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青衣と菫  作者: 氷空けい
本編
15/22

10.横顔の肖像


「おまえの目的は何だろうね、レックス」


 先触れの通りの時刻に王城オクセンシェルナの執務室へ姿を見せた男には一瞥もくれず、手許の書類へ視線を落としたまま、ウィリアムは訊いた。一言の挨拶さえ挟ませずに不躾に投げたその問い掛けにも、しかし相手は一瞬の動揺もなく、普段と変わらない平坦な声で、特に何も、と答えた。


「貴方やハーシェル公とは違い、私には一計を案じるような才気はありませんよ。所詮はただのいぬですからね」


 どうだか、と口の端で嗤笑しながら、ウィリアムはペンを走らせる。──『大学における神学、聖師父学講義の開講に際し、教皇庁より聖務職者の派遣を依頼致したく』──否、聖師父学とは穏やかではないな、とその請願書に眸を眇めた。聖師父学とは即ち、神の使徒たる教父たちの著作を検討し、異端的思想や無神論に対抗するための学問である。

 学閥は──アマルベルガ。

 クロンクビストの北、数世紀前に併合された元自由都市国家カマルク発祥の大学群。

 学問に制約を設けたくはないが、そう考えながらウィリアムは請願書を不承認の扱いにする。アマルベルガは、学生組合(ギルド)を祖とする自生的な大学群で、王や教皇が主導して設立した大学とは異なる。あらゆる面において自主性が重んじられているのだ。そこに誰がしか『教会』の人間を遣わせたとしたら。

 一体何が起こるのか、あくまで見通しではあるが──昏い。


(……火種は少ない方がいい)


 ウィリアムは込み上げる溜息を殺した。

 現教皇、ユストゥス七世は信用に足る人物だが、残念ながら彼の膝許にいる者全てがそうだとは限らない。──おのれが従える者たちと同様に。

 クロンクビスト王位奪取のとき、『教会』と闘争を起こしたおのれが、人びとの間で『背教者』と呼ばれていることをウィリアムは知っている。神から王権を授からず、聖職者を追放し、世俗の我欲に塗れた王である、と。聖師父学の名の下に人びとが集い、何を議論するのかはわからない。だが、万が一にでも、国民を巻き込み反現王派を振り翳されては困るのだ。

 血濡れた道を歩むことを、自らの意志で選びはしたけれど。

 ウィリアムは悟られぬよう、微かに眸を伏せる。


(無益な争いをしたいわけじゃない)


 今更そんなことを言ったところで、誰が信じるとも思えなかったが。

 アマルベルガの請願書を含めた書類の束を続き部屋の秘書官へ渡すようにと、ウィリアムは傍らに控えたアランへ託す。他は、くだらない議案事項ばかりで殆どが棄却や差し戻しなのだが。この場で書類ごと破棄しても構わないというのが本音ではある。


「……ただの狗が、近衛騎士の長にまで上り詰めたとは恐れ入る」

「ただの狗に過ぎなかったからこそ戴けた地位なのだと、私は思っておりますが」


 カツ、と靴の音が鳴る。


「先般は、家出娘マリアベルの当家在留をご許可下さいましてありがとうございました、陛下」


 そこでようやく、ウィリアムは顔を上げた。

 深い黒眸と目が合う。

 鉄紺の上衣シャツに同色の胴衣ジレという、王に拝謁するとは思えない軽装で、レックスはそこに──日頃、エリオットが立ち塞がっている場所よりは少し遠いところに──起立していた。その格好は、見る者が見れば眉を顰めるのだろうが、おのれへの対抗手段の一つとして断じて上着ジュストコールを脱がないエリオットに比べれば、ウィリアムにとってはまだしも好いものではあった。

 ウィリアムは空いている左手で頬杖をつく。


「可愛がっている警戒心の強い狗がめずらしく拾ってきたものだから。おまえが責任を持つと言うし、まあいいかなって」


 あの口喧しいエリオットもめずらしく何も言わなかったし、と何の気もなく付け加えれば、そうですかとレックスはうっすらと瞳の奥を緩めた。ウィリアムは瞬く。長く鉄面皮の下に隠していた、騎士団長の職責を担っていたときの烈しさの影が、男の中から薄れているように見えた。

 ごく微かに、ではあるが。


「……貴方が公を信頼なさっているようで安心しました」


 見知った男の表現し難いやんわりとした変化にウィリアムが言葉を探していると、それよりも早く発言があった。こちらを真っ直ぐに見つめてくる黒の双眸を凝然と見返し、ややあって、ウィリアムは視線を逸らした。そうかな、と呼吸の隙間でさざめく。右手に持ったままのペンを無造作に回した。


