14.アンノウン
秘書長のニコラスが、室内に取り揃えられた燭台のそれぞれに火を灯してゆく。その様子を眺めていた教皇ユストゥス七世こと、ヴィンセント・クロフは、最後の蝋燭にゆらりと灯火が揺らめいたのを見届けると、極々小さく息を吐き出した。瞬きですら頼りない灯りを脅かすのではないかと恐れるかのように、とても緩やかな動きで、鳥羽色の双眸を伏せる。そうして、卓上で組み合わせたおのれの両手を見下ろし、独白のように言う。
「不憫だと思っています。この国の王はいつも孤独だ」
ヴィンセントは、今、自らが身を置いている手狭な接見室の暗い天井を見上げた。否、そのずっと先にある天を仰いだのかもしれない。
「元より歴代のクロンクビスト国王は、国と国民のため儀礼的に『教会』を尊重しておられただけで、誰もみな、おのれが裡のためには決して敬虔な信徒ではありませんでしたが」
あたかも幻視しているかの如く、ヴィンセントは一点を見つめたままに語る。誰もみな神の名を囁かず、聖書は閉じたまま。八年前に別れた最も若き王はさらに、聖地ラーゲルクランツにある第一使徒のための司教座大聖堂の扉さえも重い鍵を掛けてしまい、祈りや救済の教えを全て拒んでしまった。
ヴィンセントは視線を戻すと、憐れみ深い眼差しを、長卓の向かいに座すジュード・ボルジャーへと流した。ヴィンセントが組んだ指の節々には、ほんの僅かに力が籠もっている。
「ですから、救いの手があるというのなら、神でなくともよいと。わたくしが言うのもおかしな話ですが」
ジュードはそれを鼻で笑いこそしなかったが、唇が歪むのを抑えることはできなかったようだ。片眸を覆う銀縁のモノクルに赫赫たる火影を映し、低い笑いを洩らす。何を仰いますとジュードが反駁したのは、ヴィンセントの話よりも、一拍も二拍も遅れてからのことだった。
「現王の行いは、罪とは斯く在るべきと言わんばかりのものでございましょう。あの方は傲慢にも許しなく神へと近づこうとしている。王による闘争は各地に様々な分断をもたらしました。中でも以前から『教会』の有り様に否定的であった抗議者には、いかがわしい宗教改革運動なるものの契機を与えてしまい……嘆かわしくも影響されている民衆もおるのですよ、猊下」
ジュードの、深刻な内容に反してどこか軽妙洒脱な話し方は、古の宮廷道化師の滑稽さを演じるかのようだ。所詮自身はヴィンセントに具申する立場でしかないのだと証明しているみたいにも見える。
クロンクビスト国王に触発され『教会』への抗議者たちが影響力を持ってしまったとしたらと、ジュードは無骨な顎に触れながら続ける。
「私たちが長く啓蒙してきた多くの教義がいずれは通じなくなりましょう。……ああ、これではまるで聖書における聖塔の教訓ではありませんか」
なあそう思うだろう、ニコラス、と。唐突に水を向けられたニコラスは、ヴィンセントに紅茶を用意していた手を一瞬止めると表情の乏しい面でジュードをちらと見遣って、愚僧にはお答えできかねます、と素っ気なく答えた。ジュードはうっすらと険のある目つきになる。
――人払いした接見室においては侍従の真似事をしているが、ニコラスはジュードとは立場を異にする。彼には『教会』内において権限が与えられている。秘書長は教皇によって指名を受けて任じられた本庁の長官であり、教皇が不在の時にはその代理を務める職責があるからだ。ゆえに、ニコラスが何を発言するかということは、ヴィンセントには及ばずとも特別なことだった。端的で抑揚のないただの回答の拒否も、ジュードの演説よりは意味がある。
ニコラスは何も聞かなかったとばかりに澄ました顔をして、ヴィンセントの前に紅茶を差し出すと、静寂に溶けるようにその斜め後ろへと侍った。ヴィンセントはニコラスへ微笑んで礼を言うと、そうですねと首肯する。
「わたくしもそのように思います、ニコラス」
「畏れ多いことでございます、猊下」
