だというからこれは西側の祭服の一種なのだろうが──は、不心得を承知で言うなら、マリアベルには奸智を滾らせた血のようにすら見える。
ジュードは小さく頭を振った。モノクルの奥で鳥羽色の眸が底光りする。
「いや、以前お会いしたときに興味深い本を読んでおられたので、もし好ければ貴女と当国の規範や徳行について語らえればと思っていたのだがね」
規範。──社会で従うべき行動。そしてその徳。
イェイエル河に分断された大陸の西側、古くから『教会』と双肩であった大国クロンクビスト。八年前の政変を機に『教会』から離反し、国を治める権利と義務を神の代理人から奪い取り、人の都となったこの国。その規範と徳行を語る。敬虔な信徒ならば耳を貸しそうな話だ。
面白そうですわねと、マリアベルは眦を歪めた。
「でしたらまた次の機会にしましょう、今日は日が悪いですから」
マリアベルはドレスの裾を捌き、ジュードへ向かって足を踏み出した。蝋が溶ける音ばかりの静謐に靴の音が響く。近寄れば、ジュードはあっさりと道を譲った。マリアベルは前を向いたまま傍らを通り過ぎる。一歩、二歩と遠ざかったところで、男は再び口を開いた。
「──銀と翠がこの国でどんな意味を持つか知っているかね、お嬢さん」
詠い慣れた詩歌を囁くようだった。
「聡慧で憐れな聖母、御膝の欺瞞に報いるのならば私はいつでも手を貸そう」
歩を止め、マリアベルは肩越しにジュードを一瞥した。互いの視線が交錯する。垂れかかった銀髪の内で、マリアベルは嗤笑いを零した。
「詩人の方が向いていそうね、ジュード・ボルジャー。──子犬の伝言を噛みしめなさいな」
ジュードは高い頬骨をさらに吊った。眼鏡の銀縁を朱い光が滑る。恭順そうな素振りで胸に手を当て、聖母の御心の儘にと宣う。お会いできて光栄でしたよ、導きの星──
図書館の入館口へ帰ってきたところ、待っていたのは従僕ではなく侯爵だった。待合室のソファに座り、武人の彫像も斯くやという格好で腕を組んでいた。こちらを見つけるなり投げられた胡乱げな眼差しに、マリアベルは溜息を吐く。
「勘のいい男……」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「それならもう少し嬉しそうにしてくれる? オトウサマ」
一小匙分もそう思っていない調子で相槌したレックスに、マリアベルは半眼になる。風体こそ五十の今尚精悍だが、普段接しているときはただの苦労性の中年としか思われないのに、長年国の中枢で近衛の任に就いていた嗅覚は伊達ではないのだった。マリアベルでも撒くのが難しいときが間々あって困る。
小言と嘆息を咽喉の奥で殺したらしいレックスは腰を上げると、マリアベルに左腕を差し出した。マリアベルは仕方なしに自分の腕を絡める。レックスは、図書館員から預かった本は既に積んだと言った。
連れ添って図書館の外階段を下る。
「迎えに来てみればどうやら様子が普段と違うからな。あんなことがあった後だ、マリアに何かあったらと気が気ではなかった」
「わたしが何を為出かすかの間違いでしょう」
やや間を置いて、まあ正確にはそうだなとレックスは頷く。マリアベルは養父の腕を抓った。
──賽のどの目が出ても不利益を蒙らないようにした。マリアベルがまだ館内にいることは、アベリーを通して従僕へ伝わる。賢い青年だから本の題名から返却にどの程度の時間を要するかは判断がついただろう。時が狂えば、昨日の今日である、不審がられて彼らはすぐに行動を決めるに違いなかったし、マリアベルにもし何かあれば『オーウェン』は図書館に誰がいたかを知っている。足が付くのは速い。況して、マリアベルが身を寄せている相手がスタインズ侯爵であれば尚のことだ。あの場で事件が起こればそれを理由にジュード・ボルジャーに聴取ができたはずだ。
とはいえ、そこまで上手く嵌められてくれるとは思っていなかったが。
街のざわめきに溶け込みながら、お互いにしか聞こえない距離で話す。会ったのかと訊ねられたので、そうねと答えた。
「私に急くなと言ったわりには行動が早いな」
「あちらがあんなに杜撰な襲撃をしなければしなかったわよ。──先日の首謀者は違う人間だわ、あの男も関わってはいるだろうけれど」
「何か証拠が?」
「何も。だからこそよ。それから、あなたに狩られたくはないと言っていたわね」
接触してきたものの言葉を弄してマリアベルの出方を窺っていた、挑発的ではあるが用心深い男だと思った。異端審問気取りの頭巾を被っての襲撃など、容易に手掛かりとなりそうなやり方を好みそうにはない。マリアベルは館内の随分奥へと男を誘い込んだが、抜け出すときでさえ何の手もなかった。先般の手段を踏襲するなら、書棚の陰に刺客を潜ませるような多少の強引さがあってよかっただろうに、ジュード・ボルジャーには、あの場でマリアベルを襲撃する意志はなかったのである。
であれば、先日の企てはジュードと共に聖堂にいた女性の方か。マリアベルは考える。一つの推論としてはそうかもしれない。けれどもそれも、短絡的な結びつけのように思う。
階段を下りきって、レックスの手が促すままマリアベルは侯爵家の馬車に乗り込む。
「エリオット・ミラーには、わたしとのチェスを忘れないようにとでも助言してあげたらいいわよ」
子犬とその飼い主を捕まえるのは簡単だ。だが、それではいつまでも決着が付かない。それどころかおのれの悪手によって敗北を喫する可能性がある。
──首を取るのはこの私。
マリアベルは馬車の窓辺で頬杖をついた。馬の微かな嘶きと車輪の音がしてエイジェルステットの黄昏れた街並みが流れてゆく。向かいに座したレックスはマリアベルの横顔をじっと見つめ、今度こそ嘆息した。
「だから貴女は私の手には負えないと言ったんだ」