「ハーシェル公爵家の忠誠に猜疑する余地はないし、家長のエリオット・ミラーは文句の付けようもなく優秀な人材だ。排斥せず傍らに置いているのは、ただそれだけの理由かもしれない」

「では、公の背信をお疑いになられることもある、と?」


 指先で遊ばせていたペンの動きを止め。

 それはないけどね、とウィリアムは失笑した。


「あれにとって、兄上の命令は絶対だから」


 だから単に、エリオット・ミラーという男はウィリアムの部下ではない、という、それだけの話だ。

 ウィリアムは表情を読ませぬように眸を伏せ、肘を机に立てたまま、口許を左手で隠した。

 ──例えば、である。

 おのれが絶対的権力を以て下す厳命よりも、それどころか或いは自身の命よりも、何を差し置いてでも優先すべき事項がエリオットの胸底にはあって、それは兄以外の誰にも覆せない。──エリオットが兄から戴いた下命が何であるのか、ウィリアムは知る由もないが。

 ウィリアムは手のひらの裡で、小さく嗤う。


「……大したことじゃない。あの人は僕と違って愚かすぎるくらい優しいから、()()()()()()はないとわかっている」


 それゆえに、王の諮問機関である枢密院、その顧問官の筆頭にエリオットを据えているのだ。

 エリオットがおのれの従順な手脚にはならなくとも、耳障りの好い甘言もせず、裏切りを予感することもないだけ、他の連中を侍らせるよりはずっといい。ウィリアムはそう思っている。──そう思う、ことにしている。

 独白のように話をすれば、少しの間を空けて、そうですか、とレックスは相槌を打った。抑揚のない声音からはウィリアムの言い分に納得したのかどうかわからなかったが、男がそれ以上のことを訊いてくることはなかった。

 ──こちら側に踏み込むか否かのその線引きは、『狗』独特の嗅覚であったのかもしれない。八年前も、ウィリアムに付き従いはしたものの、与えられた任務を遂行する以上のことは何もしなかった男であるから。

 しばらくして、アランが新たな書類の束を持って隣室から戻ってきた。ウィリアムは伏していた眼差しを上向けると、改めて机上に向き直った。


「用件はそれだけ? レックス」


 それには、是の返答がある。


「ご多用のところお時間を頂き感謝申し上げます、陛下」


 御前失礼をと、レックスは一礼して踵を返した。ウィリアムは、アランから書類を受け取りながらその背を目端で見送ろうとして──ふと、レックス、と男を呼び止めた。習い性で未だ靴底に武器を仕込んでいるのだろう、嫌に重い跫音が止まる。


「……一計を案じる才気などないと、おまえは言ったが」


 墨の入った瓶にペン先を浸しながら、ウィリアムは呟く。

 もしも本当にそれが真実であるというのであれば。


「銀髪に緑眸の娘を僕の前へ連れてくることを、おまえは躊躇わなかったのか?」


 スタインズ侯爵レックス・ラドフォードは、家督を継ぐ以前の若年の頃から頭角を現し、長きに渡り父王ダグラスに仕えた、強剛の元近衛騎士だ。この男を目前にして、一体誰が『ただの狗』などと卑下するものか。──あの風貌の女をおのれの目に触れさせたなら、勘気を蒙るだろうことは、レックスは百も承知であったはずである。

 それでもなお、あの娘(マリアベル)をクロンクビストへと連れてきた。

 レックスの返答は、端的だった。


「私は頼まれたから彼女をここへ連れてきただけですよ、陛下」


 ラドフォードの屋敷での説明をレックスは繰り返す。しかし続けて、それに、と加えた。


「容姿は持って産まれたものに過ぎず、彼女という人間の本質を現すものではありません。ウィリアム様ならおわかり下さるでしょう」


 俄然、ウィリアムは鋭く視線を投げつけた。

 レックスはこちらを振り返り、ひどく静かな眸でウィリアムを見ている。

 罪業の血に呪われた肉体のどこかから湧き上がる、どろどろに澱みきった感情を寸前のところで抑えつけ、どういう意味だと低く質せば、他意はございません、とやはり何の波風もなく男は答えた。彼女とお会いになって頂ければ貴方はきっとご理解下さる、その程度の意味です、と。