やはり感情の読めない応えだったが、ヴィンセントは笑みを深めると組み合わせていた両手を解いた。淹れ立ての紅茶が細波を打つカップを手許へ引き寄せ、傍に備えられた陶器を取って、手ずから牛乳を注ぐ。
こぽこぽと雫が沈む音に重ねて、宗教改革運動については、とヴィンセントは口を開いた。
「その運動についてはわたくしも考えるところがあるのは確かです。本庁も対抗してゆかねばならない時機には来ているのかもしれない。けれども、そのこととクロンクビスト国王の行いへの糾弾は、別の問題でしょう」
国王が無垢な民衆を扇動したのであるならばともかく、彼はただ、前王の経緯を踏まえて『教会』と距離を置くことを選んだだけ。
ジュードに語り掛けながら、ヴィンセントは匙でゆっくりと紅茶を混ぜる。
「そして、かつてのその選択を、闘争と呼称することには以前より誤解があります。事を一紮げにしてはなりません。改革運動は派生的な結果に過ぎないのですから」
ややあって手が止まると、灯火に美しく濡れた鳥羽色の瞳がしんと静かに、上向く。もう一度申し上げますが――
「わたくしは、ウィリアム=メディオフ・オルブライトという人を、不憫だと思っています。彼は自分が穢れることを厭わずに、この国の最も暗いところへと飛び込んでいった。罪を許せぬ貴方の考えはわかりましたが、わたくしはウィリアムを憐れみこそすれ、ニコラスと同様にその問い掛けへ明解を示すことはできかねます、ボルジャー卿」
主もお望みではないでしょう、そう言い添えて、ヴィンセントは紅茶に口を付けた。ヴィンセントを見守るように、室内のあちらこちらで焔が揺らめいている。一方で、モノクルの銀縁には濃い陰翳を刻み、ジュードは、ヴィンセントとは似て非なる鳥羽色の眸を眇めた。嗤笑が浮かんでいる。
「――聖座におわす御方が世迷い言を」
その言葉に反応したのはヴィンセントではなくニコラスだった。卿、と諫める声に初めて感情が乗る。ヴィンセントはカップを戻すと、構いませんよと気色ばんだニコラスを制止した。ジュードはニコラスを冷瞥した後、猊下は本当に慈悲深く在らせられる、と元々高い頬骨をさらに吊り上げる。
「猊下を愚弄するおつもりですか、ジュード・ボルジャー」
「ニコラス」
「まさか。とんでもないことだ。ですが、卑賤の身ながら注進申し上げたい」
お許し下さいますかなと到底おのれを謙っているとは思えない風情のジュードに対し、それでもなお、何でしょうと訊ねるヴィンセントの調子は穏やかでぶれがない。―― 一等若年の枢機卿でありながら、醜聞が立った前教皇、その一代前は暗殺という、前代未聞のあの混沌期に教皇選挙で選出されただけのことはある。
それも通例何度かは繰り返される選挙で、ただ一回きりの満場一致で、ヴィンセント・クロフは教皇の座に就いたのだ。
「余りにもお優しすぎると」
弓形に撓る眸を隠すモノクルに、一層色濃く、暗い火が燃える。
「前任と同じく疑われますぞ。――国王と癒着しているのではないかとね」
ヴィンセントは、ジュードを見た。
瞬くと、迷いなく清らかな声でそれに答える。
「神は全てを見ておられる。もし、ウィリアムを憐れむわたくしに罪があるのなら、いずれ裁かれるときが来るでしょう。それだけのことです」
――その会話を、接見室を装飾する壁掛けの綴織の裏側で聞いていたオフィーリアは、美しく紅を剥いた唇を引き結ぶと、続く使用人部屋へと取って返した。あの憎々しい簒奪者の異母弟と闘争した教皇をこちら側に引き入れることができれば事は容易いと考えたのに、あれでは上手く踊らせられそうにない、と内心で毒づく。
どういうことなのだろう、自らも大国の首座司教の地位を追われて何故あのように異母弟を庇い立てるのだ。オフィーリアは奥歯を噛み締めた。接見室よりもさらに狭隘な部屋の中、毛脚の長い絨毯の上で地団駄を踏んだ。八年前の闘争は誤解だとヴィンセントは言った。何が誤解なのか。兄は死んだのだ。オフィーリアが思慕した最愛の兄は、誇り高く美しいあの兄は、狡賢い異母弟に卑しめられ処刑され、八年前に死んだのだ!
