13.土に還らぬ灰が笑えば
「……暑い」
「もうわかったから」
一体何度目になるかわからないマリアベルの嘆息に、ウィリアムは苦笑をはいた。涼しいところで休憩しようかと言われ、眉間に皺を寄せていたマリアベルは、深く差した日傘の内で力なく頷いた。辛うじて、疲れたとは口にしていなかったが、はっきり言ってこの外気温での行動は苦行だった。身体がクロンクビストの暑さに慣れてくれないのだから仕方がない、と内心で自己弁護をする。自分がひたすら引き籠もり生活を送っていることは、棚に上げておいた。
クロンクビストが王都、エイジェルステット。
二区に立地する市庁舎、その眼前にある、ほとんど正方形に成形されたスヴェル広場を横切り、ウィリアムは歩き慣れた様子で、目抜き通りへと進んでゆく。ふと、マリアベルが視線を落とせば、通りの入口のためか、石畳に『ヴァリ』と銘が刻まれていた。マリアベルは日傘を傾けると、普段の美しい黄金の艶など見る影もない、ただの黒髪を風に流してゆくウィリアムの背中を追った。
全く、とマリアベルは独りごちる。ウィリアムの気晴らしに付き合っているはずが、気温の上昇とともに黙り込んでゆくおのれの方が、余程ウィリアムに気遣われている。何をしに来たのだかと自身に呆れるばかりだが、それでも彼は、マリアベルの不満にも嫌な表情一つしなかった。苦笑だけで文句をあしらい、颯爽としているその立ち振る舞いこそが、ウィリアムの素顔なのかもしれない。――本来は穏やかな気性だと、レックスも言っていたではないか。
暑さで鈍る思考でそんなことを考えていると、往来のざわめきの途中で、不意にウィリアムが振り返った。夏の空を映したきれいな碧眼が、マリアベルを捉える。その眸を見返して、正体が露見すると大事になるからと、すっかり黒染めした金髪を惜しいなとマリアベルは思った。建ち並ぶ商業施設、意匠を凝らした看板、街灯、色鮮やかに踊る貴婦人の日傘、行き交う人波の向こうに開けた青空と積雲に、彼の、眩い金髪ときれいな碧眼は、よく映えただろうから。
──きれいだと思う。
普段対峙するあの昏い瞳ではなく、大空の下でほんの少しだけ、ひとときの自由を取り戻した、ただの『ウィリアム』であるこの双眸は。
「ベル?」
大丈夫かと訊ねられ、マリアベルは小さく失笑した。ウィリアムが目を瞬く。
「何でもないわ」
天然氷がグラスの中で涼やかな音を立てる。年中、国のどこかしらに氷雪のあるミルヴェーデンとは異なり、クロンクビストでは、冬季の間に切り出した氷を地下や洞窟などの氷室で融けないように保管して夏季を過ごすらしい。言っておくけれど高級品だから、とウィリアムに笑われながら、マリアベルは供された飲料に手を付けた。炭酸水に、皮ごと刻んだレユイと花蜜、少しの岩塩等を混ぜたものである。レスカというらしい。一口含めば、咽喉の奥で甘酸っぱさがしゅわっと刺激的に弾けた。
「美味しい?」
日頃の装った無邪気さではなく、本当に少年のようなふうで、ウィリアムは悪戯っぽく訊いてくる。マリアベルが、炭酸水の名残で痺れる咽喉に手を遣ったからかもしれない。奢ってもらっておきながら不味いと返すほど性根は腐っていないつもりのマリアベルは、すっきりするわね、と答えた。紅茶の方が好きだけれども。でも、夏の炭酸水とレユイの組み合わせは、確かに爽快ではある。
ウィリアムの方はといえば、温かいゾエの紅茶に、レユイの砂糖漬けだった。――そういえば、最初にラドフォードの屋敷で彼と相対したとき、執事が用意した紅茶もゾエだったと、マリアベルは朧気に思い出す。ゾエに特徴的な花の匂いが柔らかく薫る。ウィリアムがカップの持ち手に指を掛けるのを眺め、マリアベルはそれから、街並みの方へと視線を向けた。
