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青衣と菫  作者: 氷空けい
本編
17/22

12.誰が為にメサイアは歌わず


 曇りなく磨かれた擦り硝子を透かし、光の粒子が繊細に弾け踊るその最中で。

 何を考えたのか、おのれの不意を衝き、ウィリアムは、睫毛の縁にキスをしてきた。

 ほんの刹那のうちに瞬き、すぐに男を睨み上げたのだが、そうして見た彼の笑みは、一縷の隙もなく完璧に美しく――鬱くしく、マリアベルは非難することも忘れて、しばらく言葉を見失った。口撃しようとした唇は動きを止め、ただ、目を逸らせなくなってしまった。

 見惚れたのでは、なく。

 極夜のようなあの碧眼が、深く翳り、罅割れてゆく印象だけが、網膜に強く灼け遺った。



 マリアベルは、レックスとウィリアムに話した通り、週に一度の頻度ペースで、国立図書館へ通っていた。これは断じて、ウィリアムとの交流を深めようと思ってのことではなかったし、だから彼にも伝えたように、自らの来訪を知らせる段取りは何一つ取らなかったのだが――そもそも、一国の王に逐次連絡をする手筈など、得体の知れない外国人であるマリアベル個人では取りようがないのだけれども――、マリアベルが図書館へ到着してざっと気になった書籍を棚から選び出し、侯爵家の談話室サロンと同様、定位置となった閲覧室の端のソファに腰掛けて半刻ほど経過すると、頃合いを読んだかのように、ウィリアムはマリアベルの前に現れた。恐らくはウィリアムの方が、マリアベルの動向を伝達するよう、部下に指示しているのだと思われるが――果たしてそこまでする必要があるのか甚だ疑問ではある――。そうして図書館へやって来た彼もまた、慣れた様子で、マリアベルの斜向かいにある同じ椅子に座るのだった。

 ここで初めて会話をしてからの、最初の週の挨拶――というより、すげなく言い放ったマリアベルの一言目は、あなた本当に来たの、だった。

 その翌週からは、また来たの、がマリアベルの定型になった。

 それに対するウィリアムの返答は、君の嫌がる顔が楽しいから、であり、その言葉も常套句となって、互いに『挨拶らしきもの』を交わした後は、本から目を離すことのないマリアベルの横で、ウィリアムが何かしら話し掛けてくるというのが、ふたりの間の決まり切った遣り取りになっていた。

 会話の内容は、いつもたわいないものだ。


「週末は快晴だったけど、王都には出掛けた?」

「週末も屋敷で本を読んでいたわね」

「うわ、引き籠もり」

「わたしは暑いのが嫌いなの」

「ミルヴェーデンにも夏はあるでしょう」

「クロンクビストほど気温は上がらないわよ。短いし」

「北方育ちなら、寧ろ晴れ間は有難いものなんじゃないの」

「人によるでしょう。わたしは嫌い」

「本ばっかり読んでいて飽きないわけ? 王都で遊ぶのも楽しいと思うよ」

「本はわたしに自由をくれるの。というか、王都で遊びたいのはあなたの方でしょう」

「遊びに行けるものならいくらでも行くけどね。……あ、今度一緒に行く?」

「そうね、あなたにそんな暇があるのなら考えてもいいわ」

「暇は作るものだよ、ベル」

「作れそうにないから言っているのだけど。だってほら、今日ももうお迎えが来たわよ、ウィリアム」

「……オーウェン」


 たわいないどころか、殆ど中身がない、と言っていい。

 ウィリアムが滞在する時間はいつも短く、半刻にも満たない。だから、会わない日の生活の様子とか、マリアベルが今は何を読んでいるのかとか、少し込み入ったことになってもその本の内容についてのいくつかの軽い談論とか、或いは単なる厭味の応酬であるとか、そんな程度のものだった。ごく稀に、ほんの少しではあるが、ウィリアムの仕事の愚痴もあった。けれど、どちらにとっても互いを深く知り過ぎないよう慎重に配慮された一線が、ウィリアムの提供する話題の折々には、常に意識的に引かれていた。その気配を察するたび、マリアベルは何とはなしに、彼の人柄を評したレックスの言葉を思い出した。

