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青衣と菫  作者: 氷空けい
本編
16/22

11.死者は甦る


 ウィリアムは、マリアベルの隣には座らなかった。彼女が本を退けた小さな調度を挟み、斜向かいの一人掛けの革張りソファに腰を下ろす。マリアベルは手許の本に視線を落としたままで、特段、ウィリアムの行動を気にした様子はなかった。

 低卓に積み上げられた大量の書物へ、ウィリアムは目を遣った。それらの、時代や地域を匂わせる種々様々な装幀から、何かに拘って一律に選書したわけではないような印象を受ける。だがその中に通俗的な読み物は殆どなく、多くは学術書だった。題目から推察できるだけでも、文学、歴史学、社会学、法学、数学、哲学、それに神学──。アマルベルガが出版したものも混ざっている。大凡おおよそ、中流の女性が読み慣れている本には思えない。否、特権階級の男性で高等教育を受けている者であっても、ここまで雑多に高度な書物を手に取るかどうか。それどころか、彼女は生粋のクロックではないというのに。

 ミルヴェーデンは、確かに、北の大国ではあるが──


「全部わたしの個人的な趣味」


 唐突に、マリアベルの声がウィリアムの黙考を遮った。ウィリアムは顔を上げる。本の山の向こうで、彼女はこちらを見ないまま、眉間、と言葉を継いだ。


「皺が寄っているわよ」

「……僕を見ていないのによくわかるね」


 指摘につられてつい額に手を当てたのち、ウィリアムは口の端を歪め、厭味っぽく言い返した。マリアベルは滑らかな仕草で本のページを捲りながら、雰囲気が少し前のレックスに似ているからと答える。オーベリで知り合ったときのあの男も、よくそうやって怪訝そうにわたしを見ていたんだもの、まるで珍獣を目撃しているみたいに。

 淡々と、しかし微かに不服そうな響きを潜ませたマリアベルの言い草に、ウィリアムは瞬き──ややあって、小さく笑った。


「そういえば、レックスが君はただのじゃじゃ馬だと言っていたな」

「二人とも女性レディに失礼なところがそっくりだわ」


 喰いつき気味の反駁に、ウィリアムは咽喉を鳴らした。そうして不意に、主従は似るものなのかしら、という、先日のミシェーラの秘密めいた独り言を思い出した。あれはウィリアムのことを揶揄した発言ではなかったが。

 やはり、マリアベルはウィリアムが何者であるのかは、知っているのだろう。

 自身の後見人が侯爵位に就いていることは当初から理解していたし、これだけの学術書を読み砕くことのできる明晰な人間が、侯爵レックスが畏まっているおのれ(ウィリアム)の地位を汲み取らないはずがないだろう。もしかしたら、ラドフォードの屋敷で鉢合わせた瞬間にはもう、わかっていたのかもしれない。何せ、あのときのウィリアムは、何の変装もしていなかった。──この国(クロンクビスト)では、金髪と碧眼は、王の系譜であることを何よりも確然と他者に顕示するものだ。況して、今、クロンクビスト王族の男子で生存が世間に公表されているのは、国王であるウィリアム=メディオフ・オルブライトしかいないのだから。

 積み上げた書物を観察しているウィリアムに気づき、個人的な趣味だと言い切ったのも、こちらに余計な疑心を抱かせないためであったのかもしれなかった。

 ウィリアムは、微かに唇を引き結んだ。

 うっすらとした警戒心が、毒牙を見せながら鎌首を擡げる一方で、飢餓を充たすように滲み出す感情がある。ウィリアムの立場を理解しているはずなのに──彼女はそれでも、臆さない。

 最初から、何一つ。


「……ねえ、ベル」


 初めて呼び掛けた彼女の愛称──というより、皮肉を込めておのれが勝手に名づけたに等しいその二音に、舌先が痺れる。

 それは、腐爛した果実を囓ったみたいな、鈍い痛みだった。


「僕が『誰』なのか、わかっている?」


 ウィリアムが無意識に口腔を湿らせながら訊ねたところで、返ってきた彼女の答えは、侯爵家の談話室サロンでの遣り取りと同様に素っ気なく、端的だった。


「ウィリアム」

「そうではなくて……」


 だが、否定しかけて、ウィリアムは自らの言葉の接ぎ穂に窮した。──そうでなければ、何だ。

 『王』だろうか。

 それとも。


(……僕は)

