09.鳥籠の不在証明論
侯爵家へ居候し始めて数日後には定位置となった、談話室から庭へと通じる窓辺に普段通り椅子を置き、外から吹き込むぬるい風を感じながら―― 一歩敷居を跨げばそこにテラスがあるのだが、陽射しが暑くて嫌なので室内にいる――、これもまた普段通りにマリアベルが本を読んでいたところ、義父から、マリア、と呼び掛けられた。レックスもマリアベルを愛称で呼ぶのが大分習慣付いたようである。会話の端緒で彼が呼名に一瞬口ごもる回数も、マリアベルがそれを指摘する回数も、随分と減った。手許の本に視線を落としたまま、なに、とマリアベルは応える。
二十以上も年下である、レックスから見れば小娘に過ぎない人間のぞんざいな振る舞いにも小言を言うことなく――諦念を憶えたのかもしれないが――、談話室へと入ってきたレックスはそのままマリアベルへと近づいてきて、本の間に一枚の紙を落とした。一目で高級紙とわかるそれには、末筆に、青墨の署名が記してある。
貴女の当家での在留権について陛下から正式に許可が下りた、とレックスは言った。
「出生が詳らかではないため、スタインズ侯爵令嬢の身分は与えないが、国内でラドフォードの家名を名乗ることは許して下さるそうだ」
レックスが持参した紙――認可状を拾い、ざっとその文面に目を通して、マリアベルは顔を上げた。レックスを見返して、瞬く。
「案外あっさりだったわ」
思わず零した感想に対し、意外か、とレックスが訊ねるので、しばらく考えて、そうね、とマリアベルは小首を傾げた。先日この屋敷で、図らずも目通りしたときのマリアベルの印象では、口頭ではあのように言っていても後日調査のあれこれにとやかく理由を付け、多少は許可を渋るのではないかと考えていたのが、正直なところだ。
マリアベルが差し出した認可状を受け取ったレックスは、めずらしく微苦笑をはいた。話をし易い距離感の、手近なソファに腰掛ける。
「まあ、あの方は、……貴女自身が気に障って、ああいう物言いをしたわけではないだろうから。生来は、自制心が強く物事を客観視することに長けた、冷静なお人だ」
不躾に誰何して、舌打ちを重ね、この女呼ばわりするような、あれが?
初対面のときの態度を思い出し、マリアベルはつい、眉を顰めた。
「とてもそうは見えなかったけれど」
声音は低く、自覚できるくらいに不服そうな響きになった。仕方がない。あのときの『ウィリアム』はどう考えても本当に失礼極まりなかった。
マリアベルの反駁にレックスは黒眸を丸くさせ、それから、これもまためずらしくおかしそうに咽喉を鳴らした。なに、とマリアベルが怪訝に眦を吊ると、いや、とレックスは右手を丸めた拳で自身の口許を隠す。明らかに笑っている。今の会話の一体何が愉快だったのか、マリアベルには皆目見当が付かない。
しかし、強く睨めつければ却って逆効果のような気がして、マリアベルは浅い溜息と同時に目線を本へと戻した。
さぁ、と――
庭に植栽された花木を小さく騒がせて、風が吹き抜けてゆく。
その風は窓際を飾るレースのカーテンを踊らせ、後頭部で軽く一つに結わえただけの銀灰の髪を揺らして、微かに汗の滲んだマリアベルの首筋を撫ぜて去っていった。
「……穏やかなご気性の方でしたよ」
室内に吹き込んで消えてしまう風を惜しむように、ぽつり、レックスはささめいた。
敬語はだめだと言っているでしょう、マリアベルは男にそう注意しようとして、ふと、その言葉を飲み下した。マリアベルの目端に引っ掛かったレックスはこちらを見ておらず、常には毅然と伸ばしている大きな背を少しだけ丸め、前傾になった身体の内側で両手を組み、俯きがちにそれを見つめていた。マリアベルは首を擡げる。臣下である私の目から見ても、陛下の御子の中では最も王座に関心がなく、万事が平静であることを望まれていた、お優しい殿下でした――レックスは独白のように言う。マリアベルは人生の年輪を重ねた壮年の男の横顔を見つめ、何も問わず、黙ってその話を聞いていた。
「あの方も頭がよく優秀ではありましたが、歳の離れた兄君が王位に就かれることこそが最良であるとお考えだったと思います。それは優れた頭脳や才覚ではなく、人が人を信ずるに足るものを、王の御子の中でお持ちになっているのは、ただ一人、兄のサディアス様だけだと――」
ひどく静かなその声は。
泣いているみたいだとマリアベルは思った。
「……齢十三に過ぎなかったのです」
あの方もまた。
幼く柔らかなお心の、成長の途中だった。