 きっと、本当に。

 スタインズ侯爵家での初対面のときのあの態度は、マリアベル自身のことが気に障ってのものではなかったのだろう。

 マリアベルから見た『ウィリアム』は、どちらかといえば人懐こく、社交的で、明朗な人物だった。レックスの見方を借りれば、確かに、利発でもあった。どこからそんなふうにぽんぽんと話題が生まれるのかというくらいよく喋るし、よく笑いもする。欠点を挙げるのならば、穏やかな口調で容赦なく毒を吐くところだ。――口の悪さに関しては、マリアベルの弟の方が余程汚かったので、乱暴で耳障りではないだけまだしも好いと言えなくも――否、やはり好くはない、と、たびたびマリアベルは独りごちる。

 昏く長い、ミルヴェーデンの真冬に鎖されて育ち、贔屓目に見ても決して陽気な性質たちとは呼べないマリアベルが、彼の性格だけを一言で形容するのならば、クロンクビストのこの初夏のようだと言うだろう。

 けれど、そうしていくら、ウィリアムの()()()()()()だけを見つめても。

 青く灼けつくように凍むり、極北の最中で、孤独に罅割れんとする極夜の碧眼が時折脳裏をちらつく今となっては、彼の胸の裡に棲むのがその『ウィリアム』だけではないのだと、マリアベルにはわかってしまっているのだった。――マリアベルの中に、もう一人のおのれが今なお息づいているのと同じように。

 マリアベルは、読書の隙間で、文章に目を落とすふりをして、白緑の眸を俯かせる。

 ディンケラの凍土に最初に埋めた、あの日の雛鳥を想いながら。




「……また来たの、ウィリアム」


 ひと月が去って、初夏から真夏へと、空と風が走ってゆく時節の一週。図書館の閲覧室に嵌められた、分厚い玻璃越しでも陽射しが一層厳しくなってきていた。不慣れな暑さに、マリアベルは挨拶代わりのお決まりの一言を口にすることさえも億劫に感じ始めていたが、おざなりにもとりあえず呟けば、おのれの前に現れたウィリアムもまた、聞き飽きたことを言い返してくる。


「ベルの嫌がる顔を見るのが楽しいからね」


 本を読みながら、そう、とマリアベルが気のない相槌を打ち掛けたとき。

 普段とは異なって、だって君、とウィリアムの言葉が続いた。


「僕のこと嫌いでしょう」


 それは笑い含みの声ではあったが。

 マリアベルは、ページを捲る手を止めると、上目遣いに首を擡げた。

 日頃は大抵、ウィリアムは軽口を叩きながらすぐに椅子へ腰を下ろすのだが、今日はマリアベルから数歩の距離を取ったところに未だ立っていた。この暑さでも相変わらず、他者を寄せ付けるのを拒むかのような黒の仕立ての服を着ている。陽光を弾き、眩く照る金髪の下、彼は口角を上げ微笑んでいた。けれど、些か、輪郭がいつもよりも強張っている。夏の輝きが色濃い影を落とすよう、碧眼は重く沈んで――不穏に、最果てで天を割る極光オーロラのような揺らめきを、ごく微かに帯びていた。

 美しく擬態できている方だろう。ウィリアムをよく知る者でなければ、心中を、恐らくは察せられないに違いない。事実、屈折する光にたゆたう絢爛な図書館の中、物憂げに佇む彼は、その美貌も相俟って一幅の肖像画の如くである。

 けれど、瞳の、その陰翳に潜められたものを、皮肉にもマリアベルは知っていた。

 目を逸らさないまま、静かに口を開く。


「――嫌いよ、」


 意識して、感情は消した。


「嫌いよって、そう言ってほしいのよね、あなたは」

「……ベルは本当に嫌な女だね」


 完璧に吊り上げられていた、男の口の端が歪む。

 マリアベルの眼差しから逃げ、憎々しそうに零したウィリアムに、今度こそ普段通りの素っ気ない相槌を打ち、マリアベルもまた、手許の本へと視線を戻した。そのまま、互いに何を取り繕うこともなく、沈黙する。