熱を孕み、祖国の夏より少し湿り気を帯びた風が、汗ばんだ首筋をふっと擽ってゆく。
離れたところから風に乗ってやって来る、賑やかな喧噪に耳を澄まして、マリアベルは白緑の眸を細めた。
勝手知ったるふうで、ウィリアムが迷いなくマリアベルを案内したのは、目抜き通りを横道に逸れ、やや入り組んだ小路にある高級茶寮の一つだった。何度か来たことがあるらしく、主人とも給仕とも顔見知りで、本来であれば付添人が取り次ぐだろうところを――とはいっても、今日は表面上は、侍従の一人もいないのだが――ウィリアム自ら声を掛け、日陰で風通しのよいテラス席にマリアベルを座らせた。レスカを注文したのも彼である。昔は僕もよく飲んだんだよ、と言って、ウィリアムは笑った。
――供を付けず、貴族の放蕩な次男坊のような体で、侯爵家へ迎えに来たウィリアムを見たときの、レックスの呆れた顔が甦った。
あれは随分とやらかしてきた前科のある反応だったなと、マリアベルは思う。
人のことは言えないが。
目端に映る、ウィリアムの扮装は大したことがない。金髪を黒に染めたせいで、普段よりさらに全身が黒ずくめなだけだ。装飾のない絹の黒シャツ、同色のジレにズボンという恰好である。僕の姿を知っている者はみな、『金髪碧眼』という派手な見目でこちらのことを憶えているから、案外気づかれないんだ――というのが、ウィリアムの言い分だった。それに、堂々としていれば、人は却って見過ごすものさ、と。
そんなものなのかもしれない。実際、王城の敷地に隣接する一区、多くの貴族が邸宅を構える三区と四区、それらに囲まれる形で位置する王都中央部の二区は、国民のための行政機関や商業施設が軒を連ね、大貴族から中産階級、労働者まで、とにかく雑踏が忙しないのだが、スヴェル広場や目抜き通りを歩いても、ウィリアムが衆目を集めることはなかった。王の尊顔を直接拝せる立場など存在が限られているので、人通りが多ければなおのこと見逸れるのだろう。暑中の街歩きによるマリアベルの不満など百も承知で、貴族を気取って仰々しくあちこちに馬車で乗り付けなかったことも、ウィリアムにとっては、木を隠すなら森の中、という理由なのかもしれなかった。
茶寮のある小路の人波は緩やかだ。街路に面した席であっても、屋根が深めに設営されているため、早々目立つ気配もなかった。
頬杖をついたウィリアムは、何を話すこともなく、往来の人々を見ている。
氷が解けて、カランと歌った。
グラスの結露を指先で拭い、楽しそうで何よりだわ、とマリアベルは呟く。その声に、ウィリアムは眼差しを動かすと、汗の一滴も滲む様子のない玲瓏とした面持ちに、微苦笑を浮かべた。
「……ベルには暑い中付き合わせて悪かったと思っているよ」
「今のは厭味じゃないわよ、ウィリアム。本音」
暑いのは嫌だけれどわたしも楽しいもの、と、マリアベルはレスカを飲む。――居候している侯爵家の屋敷がある三区は、壮観だが退屈な大邸宅ばかりであるし、週に一度、国立図書館へ向かう道すがらに馬車窓から眺める一区は、何世紀も徹底して保全されている権威主義的な歴史的建造物が所狭しと凄んでいる。それらと比較して、二区は洒落っ気があり、鷹揚として、小気味よい。王の膝許や高級住宅街ほどの整然さには欠けるものの、新興の中産階級が設計したらしい施設の外観は目新しいし、路上で気鋭の画家たちが素描しているのを眺めるのも、流行の先端をゆく客たちが踊るように買い物をしている横を通り過ぎるのも、生き生きとして、華やかで好い。――白銀と沈黙こそが街の全てであった、ミルヴェーデンの首都サンダールとは、全く異なる『人の都』だ。
