16.アンビバレント
壁際に控えた侍従のアランが溜息を噛み殺したのが、目端に映った。唾を飲み込んだのを見るに、咽喉元まで迫り上がったのを今日も今日とてどうにか堪えたらしい様子である。
普段ならば溜息を吐きたいのはこちらの方だと毒づくものの、今回ばかりはそうも言えない。ウィリアムは、いつも通り執務机を挟んで真向かいに立つエリオットへ意識を戻した。見飽きた黒の金襴緞子のジャケットをきっちりと着こなしたエリオットは、陛下が無事政務へ戻られてよかったですと淡泊に言った。果たして本心からだろうかと思う。
「どうも。で、何かわかった?」
「委細は調査中ですが目撃者もいませんでしたし、しばらくは難航するかと。申し訳ありません」
こんなに心の籠もっていない謝罪はエリオット以外には口にできないだろうな、いやレックスもか? と、どうでもいいことを考える。ウィリアムはペンを持つ右手を振った。
「いいよ、僕も不注意だったから。襲撃犯が捕まったところでどうせ黒幕は別だろうね、いっそ泳がせるのはどう?」
「検討します」
慇懃に頭を下げるエリオットを見、ウィリアムは肩を竦めた。
マリアベルと外出し不逞の輩に襲われたのが水曜日で、療養と安息日を経てようやく執務室へ帰ってきた月曜日である。仕事は文字通り山ほどあるため、エリオットに厭味を返す労力がない。ペン先をインクに漬けながらエリオットが持ってきたいくつかの報告を聞く。
目覚めたときには既にどこかの寝台の上だった──という状況は、この八年間に何度も繰り返されてきた出来事だった。だからウィリアムにとっては今更何らかの感情を強く揺さぶられるようなことではなく、意識を取り戻したときも、今回の天井はおのれの部屋の天蓋だなと、首の鈍痛を自覚しながらぼんやり思ったくらいだった。
恐らく、覚醒する以前からそうであったのだろう、アランとニーナが入れ替わりに寝室へ現れては消えた。寝台に上半身を起こせるようになった後は、エリオットとヘイデンから簡単に事の次第を聞き、護衛を担っていたオーウェンが折を見て謝罪に訪れたのを、ウィリアムは全て、一連の作業として億劫にやり過ごした。慣れたものだ。本当にそれだけのことだった。襲撃者の取り逃がし、護衛の過失についての処分は如何様にもと姿を見せる誰それかに言われれば、首を横に振るしかなかった。いずれかの人間を処罰しなければならないというのであればおのれの首こそを最も刎ねなければならないだろうと、急襲がある都度いつもウィリアムは思っていたものだったが、今回はなおのことそうだった。
数少ない腹心に紛れレックスも登城してきたようだったけれど、目が覚めたそのときに立ち合っただけらしいために、ウィリアムには殆ど記憶が残っていない。だから、同行していたマリアベルは無事であるという報告は、エリオットから聞いた。
「一昨日、マリアベル嬢にもお会いしてきました」
ぴたと手が止まる。ウィリアムはエリオットを見た。
「面会したときは未だ頬に被覆材をつけておられましたが、本人もレックス様も大したことはないと仰っていました。お元気そうでしたよ。陛下がご無事でよかったと」
まるで猫のような、複雑な色をしている男の双眸に感情を見出すのは至難の業だ。兄ならできるのかもしれないが、少なくともウィリアムには掴み所がない。彼女の話も陛下やオーウェンの説明通りでしたね、やや記憶が正確すぎるきらいはありましたがと言う。ウィリアムは奥歯を噛んだ。
「……疑ったな、公爵」
「当然です。元々陛下の方が警戒しておられたでしょう」
それは、そうだ。返す言葉がないだけに指先に力が籠もってしまう。パキ、と小さな音がした。
(今のは厭味じゃないわよ、ウィリアム。本音)
とても素っ気ないし事実を全て明かすのではないが、それでも彼女は嘘を吐かない。自分で見て聞いて学んだことしか信じないと言っていたのは本当だろうと今は思っている。誘ってくれてありがとう。色硝子でできた栞を渡したときのマリアベルが脳裏を過ぎり、胸が痛んだ。笑ってくれたと思ったのに。