神によって哀憫されるべきは永遠に喪われたあのひとだけだ――
「猊下は純粋で在らせられるだけだ。猜疑するということを知らないのです」
怒り狂うオフィーリアの眼前に、いつの間にかジュードが現れていた。オフィーリアが接見室から離れてどれほどの時間が経過したのかはわからないが、ヴィンセントと話し終え、見送りも済ませたのだろう。酷薄な気配を纏わせる鳥羽色の双眸を、オフィーリアは睨めつけた。噛みつかずにはおれない。
「ボルジャー卿、話が違うのではなくて!」
「――オフィーリア様」
声を荒げたオフィーリアを冷静に押し止めたのはしもべだった。オフィーリア様はお怒りになる声までも大変美しいですが、どこで誰に耳を欹てられているかわかりませんからお気をつけ下さい、としもべが囁く。美声に引き寄せられた蛾などがやって来るかもしれませんよ、しもべの諫言にオフィーリアはぐっと黙り込み、けれども腹立ちを全ては抑制できかねて、袖口から扇を出すと激しく鳴らした。ジュードを睨む眼差しはそのままに、紅が落ちんばかりに唇を噛む。
ジュードはわざとらしく目を瞬かせると、ヴィンセントの前では非情そうだった笑みを苦笑にすり替え、肩を竦めた。女神は燃え盛っても美しいと申しますが参りましたな、と呟いている。
「あの方は未だ誰の味方でもないというだけでございますよ、殿下。案ずることはない」
飄然としたその態度に、オフィーリアは苛立った。現教皇が聖座に就く際に、その手腕で後見人の地位を獲得したという聖職貴族のこの男を、どこまで信用すべきなのか。図りかねる。オフィーリアは為損ねるわけにはいかないのだ――あのひとの復讐を果たさねばならない。絶対に成し遂げなければならない。だというのに。
「先の愚図たちといい、あなたといい、何なの……!」
叫喚こそ堪えたが、オフィーリアの咽喉は震えた。扇を持つ指先にきりきりと力が入る。
ジュードはいかにも人の好い笑みをはくと、落ち着きなさいませ、と部屋に唯一置いてある豪奢な椅子をオフィーリアに勧めた。使用人部屋に似つかわしくないそれは、オフィーリアのために用意された、深い光沢を持ち滑らかな手触りの天鵞絨が座面と背凭れに縫い張りされ、煌びやかな宝飾も施された、まさに王族のための一脚だった。
それでも憤懣遣る方ないオフィーリアに、さあ殿下、とジュードは傅いてさらに促す。オフィーリアは細い眉間に皺を寄せると、黒のドレスを捌いてその椅子に腰を下ろした。
傍らに跪いたジュードが許しを請うので、しばらく沈黙した後、辛辣な表情でそれだけは受け容れる。
「お優しい殿下が焦燥を感じられるのも仕方ないこととは思いますが、急いては為損じるだけ」
皺一つない自慢の手を恭しく掲げ、その甲に口づけたジュードは、鋭利さを潜ませた声色でそう言った。
「心優しい者にチェスはできない」
「……わたくしにチェスの心得などあるわけがありませんわ」
「無論、殿下は貴婦人の鑑でいらっしゃいますからな。俗諺ですよ」
ジュードは立ち上がると、神々の遊技に犠牲は付きもの、と零す。それも将棋の至言なのだろうが、オフィーリアには理解のしようがない。オフィーリアがむくれて黙り込むと、ジュードはふと笑い、壁と同化せんというさまで控えるしもべを横目で見た。だがすぐに、気疲れされたのだろうから今日はお帰りになって休まれるといい、と再びオフィーリアに向き直る。殿下には手狭な屋敷で恐縮ですがね、モノクルの奥の眸が細められる。
「神が全てを見ておられるのなら、最後には正しい側が勝つ。好いようになりましょう」
先般逃げ戻ってきたあの者たちも仕留め損ねたとはいえ、愉快なことを申しておりましたから、ジュードはオフィーリアの手を掬い優雅に立ち上がらせると、舞踏会の広間へ誘い出すかのように部屋の外へと導いてゆく。接見室に繋がる扉とは違う場所から長廊下へと一歩を踏み出せば、やはり赫赫と、掛け角灯の内でいくつもの火が揺れていた。