レスカの咽喉を突く感覚にやはり首許を抑えながらマリアベルが感想を洩らせば、ウィリアムは一瞬きょとんとした表情をした後、面映ゆそうに破顔した。
「……そう」
よかった、と。
彼は静かに息を吐く。
「この茶寮にはよく来たの?」
「昔ね。ここは各地の茶葉の仕入れもしているから、時々家を抜け出して買いに来た。……姉が、紅茶好きだったから、喜んでもらいたくて」
返事の後半は、話すことを少し躊躇うような調子だった。茶器を手のひらで包み、金の睫毛を伏せたウィリアムは、落とすように微笑する。家の者を使えばよかったし、そもそも行商を呼べば事足りたような買い物だったのだけれど、末っ子の僕は兄弟姉妹の中で唯一気儘な子どもで、一方で、姉は特殊な環境にいて、自由のないひとだったから、この街の空気も一緒に彼女にあげたかったんだよね、と。
きっと、彼女にとっては、何の価値もないことだったのだろうけれど。
やめられなかったのだと、ウィリアムは吐息の隙間でわらった。
「莫迦だなあと思うよ。……僕ではだめだと、わかっていたのだけどね」
記憶の引き出しを開け、マリアベルにだけ、遠い日の思い出の欠片をひっそりと見せてくれたウィリアムは、最後には洒脱に肩を竦めて、皮肉るように口角を歪めた。その仕草は、幼い頃の悲しみの影を押し隠すみたいに、マリアベルには見えた。そうして、図書館で会うときのウィリアムの高慢は、おのれを監視する誰に見られるかもわからない場所ゆえの仮面なのかもしれないと、何となく思う。
明るくて、優しくて、素直な『ウィリアム』。
それは今日が、彼にとっての非日常だから覗いているものに過ぎず、来週図書館で顔を合わせたなら、きっと『ただのウィリアム』のふりをした『ウィリアム=メディオフ・オルブライト』に戻ってしまうのだろう。あの、常闇の蔓延った昏い碧眼を嵌めて。
胸の裡でそう悟って、惜しいなと、改めてマリアベルは独白した。
青空の似合う、きれいな眸なのに、と。
太陽が真南を過ぎ、ある程度気温が落ち着くまで、ふたりでその茶寮にいた。
特段、何かについて話し込んだわけではなかった。路をゆく人々を眺めながら、図書館で話すような中身のないことを言い合ったり、普段なら口にしない思い出話を少しだけしたりして、けれどほとんどの時間は、心地好いざわめきと風の音、ふたりの間に降り積もる静寂に耳を澄まして、一刻半くらい安閑と過ごしていただけだった。
マリアベルがひそかに悪戦苦闘していたレスカの炭酸が抜けてしまう頃、揃って茶寮を出た。――なお、飲めないものをウィリアムが無理に勧めることはなく、もとよりマリアベルの最初の反応を面白がっていただけのようで、早々に冷やした紅茶を提供してくれたため、涼と休憩は十分に取れた。とはいえ、半分くらいは残してしまったレスカは勿体なかったし、茶寮の主人にも申し訳なかったと、マリアベルはこっそり溜息を吐く。機会があるのなら、次は飲みきれたらいいなと考えつつ。
ウィリアムは、目抜き通りへは戻らず、小路の奥へと歩いていった。王都の地理が把握できていないので定かではないが、恐らく一区方面へと進んでいる。街並みは、徐に、市庁舎やスヴェル広場周辺とは異なる風景へ切り替わってゆく。旧市街なのかもしれない、濃い赤茶色の煉瓦で構築された家々は童話的で、これまでの区画とは、また情緒が異なっている。二区は本当に多彩な表情のあるところだ。マリアベルは背後へ日傘を反らすと、出窓から蔓を伸ばして、壁沿いに溢れている紅紫の花を見上げた。薄い花弁を透かして、刻々と黄昏に色を変えてゆく光が降っている。