 紙の。

 乾いた音が、罅く。

 どれくらい時が流れたのか、否、僅かな時間だったのかもしれない。マリアベルが十数ページ読み進めたあたりで、めずらしく荒っぽい所作で、ウィリアムはいつもと同じ椅子に腰掛けた。多弁な口は閉ざしたままであったが。そうしてやはり、殆ど静謐だけが舞い降りて、マリアベルが読書を続ける物音だけが耳朶を撫ぜていった。

 無言しじまの隙間で、時折、館内のどこかで誰かが歩いている跫音がしては、消えた。

 時は、黙って去ってゆく。そのうちに、秘めやかに平穏が流れ始める中でも、マリアベルは何も言わなかった。ウィリアムの動向を目端で確認することもない。ただ、いつものようにそこにいた。――本性では繊細で傷つきやすい()()()の裡で、不意に哄笑する狂気を遠ざける方法を、それしか知らないというのが本音ではあったけれども。虚勢に疲弊しながらも、おのれの爪で傷口をさらに広げざるを得ない、その痛みを和らげる休息が、今のウィリアムには必要なはずだった。

 その証左に、これまでであれば、ウィリアムの近衛であるらしい『オーウェン』が見計らって姿を見せる頃合いになっても、あの青年は迎えに現れなかった。書架のその辺りにはいるに違いないが。つまりは、今日はウィリアムの小閑が許されているということなのだろうと思いながら、マリアベルは手許の本を畳んだ。浅薄な内容だったので、無意識に溜息でも吐いていたのかもしれない、ウィリアムが面白くなかったのかと訊いてきた。その声は平坦だった。

 マリアベルは顔を上げた。ウィリアムを見ると、戯けたように軽く肩を竦めた。


「そうね。論者の思い込みが激しくて、客観性に欠けていたわね」

「何の本?」

「フュルヒテゴット手稿に見る信仰と理性。――著者は、グラウクス学の盲目の徒、という感じかしら。フュルヒテゴットは、聖書の読解に基づいて多様性に富んだ神学論を展開した哲学者として有名なのだけれど……ここで取り上げている手稿はね、理論的かつ概念的議論に終始するグラウクス学に偏重した叙述が多くて。経験知や実験観察も含めているところがフュルヒテゴットの特徴で、だからこの手稿が彼の真筆かどうかは怪しいのよね。わたしにとっては曲解もいいところだったわ。つまり駄作」

「……ベルはつまらなかった本ほど饒舌に罵るよね」


 ソファの上に積み上げた別の本に取り替えながら、つらつらと講評を述べるマリアベルに、呆れきった口調でウィリアムが相槌を打つ。罵倒はしていないと思うのだけれど、とマリアベルは小首を傾げた。至って素直な感想である。

 ウィリアムは碧眼を瞬くと、少しだけ、困ったように笑った。


「自由だね、ベルは」


 羨望を滲ませたその響きには、聞き覚えがあった。

 他でもなく、昔日のマリアベル自身が、そのように人を称賛したときの声音だった。

 そうかしらと、マリアベルはつれなく答える。新しい本を開き、果てなく広がってゆく学問の海を泳ぐときは、確かに今のおのれは自由なのかもしれなかった。とはいえ――多大な犠牲を払って鳥籠の鍵を自ら壊し、歌えぬ鳥は羽ばたいたものの、その翼は力なく。結局失墜しかけたところで、どこまでも深い、碧き大海に呑まれただけとも言えるが。

 ヨンナ=エストバリ海上、客船レイアの船首で見上げた、水平線へと力強く滑空してゆくあの二羽の海鳥のようには未だ。

 激しく眩い、真白な光だったと、今更ながらに思う。

 マリアベルが思考の片隅でそんなことを取り留めもなく考えていると、不意に、ウィリアムが僅かにこちらへと身を乗り出してきた。視線を遣ると、いつになく真剣な瞳と搗ち合う。口許には悪戯っぽく笑みをはいていたが、幾分落ち着いたようには思われても、顔色はどこか青褪めているように見えた。今のウィリアムの表情は、何もかもがちぐはぐで、歪で、こうであると言い当てる巧い表現が見当たらない。強いて描出するのなら――中身は子どものまま、気づかず大人になってしまった人間、かもしれない。