(兄上にはなれない)

(とても悲しいことにね)


 いつの日か、おのれが吐いた言葉がどこかから聞こえた。

 白い息が未だ棚引く、残雪の静謐に憧憬はんでゆく。胸倉を掴み対峙した男は、臆病で、残酷すぎるほどに優しい瞳の奥で、涙も流さずに泣いていた。ウィリアムはその碧眼を嘲笑って見返しながら、──『鳥籠』の窓辺で黙って眸を伏せた、異母姉あねの姿を想った。一条の月明かりも見えぬ常闇に沈み、ただ病んでゆくそのひとを。姉上。姉上、僕は。


(ウィル、ウィリアム)

(そういえば、兄様がね)

(異国の御本を下さったの)

(挿絵が美しくて……)

(ふふ、でも難しくて、わたしには読めないのだけど)


 花が綻ぶように。

 兄を慕って、柔らかく微笑む貴女が、僕は好きだったから。


(わたしたちだけの秘密よ、ウィル)


 毀れてゆく光、踏み躙られる日々、追憶が端から剥がれ墜ちてゆく。──泣き方さえ忘れたように、追い縋る言葉も失って、立ち尽くしている貴女を慰める術を、僕は何一つ持っていないから。姉上。だからせめて、僕は。僕は──例え、兄上のようには、なれなくても。

 ウィリアムは俯き、おのれの手のひらを見下ろした。そうして溜息と共にその手を握り込むと、何でもない、と呟く。

 全て覚悟でこの道を来たはずだ。感傷を振り切るように独りごちる。


「よくわからないけれど」


 沈鬱な思考に割って入ったマリアベルの声は、強い抑揚こそなかったが、ひどく明瞭だった。拒絶を許さず、まるで耳朶を撲つように。

 ウィリアムが視線を上向ければ、日中の真白い光を透かす玻璃を背後に、相変わらず読書を続けているマリアベルの姿があった。伏せられた銀灰の睫毛の下で、うっすらと見える白緑の双眸がきらめいている。恐らく、おのれが嵌めた碧眼とは全くの対照的な清らかさで。


「あなたはあなたよ。ウィリアム。それだけ。他の誰でもないわ」

「……わかったようなことを言うね」

「そうね。だってわたしは、自分が背負ったものが嫌で嫌で仕方なくて、家出してきた女ですもの」


 だから言ったでしょう、家名はどこかに捨ててきたって、と。

 逃げ出す道を選んだ自分を恥じ入る気配も、投げ棄てたものに対する名残惜しさも、悔恨もなく、マリアベルは言ってのける。


「わたしはただのマリアベル。そして、わたしにとってあなたはただのウィリアム。あなたはあなたの名前しかわたしに名乗らなかったのだし、だからわたしはあなたのこと、何も知らないもの」

「詭弁に聞こえるんだけど」

「生憎だけど、自分で見て聞いて学んだことしか信じないことにしているの」


 マリアベルはどこまでもさっぱりとしていた。甘えも媚びも知らないのではないかと思うほど。

 ウィリアムは一瞬、口を噤み、次には唇を弓形に撓らせた。ソファの、マリアベル側の肘掛けに体重を載せ、彼女の方へ僅かに身を乗り出す。おのれへの阿諛追従の気も、畏縮のさまもまるでなく、だからといって存在全てを受け入れているわけでも拒否しているわけでもない、ただ単純に『会話をしている』だけの彼女の振る舞いが、少し可笑しくなってきてしまった。生まれゆえに、こういう類いの人間は、あまり身近にいたことがなかった所為かもしれない。

 ──ただのウィリアムである、と。

 何て甘美な誘惑だろう。

 だがきっと、裏切られるだけの言葉だと思う。その通りで在れるはずがないことはウィリアム自身が一番よくわかっている。だから──果たして、マリアベルの言葉がいつまで『それだけ』で済むのかどうか、曝いてみるのも一興ではないかと、胸中で嗤笑する。──そうだ。日々の間隙で甦る、死に至る病を持たぬあの男の予言が叶うか否か。試してみればいい。


(次に殺すときにはこの身の裡に蓄積する、八年分の猛毒ごとだ)