傷つけるようなことをして。
(呪いをあげようか、ウィリアム)
事件後、不運にも新月だった。監視の目を追い出し、露台から見た銀の花がウィリアムの目の奥で揺れる。
──寝室を抜けると、仕切り一つで区切られた間続きの部屋があるのだ。父王がかつて特別に増設させた、慎ましくも上品で城内のどの部屋よりも細部まで心配りのなされた、露台のある小さな奥室である。そこには、華やかだが落ち着いた花緑青色の絹張りのカウチが一台と、いずれも上質な高級木材仕様の低卓や調度品が揃えられているだけで、父王が存命の頃から、家具は最高級品を配置しながらも質素な設えの、奇妙な部屋だった。
全身の倦怠感と節々の痛みも等閑に寝台から下りたウィリアムは、一人、そこに立ち入った。入るべきではないとわかっていた。目の前がひどく昏かった。──昏い理由はわかっていた。
奥室に灯りはなく、寝室から忍び込む燭台の火が、部屋と部屋、光と闇の境目を克明にしていた。けれどもそれは、視界の明暗には関係がない。昏いのは部屋ではないのだった──露台に続く窓には、嫌に厚く、嫌に整然と、僅かな隙間も許さずに天鵞絨のカーテンが掛けられていて、ニーナだなと思った。間違いなくニーナ・クリスティが、身動き程度では決して裾さえ捲れないように、露台のカーテンを固く閉めたのだろう。あの侍女は本当によくわかっている。
ウィリアムは、あの部屋へ入るべきではなかったしカーテンを開けるべきではなかった。
「アラン、新しいペンを」
暴れそうになる何かを押し止めるように額に手を当てたウィリアムは、壁と同一化しようとして失敗している侍従を呼んだ。アランは、備品棚から新しいものを取り出しそそくさとやって来る。ウィリアムが折れたペンを差し出せばさっと受け取り、新しいペンを手渡して、また元の位置へと戻っていく。ウィリアムは溜息を吐いた。アランの挙動を見ていると幾分か冷静になる。
エリオットを見ると得も言われぬ苛立ちが擡げるので、敢えて書類に目を落とした。
「……わかった。それで彼女の疑いは晴れた?」
「どうでしょうね。ただ、大変頭のよい方だということは理解しました」
そうと頷いたウィリアムに、ですので、とエリオットは言葉を継ぐ。
「今後催される我が公爵家の舞踏会、それから王城の夜会で、陛下の同伴者になって下さるようお願いしました」
「そ──……は?」
今、何て言った。幻聴か?
顔を上げたのが先か、眉を顰めたのが先か。ウィリアムは怪訝にエリオットを見た。年齢を重ねても艶を失わない美貌の公爵は、ふっと、蠱惑的に微笑んでみせる。これは本気だ。眩暈がした。
「貴方の正体を知って隣にいても、況してあのような目に遭っても、まるで怯まないお嬢さんは中々いませんからね。賢明ならばなおのこと使わねば勿体ないでしょう、後見がスタインズ侯爵となれば大凡の貴族は表立って批判もできません」
開いた口が塞がらないというやつだ。この男は一体どこからそれを考えていた。当初はウィリアムと同じく懐疑的だったはずだが──やけに素直に、定期的なマリアベルとの面会を受け入れていると思ったらそういうことだったのか。さらには事件のこの機を利用しようとしている。
そうだった。あまりに辟易と日々同じ遣り取りを繰り返したせいで忘れていたが、ウィリアムが妃を迎えることは、ハーシェル公爵エリオット・ミラーの最優先課題なのだ。
眩暈の次は、頭痛がする。ウィリアムは蟀谷を揉んだ。
「それ、ベルは了承したの?」
「はい」
「どうやって?」
「チェスで賭けを。……私が彼女を楽しませることができたら構わないと」
それまで淀みなかったエリオットの舌に少し苦いものが混じった。何だ、とウィリアムは一瞬思ったけれども、エリオットは何でもなかったように話を続ける。
「彼女ならよろしいでしょう? 陛下。足繁く図書館へ通われ、外で逢瀬されたのですから」