後れ毛を攫う風も、気がつけば、微かにぬるくなってきていた。
最早どこを歩いているのか、マリアベルにはさっぱりわからなくなっていたが、路地裏の、花で装飾された拱門をくぐって階段を降りたところで、ウィリアムは立ち止まった。振り向いた彼に、ベル、と呼び掛けられて、マリアベルは小首を傾げる。
「ここで少し待っていてくれる?」
マリアベルが返答する前に、ウィリアムはどこかへ身を翻した。
何だろうと思いながら、マリアベルは、とりあえず言われた通りにその場で待つことにした。大気中には熱気こそ未だに残っているが、体感としては大分呼吸がし易くなったような感じがする。風に煽られて、紅紫の花びらがいくつか舞い上がった。それに誘われてマリアベルがふっと視線を上げると、小路の出口だったらしく、開けた空間が一面見渡せた。目前には、油絵具で厚く塗りたくった夏の青さが剥がれ墜ちた空が広がっている。淡い紫と、一部では燃えるような緋が滲み出し、色彩が入り混じりながら棚引いていた。
そして、不穏な気配に染まる天空の真下には、中規模の聖堂が一堂、佇んでいる。
適当に目測してもスヴェル広場ほどではない、せいぜい、近隣住民が集会できる程度の聖堂前広場に、尖塔の黒い陰が延びている。マリアベルは拱門の壁際ぎりぎりまで下がり、日傘を深く差し直しておのれの顔が見えないようにすると、気配を潜めた。――聖堂の入口付近で、一人――否、二人、影が蠢いている。
――クロンクビスト現王は、『教会』及び教皇庁から離反し、政教の分離こそ宣言したが、国民に開かれた聖堂を鎖すことや、彼らが信仰することまでもを禁じたわけではないのは、公然たる事実だ。また、そのような判断に至った前教皇の腐敗という経緯を鑑み、理解ある支持者が少なくはないことを、各国を渡り歩いたマリアベルは知っている。
けれども決して、多いわけではないのだ。
特にクロンクビスト国内においては、各教区に聖職者が配置されなくなったことについて、当の聖職者や、貴族だけではなく、一般国民からの反発も大きいと聞く。即位から八年が経ち、背教者による弾圧だという非難の声こそあまり耳にしなくなったが、実際のところの彼らの心中など推し量れるはずもない。レックスは『反現王派』と呼称していたが――
聖堂近くにいた人影は、長居は無用であるとばかりに、数分のうちにはいなくなった。
マリアベルは眸を眇める。
(……ジュードと名乗っていたかしら)
遠目には姿が見えないよう配慮していたのだろうが、聖堂の背後から鋭利に射した西陽が、一瞬、見覚えのあるモノクルを閃かせた。高い頬骨の横顔。肌も褐色であった。対面していた相手の容貌は判別できなかったが、女性のような印象がある。動きに俊敏さがなかったためだ。あれは、ドレスの裾を捌く所作だった。
「ベル」
ウィリアムの声がして、マリアベルは顔を上げた。
「どうしたの」
そんなに壁際まで下がって、とウィリアムは不思議そうに訊いてくる。日傘を浅い位置へと戻しながら、マリアベルは肩を竦めた。西陽が眩しかったのよと答える。
「西陽?」
「そう。――それより、どこへ行っていたの?」
待ちくたびれて一人で帰ろうかと思ったわ、素っ気ない物言いを付けると、それは困るなと、ウィリアムは眦を弛めて、微笑んだ。