 脳裏をちらつく凍てる碧眼に憎悪を滾らせ。

 それを押し殺し、ウィリアムは、なら、とマリアベルに話し掛けた。


「僕とよく知り合ってみる? ベル」


 そこで初めて、マリアベルは顔を上げた。

 緩慢に──

 穢れない雪で白んだような緑の双眸が、真っ直ぐ、ウィリアムを見る。


「……駆け引きは好きではないんだけど」


 邪険にはしなかったが、明らかに億劫そうな返答だった。ウィリアムは笑う。


「そんな高尚な社交の遊戯にはならないよ。僕は君に対して既に紳士ではないし、君も淑女のふりはしていないでしょう。だから言葉のまま。お互いによく知り合ってみるのは面白そうだと思っただけだ」

「……本当に失礼なことしか言わないわね、あなた」

「それは仕方がない。これが君の言うところの、ただのウィリアム、だからね」


 無邪気を装ってにこりと笑みを整えれば、マリアベルは胡散臭そうに小さく眉を顰め、ややあってから溜息を吐いた。好きにすれば、と呟いて、彼女は視線を手許の本へと戻す。隠す気のない倦怠を滲ませた素振りがやはり可笑しく、ウィリアムは碧眼を眇めた。──と、その一息の間を衝いて、見計らったように、ウィリアム様、と声を掛けられる。振り向かずとも、それが近衛のオーウェンであるのは明らかだった。

 オーウェン・アビーは、一年前、騎士団長ヘイデン枢密顧問官(エリオット)が揃って遇しただけあって、騎士としてだけではなく従者としても優れた点が多い男だった。レックスに憤激して執務室を飛び出してきたにも関わらず、付かず離れずの距離で見失うことなく随行してきた上、場を汲み取って呼び掛けるあたり抜け目がない。

 ウィリアムよりも若年であり、生家も取り立てて何があるわけでもない一子爵家ながら、過ぎた多言もなければ畏まり過ぎることもなく、必要であればこうして割って入ってくる──仮にも伯爵家の出身である侍従のアランとは大違いだ。ゆえに、出来過ぎだと考えることも、ウィリアムにはないわけではなかったが。

 ウィリアムは肩を竦めると、素直に腰を上げた。多分に、このオーウェンを無視したが最後、エリオットが自ら迎えに来るだろうことが嫌に簡単に想像できたからである。原因はレックスの発言にあるとはいえ、政務を投げ出してきたのはウィリアム自身であるし──おのれを結婚させたがっているエリオットのことだ、色々と、それは御免蒙りたい。それならまだ、厭味の方がいい。間違いなく。

 ウィリアムはマリアベルを見た。やはりこちらの動きにつられる様子もなく読書を続ける彼女に、残念だけど、と告げる。


「今日は時間切れかな」


 そう、と打たれる相槌の調子に変化はなく、特別な感情は何も聞こえない。

 紙の縁を沿い、撫ぜる指先を何とはなしに眺めて、またここに来る予定があるかどうかウィリアムは訊いた。来ないというなら、気晴らしも兼ね、スタインズ侯爵家へ赴いても構わなかったが。しかし予期せず、そうね、と肯定の声がある。


「一週間に一度くらいは来るつもり。ここの蔵書はわたしにとってとても魅力的だもの」


 知らせなんてしないから、あなたがわたしの来館に気づくかどうかは知らないけれど、そう淡泊に補足するマリアベルに、ウィリアムは咽喉を鳴らした。そうして、ふと、マリアベルへと歩み寄る。おのれの影が彼女の上に落ちるところまで近づき、身を屈めた。マリアベルが反応するよりも早く。

 燦々と降る陽射しにきらめく、伏せられた白銀の睫毛の。

 その少し上に。


(──……おまえに一つ)


 軽く、口づける。


(呪いをあげようか、ウィリアム)


 突然のキスに俯いたままはたりとマリアベルは眸を瞬かせ、それから睨めつけるようにウィリアムを仰ぎ見た。数拍置いて、なに、と彼女はそれまでになく低く唸る。ウィリアムはおのれの美貌を熟知した、極上の笑みを向ける。──耳にこびりついた残響、姿見えぬその亡霊を、おのれが手で再び殺さんが為に。

 これが同じ轍だというのなら。


「じゃあ、またここで。マリアベル」




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