「エリー、僕は彼女に迷惑を掛けたんだよ? この上で婚約者候補みたいな扱いで振り回せっていうの」
「泳がせるというのなら今後を考えれば却って安全かと」
「それは……」
「それに、いつものようにきっぱり嫌だとは仰らないのですね?」
読まれている。ああ嫌な男だなとウィリアムは思う。ニーナは固くカーテンを閉めたが、目覚めた後のウィリアムの行動をそうして読んでいたのなら、最初から王の居室以外の部屋に運んでおけばよかったのだ。エリオットは崖の際で駆け引きをしている。大きな安寧のために少しの危険は顧みない。血濡れた道に引き込んでそれを選ばせているのは他でもないウィリアムなので、いくら公爵がおのれの部下ではないといっても──部下ではないから、かもしれない──強く責めるわけにもいかない。
兄上なら、と独りごちる。目線を落としたら書類に染みができていた。インクの先を付けたままだったのだ、この紙はもう駄目だと嘆息する。読めない。
黙ったおのれに、ウィリアム様、とエリオットが声を掛ける。気のせいか幾分調子が柔らかい。
「私が信用ならないのであれば、ご本人に直接聞いてみてはいかがです。丁度図書館へ来られたようですよ」
山積みの仕事を放置して王城から出、リンドブロム主宮のさらに先にある国立図書館へ向かうのには気が引けたが、マリアベルに謝罪しなければならないという気持ちもあって、ウィリアムは用意されていた馬車に乗った。元々王の所有であったこともあり城館と接続しているので普段は徒歩で行くのだが、先般の出来事が考慮されての馬車である。襲撃事件があるとしばらく自由はないのだった。
本当のことを言うと、ウィリアムを襲った実行犯の目途は付いている。異端審問気取りの頭巾を被っている複数人という状況から、ここ最近でウィリアムが反発を招きそうな判断をしたものと考えれば、学閥、アマルベルガの件しかないからだった。数週間前に教皇庁からの聖務職者の派遣についての請願書を却下した。どちらにしろ火種になるのなら国民を巻き込まずおのれだけが標的になればいいと思ったが、マリアベルに怪我をさせることになるとは。完全にウィリアムの手落ちだった。
野放しにしておけば、現場に居合わせたマリアベルも今後また狙われるかもしれない。
だというのに、泳がせるのはどうかとこの口は言う。
(嫌な人間だ)
国の為に一人の犠牲はやむを得ない、そのような考え方をひどく憎悪したがゆえに選んだ道で、結局類することをしようとしている。クロンクビスト王族の血は争えないとでも証明するかのようだ。
(一緒にいれば却って安全か)
答えを導き出す前に、蹄の音が止まる。徒歩でも行ける距離なのですぐに図書館へ着いた。不自然ではない程度に衛兵の数が増えている王族専用門を通り、ウィリアムはマリアベルが日頃本を読んでいる空間へ向かった。どうするにせよ、事件については謝罪しなければならない。
天井まで続く本の森の合間を抜けてゆく。最奥の少し手前で、薄暗かった空間にすっと光が射して、複数の机と椅子が備えられた場所に出る。窓からは燦々と陽射しが入り込んでいた。その下でいつも通り、一番片隅にある二人掛けのソファに座って、マリアベルは本を読んでいる。ウィリアムは足を止めた。
装飾の少ないワンピースに、礼を失しない程度に結われた銀髪。五分丈の袖からは白い腕が伸びている。頬に被覆材を付けていたとエリオットは言っていたが、取れているようだった。
何と声を掛けようかとウィリアムが逡巡していると、相手が先に顔を上げた。
「何をしているの?」
雪で白んだような緑眸が、ウィリアムを捉える。
「そんなところに立ったままどうしたの、ウィリアム。……何だか前にも言った気がするわね」
ふ、と口許を弛めて言い、マリアベルは手にした本と積み上げた本を取り替える。少しの変化も感じられない声色に、ウィリアムはほんの微かに息を吐いた。そこでようやく、柄にもなく緊張していたことに気づいた。