そうして彼は、多分にそれを買いに行っていたのだろう、綺麗な包装のなされた縦長の小箱を差し出してきた。箱の真ん中で花結びされた、真白いレースのリボンが可愛らしい。マリアベルは目を瞬かせる。どうぞ、と、ウィリアムに品善く紳士然と贈られて、その遣り取りがあまりに普段のふたりと掛け離れたものだったせいで、少し、ほんの少しだけだけれども、らしくもなく緊張した。一度は躊躇した指先が、ゆっくりと小箱に触れる。
「暑い中一日付き合ってもらったお礼と……お詫び」
自然な挙措でマリアベルの日傘を取って、それをこちらへと傾けながら、ウィリアムは開けるよう勧めてくる。マリアベルは箱に手を添えた。リボンは蓋箱の側にのみ付いていて、簡単に持ち上げられる。
中に入っていたのは、栞だった。
普通の一枚紙の栞ではなく、極限まで薄く平らに伸ばした、着色された硝子製の栞だ。細長く切り刻んだ緩衝材を下敷きに、壊れぬように仕舞われている。――栞だと気づけたのは、見慣れた形状と、上部一箇所に小さな丸穴が開けられていて、そこにやはり、真白いレースのリボンが結われていたからだった。
栞には、簡略化された青いレーアテルエが描かれている。澄んだ青は、光に翳せば、さぞ美しいだろうと思われた。
手のひらできらめく美妙で繊細な一輪を、マリアベルは、凝然と見つめた。
「実用的ではないだろうけど、これならベルも気に入るかなって」
「……ありがとう」
他に、巧い言葉を見つけられなかった。
今日の、今までの時間が、ひどく優しく脳裏を過ぎった。
街歩きでの気遣いや、振る舞われたレスカ、茶寮で零れ落ちた彼の昔日に、通り過ぎてゆく名も知らぬ人たちを眺めた柔らかなひととき、それから、この栞。他人に対して、丁寧に心を砕くことのできるウィリアムの為人を、どう言い表せばいいのか、マリアベルにはわからなかった。クロンクビストに来てから初めて、――ウィリアムに直接出逢ってから初めて、心臓が締めつけられるような痛みを憶えた。あぁ、と込み上げてきた嘆息を嚥下する。
――だから天使はここを指差したのだわ。
脳裏を去りゆく一日の出来事の終わり、追憶の中で、青と翡翠が滲んでゆく。
「……お詫び、って」
いつもなら何も考えずに口を衝く、斜に構えた一言も思いつかずに、マリアベルは緩慢に唇を触れ合わせた。こんな殊勝に謝られるようなことなどあったかしらと思う。
ウィリアムは、マリアベルを正面から見つめ返して、ややあって、眸を俯せた。
落とすように微笑む。
「最初に会った日に礼を失した態度だったから、そのお詫び」
別に、君自身に腹を立てていたわけではなかったのだけど。
そう囁く声は静かだった。けれど、美しいものを拒絶するみたいな塗り潰された黒髪の下で、金の睫毛がごく微かに震えていた。一瞬の沈黙を挟み、僕はと、ウィリアムは抑揚を消して、呟く。
「……銀色は嫌いなんだ。孤独なひとを思い出すから」
でもベルには何も関係がなかったよね、と言うので、マリアベルは、そうねと相槌を打った。それ以上の言葉は果たしてなにも思いつかなくて、日頃の悪態も儘ならず、小さな歯痒さだけが残滓になった。――与えられた名の通りの人間として生きることができたなら、どれほど善かっただろうかと、マリアベルは想う。
理想とする自分になるのは、とても難しい。人は、蛹から蝶へと華麗に生まれ変われる生き物ではない。
(それでも)
募る感情に、ふと瞑目し、ゆるりとマリアベルは首を擡げた。ウィリアムを見る。栞を胸に抱き留めて、微笑んだ。
「いいの。今日はわたしも楽しかった。誘ってくれてありがとう、ウィリアム」
――日傘が空へと舞い上がったのは、一瞬の出来事だった。