レックスはそう呟いて、さらに言葉を継ごうとしてそれを躊躇ったのち、結局口を閉ざした。滲み出た感情を抑えるかの如くに目蓋を下ろす。今もなお、身体の前で組み合わせた両手は祈りの形を成していたが、マリアベルには懺悔のような気もしたし、何の意味もないもののような気もした。――意味がないと感じるのは、マリアベルの裡に巣喰うもう一人の自分が、祈りや懺悔といった行為にひどく否定的であるからなのかもしれなかった。
手にした本の柔くかさついた手触りとは反対に、指先が凝り、引き攣る。土と雪と血の感触が混濁する。
剥がれ墜ちてきた天空の欠片で湿ってゆく銀灰の髪を掴み上げ、ほら、と嗤笑う声がする。
(ここがこの世の果てですよ、マリア)
(今の貴女にできることは)
(私の傀儡になる以外、何もないのですから)
マリアベルはレックスから顔を背けて、窓の外を見遣った。晴れ渡る青空、網膜を灼くほどの光が溢れている。気紛れな風が、本の紙の端をぺらぺらと捲る。庭園では花びらを揶揄って――
風の足跡を追い掛け、マリアベルは白緑の眸を細めた。
全てを殺す、凍てる雪の代わりに。
花びらが降り注ぐ。
――清らかぶったマリアベルの手を、今にも手折れそうにひどく華奢な手が掬う。癒えぬ傷だらけであったのに、指を絡め、触れたその手のひらはあたたかかった。昨日のことのように甦る。脳裏を掠めてゆく、深緑と花の、静謐。
その向こうから、雪白で澱んだこの眸を見つめた深い碧眼を思い出して、マリアベルはひっそりと溜息を吐いた。爪先まで力を籠める。眸を伏せ、手許の本を見た。
「話は終わりかしら、レックス。わたし、読書を続けてもよくて?」
普段通りの調子で、声を吐くことができた。大丈夫、と胸中で独りごちる。
歌えぬ鳥は羽ばたいた。籠の中にはいない。
ふ、と静かな視線を投げてくる気配があり、それはそのまま穏やかに空気を緩めた。レックスは、苦笑したのかもしれない。面と向かって表情を見なくとも、それくらいの機微を察することはできた。……生活をともにすることで誰かと親しんでゆくことを、今はもう、恐ろしいとは感じない。
そろそろ屋敷の蔵書を全部読破しそうだな、と言いながら、レックスはソファから立ち上がった。
「書物が好きなところはあの方と同じだな。雛は育ての親に似るのか」
「あれは親ではないしわたしも雛ではないわ。それからあいつと一緒にしないでくれる? あれは異常よ、異常」
人ではないのよあれは、脳の構造がどうなっているのか一度解剖してもらいたいものだわ、とマリアベルが渋面になって吐き捨てると、そうか、とレックスはただ相槌を打った。カーテンが揺れ動き、木漏れ日のように、光が舞い踊る。
読み物がなくなったら国立図書館を案内しよう、半身を出入口の方へと向けながら、レックスは提案をした。マリアベルは思わず、子どものようにぱっと顔を上げてしまう。交わした視線の先で、黒眸を嵌めた眦が柔く綻び、やはりよく似ていると囁きかけてきたような気がした。
「長く武官の一族だから元より然程蔵書もない屋敷だ、そちらの方が貴女は楽しいだろう?」
「……ありがとう」
おのれの無邪気さが露呈した気恥ずかしさに、礼を述べる声は小さくなってしまったが。
銀灰の髪と戯れてゆくクロンクビストのぬるい初夏の風を、そのときようやく、マリアベルは少しだけ心地好く思った。
レックスと交わした約束は、数日後には果たされることになった。
国立図書館は三区の北東に接する一区内に建造されており、三区に建ち並ぶ貴族の屋敷とは異なる方角で、王城オクセンシェルナ、とりわけクロンクビスト王族の城館であるリンドブロム主宮に至近している。名称こそ国立図書館とは言うものの、収書の大半は歴代のクロンクビスト王による個人的な蒐集物で、今でも『王の図書室』の異名を取り、入館に際しては確固たる身分証明が必要だった。先立って国王の許可を受けていなければ、例えスタインズ侯爵本人が同伴したところで、外国人であるマリアベルが足を踏み入れることはできなかっただろう。
ラドフォードの家名に因って入館した王立図書館のさまは、圧巻だった。
書物を司る異教の神に導かれ、象眼細工の施された大扉を潜ると、連続する丸天井の下に高級木材で作られた書棚が天地隙間なく据え置かれている。直線に伸びた歩廊は長く、最奥が暗がりに消えているため、さも果てがないように続く。柱頭を黄金で装飾した大理石の柱に、歴史上の偉人の彫刻。歩廊の半ばに設けられた大間は円蓋になっており、マリアベルでも知っている著名な工房の画家の手による聖書の一場面を切り取った天井画が、所狭しと描かれていた。