 深く呼吸をするみたいに。

 慎重に、彼の色のない唇が動く。


「……ねえベル、あのさ」




「――明後日、ウィリアムと出掛けることになったわ」


 共に夕食を摂った後、侯爵家の談話室で、少しの蒸留酒を混ぜた夜の紅茶(ナイトティー)を嗜みながら、マリアベルはレックスに今日決まった予定を告げた。テラスへ続く硝子戸を開け放っているので、昼間の熱気を孕んだ、皮膚を舐めるような湿度の高い夜風が吹き込んでくる。騎士の証であるジェルヴェの葉を模して編まれたレースカーテンの裾が踊っている。夏虫の声を遠くに、斜向かいに座したレックスは、口許に寄せていた茶器を下ろすと、そうかと頷いた。そして、口角を吊り上げて笑う。


「この国へ来てからあれだけ出不精だったのに、どういう風の吹き回しだ?」

「あなたの方が余程王城(オクセンシェルナ)の内情に詳しいのに、わざわざわたしに理由を訊く必要があるの?」


 ウィリアムと外出することではなく、マリアベルが外出することの方へ敢えて言及してくるのだから、当然この男は、マリアベルが知らないことも全て含めて、事を察しているのだろう。マリアベルは肩を竦める。屋敷の中にいるので、右耳側に寄せて緩く束ねただけの銀髪の一房が、頬を擽った。


「たまには外を見ることも必要かしらと思っただけよ」


 誰が、とは言わない。言わなくてもレックスはわかっているはずである。


「何があったのかは、本人から訊いたのか?」

「本人に話すつもりのないことを訊いてどうするの? いいのよ、別に。そんなことは知らなくても」


 一人用ソファの肘掛けに不作法にも頬杖をつき、マリアベルはテラスの方――屋敷の外を見た。王城の方角である。目を凝らしたところで、城の門構えさえ見えるわけではなかったけれども。

 延びてゆく夜空の闇は薄い。代わりに、鬱蒼と生い茂る街路の木々の陰翳は、厚塗りの黒の油絵具のようだった。水で溶かした薄墨色の雲が棚引き、その濃淡の合間で、いくつもの星が瞬いている。月は見えなかった。

 レックスの声がする。祖国ミルヴェーデンとは異なり、音は大気に凍んでゆくのではなく、打ち寄せる波のように滲んだ。


「絆されたか? それとも――」


 同情したのか、と。

 男はその言葉を続けなかったが。

 マリアベルはレックスへ顔を向けないまま、ほんのりと嗤笑した。


「レックス。あなた、一体誰に向かってそんなくだらない問いをしているの?」


 ふっと一陣、強く吹き込んだ風が、噎せる花の匂いを連れてきた。花には全く詳しくないが、太陽の花(アニトラ)の季節にはまだ少しだけ早いので、時期的にはカプリスかもしれない。原因は解明されていないけれども、どうやら天気の様相で色彩を変えるらしい、気まぐれな毒花(カプリス)。雨の滴る日の見目は格別に美しいが――実際は、何の慰めにもならない花だ。死を招くとされている。

 ――『美しき聖母(マリアベル)』と名づけられながら。

 おのれが決して、慈悲の聖母(ピエタ)などにはなれないのと同じだ。

 体裁が悪いと思いながらも、姿勢を崩し、片頬を付けるようにソファに凭れて、マリアベルは目蓋を下ろした。うらに甦るのは、罅割れてゆく極夜の碧眼だった。背教者と謗りを受け、おのれが意志で血濡れた王冠と王笏を掴み取り、数多の裏切りに遭いながら、それでもなお、西に名高い大国の御座に――八年、君臨してきたそのひとの。

 彼は、自ら選んでその道を来たのだ。だからこれは、同情ではない。――けれど。

 マリアベルは銀灰の睫毛をけぶらせ、そっと、自分の両手を見下ろした。

 雪に悴んだ吐息に隠して、独りごちる。


「本当に、王というのは孤独だわ。……サディアス」




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