「……この間はごめん、ベル」
息を吸って、吐くと同時に声に出した。人の気配が薄く静まった館内では、小声でも響く。
マリアベルは改めて視線を上げると、首を傾げた。
「何が?」
「何がって、危険な目に遭っただろう。怪我もしたって」
「それは事実だけれど、あなたが謝ることではないでしょ。あなたが私を襲ったのではないし」
それとも用意周到に準備していたの、あれは演技? とマリアベルに問われて、ウィリアムはまさかと頭を振った。マリアベルはいつも通り素っ気なく、ならいいでしょ、と言う。
「怪我なら大したことなかったわ。あれはただの不運よ」
「……僕と一緒に出掛けていなかったら襲われることはなかったんだよ、ベル」
「あなたと出掛けなかったらわたしはずっと侯爵家に引き籠もって、レスカの味も、エイジェルステットの旧市街の美しさも、あなたと外を歩けて楽しかったという気持ちも、知ることはなかったわね」
抑揚はあまりなかったが、清冽と美しく、揺るがない声だった。ウィリアムに自らの何も疑わせないと言わんばかりの。ウィリアムは言葉を見つけられずに立ち尽くした。マリアベルはウィリアムを見ている。
「わたしはあの日、あなたと出掛けられて楽しかったと言ったのよ。忘れないで」
あの日のように微笑みこそしなかったが。
今日も変わらず、マリアベルは欺瞞なく言葉を紡ぐ。大きく確保された採光から振る粒子を、銀髪が弾いて目映い。
「それよりウィリアム、あなた、寝てないでしょう。ひどい顔よ」
ウィリアムが呆然としているとマリアベルは顔を顰めた。読んでいた本に栞を挟んで脇机に置き、ウィリアムの方へと歩み寄ってくる。身構える間もなく手を取られ、それまで彼女が座っていたソファに無理矢理腰を下ろさせられた。そうしてマリアベルは隣に座ると、強い力でウィリアムの肩を自分の方へ押した。何を、と頭が働き始めたときには、ウィリアムはマリアベルの脚の上に横たわっていた。──膝枕だ。
「な……ベル」
「ちゃんと寝ないからおかしなことを考えるのよ、寝なさい」
ウィリアムは慌てて身を起こそうとしたが、マリアベルが深く覗き込んできたために途中で止まるしかなかった。下手をすると顔がぶつかってしまう。息が掛かるほどの至近距離で睨み合い、先に折れたのはウィリアムだった。マリアベルの言う通りおのれは寝不足で、今、まともに思考できているかと問われるととても怪しいのだった。エリオットにそこを突かれたくらいには。
大人しく彼女の腿に頭を下ろし、しかしせめてもの抵抗で、腕で両目を隠した。
顔が熱い。笑いが込み上げる。
「……硬いよ、ベル」
「おきれいな額に角から本を落とすわよ」
打てば響く。うん、とウィリアムは頷いた。──異母姉はいつも花の匂いがしたものだったが、マリアベルからは本の匂いと、何となく、冬の清んだ匂いがするような気がした。そういえばミルヴェーデンには行ったことがないと、ぼんやり考える。兄の留学先がそちらの方だったような気がするが、帰国してすぐに父王が亡くなったので詳しく聞いたことはなかった。どんな国なのだろう。銀狼が切り拓いた北方の雄。今は女王だったか。
でも、クロンクビストよりは、きっとまともだろう。
「……むかし」
硝子を隔ててゆるんだ夏の太陽光が、さわさわと肌を撫ぜる。マリアベルの陰にいるので暑さもなく、睡魔が忍び寄ってきた。目蓋が重い。本当に寝てしまうなと思いながら、ウィリアムは呟く。
「兄上が姉上にこうしているのを見たな……」
離宮近くの東屋で、兄は本を読んでいて、異母姉はその膝の上で眠っていた。幸せそうだった。あの頃のふたりはいつだって、幸せそうだった。幸せでいてほしかった。
──月のない夜、銀花が風に揺られている。
カーテンを捲る。玻璃の扉を開けば一面に青白い光が浮かび上がった。血に濡れた手で王冠と王笏を掴み取り、蔓延った悪夢を嫌忌してなお、ウィリアムはあの花園を燃やせずにいる。