「ただのじゃじゃ馬ですよ、マリアは」


 リーラ様とは。

 似ても似つかぬ。

 ──ガシャン、と激しい音を立て、手許から硝子瓶が飛んだ。背後で一瞬、小さな悲鳴を上げたのはアランだろう。机に広げた書類が文字の一欠片も残さずに墨に沈んでゆく。それどころか、床や壁にも黒は勢いよく飛び散って、惨憺と、それはまるで凝固した血痕のようになった。

 だがそれでも、レックスは居竦むこともない。──本当に、この男のどこが『ただの狗』だと言うのか。

 乱暴な仕草で椅子から立ち上がったウィリアムは、ぽたぽたと机の縁から落ちる黒い雫を踏み、執務机を回り込むと、正面に立つレックスの方へと歩いてゆく。


「──おまえがそこまで言うのなら」


 常闇の滲んだ。

 昏く翳る碧眼を嵌め。

 ウィリアムは、レックスの傍らを通り抜ける。


「連れてきたんだろう。──どこだ」


 金の残影を置いて去ってゆくウィリアムに対し、王の図書室に、とレックスは言った。



 父はかつて、一羽の鳥を飼っていた。

 世にも美しい、銀の鳥だった。

 人目に触れさせず、厳重な籠の中に閉じ込めてこよなく愛したその鳥が、あるときに病を患い死んでしまうと、父は、誰にも気づかれないまま少しずつ、少しずつれていった。年月にして、八年である。銀の鳥が失われてから八年後、父は、――『父』ではないものに、なった。

 城の庭園から。

 異母姉あねが、『鳥籠』の窓辺に佇んでいるのを、何度も見た。

 父が政務でその部屋を不在にしている昼間、北方特有の刺繍ステッチが施された古びたブランケットを肩に掛け、胸の前で掻き合わせて、彼女は窓の外を眺めていた。――否、本当に外を見ていたのかは、知らない。青と翡翠みどりのあわいの色をしたうつくしい碧眼は、日がな一日、ただそうしてどこか彼方へ眼差しを向け、時が過ぎ去ると、いつも黙って俯いた。

 幼い頃、憧憬と共にあいした、何よりも清らかだった光が潰えてゆくのを。

 見ているしかできなかったあの言葉にできない息苦しさを。

 掻き毟って血を流してもなお、拭えない胸の痛みを。


(どうして忘れ去れる)


 王城を抜け、リンドブロム主宮の回廊を通り、ウィリアムは跫音荒く国立図書館へと入ってゆく。身分を偽る方策を何も講じず飛び出してきたがゆえに、行く道でおのれとすれ違う者たちは様々な反応をしていたが、いずれも全て無視した。といっても、胸中で凄まじく荒れ狂うものを全く隠蔽せずに闊歩していたので、話し掛けられるようなことはなかったが。

 前触れなく現れたウィリアムに、司書が青褪め対応しようとするのさえも視野から追い出し、館内を進む。

 広大なはずの図書館の中で、しかし不思議と、目的の人物はすぐに見つかった。

 採光用の窓が最も多く設置された空間の、一番片隅にある二人掛けのソファに腰を下ろして、彼女――マリアベルは本を読んでいた。スタインズ侯爵家で会ったときとは異なり、中流階級のワンピースではなく、飾り気はないけれど綺麗な緑青色のドレスに身を包んで、先日は下ろしていた銀灰の髪をきちんと後頭部で束ね上げている。そのために、すらりとした輪郭が露わになって、彼女の白い頬に伏せた睫毛の影が落ちているのがよく見えた。

 手許の本に夢中になっているらしく、マリアベルは、周囲の様子にはまるで頓着していない。

 ――窓から降り注ぐ陽射しを負って。

 ひどくきれいに。

 銀が、小さく光を弾いている。

 その光景を見た途端、ウィリアムは、おのれの裡を占拠していた激情が急速に凋んでゆくのを感じた。寧ろ、自分は一体何をしに来たのかと、心底うんざりするほど冷静になった。額を押さえると、身体の膿を出し切らんとばかりに、果てしなく長い溜息が自ずと溢れた。


 ――容姿は持って産まれたものに過ぎず。

 ――彼女という人間の本質を現すものではありません。


(……当たり前だ)


 レックスの進言が耳許で甦る。ウィリアムは眉を顰めると、奥歯を噛み締め、強く碧眼を閉ざした。目蓋の裡には、闇が、凝っている。

 あの日の嘲笑が。

 毒になって、蓄積してゆく。


(おまえはわかっているのだろう)