帰ろうか、屋敷まで送るよ、と。ふたりで迎えの馬車が来る場所へ行く途中だった。不意を衝き、突き飛ばされたマリアベルは、事態の把握もできないまま無様に転倒する。石畳に頬を擦った。腕や脚を打撲した感覚。ベル、と叫ぶウィリアムの声が聞こえたかと思うと、複数人の跫音がけたたましく地面を叩く。騒然とする中で身体を起こして振り向くと、朝から密かに追従してきた近衛騎士の背に庇われたウィリアムと視線がぶつかった。引き離されている。瞠目した碧眼、青褪めた貌、それから彼の整ったままの身形を咄嗟に観察したマリアベルは、この強襲にウィリアムが一撃もされていないことに、無意識に震えた息を吐いた。
ウィリアムと彼の近衛――『オーウェン』を取り囲むように、十人――十一人、否、十二人の人間がいた。各々武器を持っているが、男女の区別は付かない。何せ、如何にも不届き者のお誂え向きに、文献でしか見たことがないような、古臭い意匠の異端審問官の頭巾を全員被っているからだ。抗議――というより、恫喝、或いは、背教者の狩りといったところだろう。剣を向ける『オーウェン』に護衛されている人物が誰であるのか、わかっているのは明白だった。
王のこの近衛の実力がどれほどのものかは知らないが、人数差を考えると恐らく分が悪いとマリアベルは判断した。
「オーウェン――」
ウィリアムが近衛に向かって激しい言葉を投げつけるのを聞き流し、マリアベルは『オーウェン』を見た。近衛の瞳は平静だったが、マリアベルをどうするか決めあぐねているようだった。異端審問気取りの逆賊たちが距離を詰め、襲い掛かろうとする気配を見て取るや否や、マリアベルは考えるより先に大喝する。
「――『『オーウェン』あなた、自分の仕事を履き違えるんじゃないわよ!』」
人は、緊急時ほど話し慣れた言語の方が口を衝くものだ。
後から振り返ると冷静にそう思うのだが、このときは気づかずに声に出していた。『オーウェン』がマリアベルの言葉を理解したのかどうかは知らない。だが彼は瞬時に身体の向きを変え、失礼をと言いながら、ウィリアムの首筋を強打する。近衛の手は的確に入ったのだろう、糸が切れた人形のようにウィリアムが体勢を崩すと、『オーウェン』は片腕であるじの身体を担ぎ上げた。――と、丁度具合よく、黒塗りの四輪馬車が主従の近くで音を立てて停まり、『オーウェン』は道を塞ぐ逆賊の二人を容赦なく斬り捨てると、扉が開かれた馬車に飛び乗った。
扉が閉まる間際、一瞬、視線が捷ち合う。
マリアベルをその場に置いたまま、馬車は走り去る。生きている十人の内の何人かが追い掛けようとしたが、首領と思しき人間が止めたので、逆賊は全員その場に残った。マリアベルがようやく立ち上がるのと同時、彼らが振り返ってマリアベルを睨む。
――恐らく頬は血が滲んでいるし、手脚には青痣ができただろう。骨が折れた様子はないと思う。日傘は骨が折れたかもしれないと独りごち。
「……どこの子犬か知らないけれど」
足許に、ウィリアムが贈ってくれた小箱が落ちている。形が少し拉げていた。中の栞は硝子製だから割れていないといいなと、埒もないことを考える。――折角楽しい一日だったのに台無しだわ、そう残念がる自分がいる一方で、別のおのれが、冷ややかに牙を剥く。
「大人しくおうちに帰って、飼い主に伝えなさい」
転倒の拍子に崩れた銀灰の髪が、夜の匂いを連れた風に靡いてゆく。
夏なのに雪が降っている、とマリアベルは思った。音がしない。頭巾の人間たちの表情は窺えないが、しかし大したことはない。数匹の子犬如きが、武器をわたしのこの喉笛へ、向けられるはずがないのだから。静かだ。キンと凍んでゆく。――雪が降っている。
マリアベルはうつくしく、嗤笑した。
「おまえたちにやる首などないわ。――『王』を斃すのは、この私よ」