(わかっていて、なお)

(同じ轍を)

(罪深き王位を)


「――何をしているの?」


 図書館の静謐を突如として罅割ったその声に、ウィリアムは顔を上げた。視線を動かせば、片隅のソファに座しているマリアベルと目が合う。彼女の手許の本はたたまれていた。


「そんなところに立ったままどうしたの、あなた」


 二度、三度と唇を触れ合わせた後、小さく頭を振ってウィリアムは言葉を濁した。マリアベルは白緑の眸を瞬かせると小首を傾げ、レックスがわたしがここにいることをあなたに話したのね、と独りごちる。まあ別にいいけれど、と、侯爵家でまみえたときと何も変わらず、彼女の反応は素っ気なかった。

 ウィリアムの正体を知らないのか、――『侯爵レックスが話をする相手』と認知しているということは、知っているがどうでもいいと思っているのか、その口調からは判断できなかったが。

 ウィリアムが口を開く前に、マリアベルは、自身が腰掛けているソファの空いたところに積み上げた本の山を手近な机の上へ退け、どうぞ、と躊躇なく手を延べてきた。


「とりあえず座ったら?」

「……いや」

「でも、わたしの勘違いでなければ、わたしに会いに来たんでしょう? レックスが何を言ったのかは知らないけれど」


 通路のそんなところに突っ立っていられるのも邪魔だし、そう言いながら、マリアベルはそれまで手にしていたのとは違う本を開き、読み出した。やけに分厚い書物だ。よくよく観察すれば、彼女が書棚から出したのだと思われる本の山は、どれも軽微な鈍器になりそうな厚みのものばかりである。王位に就いてからのウィリアムでさえ、好んで読もうとは思わないような――

 では誰がと訊かれたなら、兄が。


(……兄上みたいだな)


 ウィリアムの隣を勧めておきながら、マリアベルは既に読書に没頭し始めていた。会話をする気があるのかも怪しい。暫時呆気に取られてそのさまを見つめ、ウィリアムは知らず微苦笑をはいた。理性では去ろうと思うも――ただやはり、伏せられた銀灰の睫毛、それが弾く光がひどくきれいに感じられて。

 背後の玻璃から射し込む陽光に溶けてゆく、本を読む彼女の姿が美しくて。

 それがあまりに、遠くの昔日を思わせたものだから。




(omake)


「……怒らせるのがお上手ですね、レックス様」

 ウィリアムが出てゆくなり、秘書官たちのいる続き部屋に身をひそめていたエリオットがあるじの執務室へ姿を現した。レックスは微苦笑をはく。

「それは褒め言葉だろうか」

「もちろん」

 私ではああいうふうにあの方から感情を引き出すことはできませんから、とエリオットは真顔で言う。そうか、とレックスは呟いた。

 ウィリアムの怒りに怯み固まってしまったアランに声を掛け、部屋から体よく追い出すと、エリオットは執務机の上を片づけ始める。別の人間を呼べば済むことであるのに自らそれをするのは、この男もまた、周囲への警戒を解くことができないその証左であるのだろうと思う。

 恐らくは、おのれもまた。

 そうなのだろう。

 ――白緑の眸が、裡を見透かすように静かにこちらを見つめているのを、レックスは知っていた。

(難儀なことだ)

 溜息を殺して、独りごちる。

 天使が残したいくつかの痕は、聖書が語るようには人を救わない。

「……あの女性は」

 エリオットは不意に訊ねる。

「本当にたまたま、拾われたのですか」

 こちらを向かず書類整理を続ける男の背に視線を投げ、レックスは肩を竦めた。本当にたまたまだ、と答える。嘘ではない。

「押しつけられたんだ。手の付けられない家出娘だからと。私は連れ帰ってくるつもりは微塵もなかった」

「どなたに」

「北方の、名のある方に」

 身元調査時の面会の際と同じことを繰り返す。エリオットはそうですかとだけ言った。例えば道具を用いた尋問さえも無駄だと理解しているのだろう。おのれがとても強情なことをこの男はよく知っているのだ。――あの方の、学友であり懐剣である、エリオット・ミラーなのだから。

 レックスは黒眸を細めた。

「……おまえがいるから大丈夫だろうと仰ったので、渋々引き取ってきた」

 エリオットの動きが止まる。

 男が振り向いて何かを言うよりも早く、ではな、とそう言って、レックスはその場を後にした。

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