所蔵が傷まないようにだろう、窓の数はあまり多くなかったが、それでもきちんと採光できるよう計算された大窓もまた陽光を透かして美しく、一筋一筋が射すように閲覧用の机を照らしている。
マリアベルの目から見れば、図書館内の設えは絢爛すぎるきらいはあったけれども、これもクロンクビストが築いてきた栄華であるということなのだろう。しかし、とにかく想像以上に蔵書が多い。ミルヴェーデンでおのれが棲み家にしていたところの比ではなかった。何万冊収蔵されているのか、どこの書棚から見てみようかと、湧き上がる好奇心が抑えられない。
すごいわ、と、マリアベルは声をひそめながらも感嘆する。
「今日初めて、クロンクビストに来てよかったと思ったわ!」
身分確認を要する場所へ行くのにさすがに見窄らしい踝丈のワンピースでは疑わしいだろうと、已むなく着用した緑青色のドレスの裾をくるくると踊らせて、マリアベルはレックスの隣を歩いてゆく。レックスは微苦笑をはき、迷子になるなよ、と一所に留まれない子どもへ向けるみたいな忠告をする。
「禁帯出以外の本は借りられる。貸出期限や冊数は、司書に相談すれば融通を利かせてくれるはずだ。家令にはこのことを伝えておいたから、来たければ毎日ここまで来ても構わないが」
三区側から王城に近い侯爵家と、一区側から主宮に近い国立図書館は、広大な城の敷地の端から端まで移動していることに等しい。図々しい居候の自覚のあるマリアベルでも、毎日通うのは侯爵家の従者には負担だろうと思った。それに、毎日の馬車移動はどう考えても時間の無駄である。
「借りられるだけ借りて、一週間に一度くらいの頻度で来ることにするわ」
「屋敷に引き籠もる気しかないな、貴女は」
やれやれとレックスが肩を竦めるので、クロンクビストが暑すぎるのが悪いのよ、とマリアベルは反論した。街を歩いてみたい気持ちもないわけではないのだが、洋上の客船からエイジェルステットへやって来た日のことを思い返すと、ものの数分で嫌になる想像しかできない。けれどその点、国立図書館は涼しくてよい。一週間に一度は外出してもいいと思える程度には。
レックスの取り計らいで、マリアベルは司書長の老人と、図書館長の任に就く某という中年の伯爵に会い、挨拶をした。後者に関しては恐らく名誉職であろうし、マリアベルの本音を言えばかなりどうでもよかったが、快適に図書館を利用するため背に腹は替えられないので、仕方なくである。クロンクビストの政情を鑑みれば、この顔は覚えられないに越したことはないのだけれど、先方が矢鱈と観察してきたので、残念ながら願い通りにはなっていないだろう。
一通り館内を案内してもらった後、王城へ顔を出すというレックスとは一度別れることになった。少しでも不審を感じたら首を突っ込まずにその場を去ってくれと言われたので、善処するとだけマリアベルは答えた。場所が場所だけに、努力義務、とするしかない。
静かな環境で、少数の人の跫音が響く。
侯爵家の書棚と違い、端から一冊ずつ見てゆくのは困難だったので、マリアベルはとりあえず目に付いた本のところで立ち止まった。
「――おや、これは」
マリアベルが青い背表紙の一冊を手に取り、不作法にも棚を前に立ったまま中を読み始めたところ、声を掛けられた。
「見慣れないお嬢さんがいらっしゃる」
聞こえなかったことにして、無視――とはいかないようだった。
マリアベルは本を持ったまま、顔だけを声の主の方へと向ける。そこにいたのは、褐色の肌に黒髪、やや骨張った輪郭の男だった。日陰のせいか、第一印象は若いとも老いているとも付かない。平素、貴族が身に着けている上着とは趣を異にする、体格の判別し辛い、赤――否、緋色の着衣を纏っている。瞳は鳥羽色で、片目に視力矯正器具を掛けていた。――男の年齢が不詳に思われるのはそのためかもしれない。
マリアベルは、視線を遣る以外の反応は何もせずに、相手の挙動を待った。男は気分を害した様子もなく、初めましてですかな、と微笑んだ。
「王の図書室にご令嬢がお出でになるのはめずらしいので、つい。お一人のようにお見受けするが、ご挨拶しても失礼には当たらないかね」
「……マリアベルと申しますわ、閣下」
先に名乗られては困る。男が話している間にすかさず本を書棚へと返し、マリアベルはドレスの裾を抓むと正しく淑女の礼を取った。
閣下とは、と男はくぐもった笑い声を洩らした。
「私はそのように畏まられるほど大層な身分ではないよ、お嬢さん。――ジュードという。貴女はどうやら、とても本がお好きなようだ」
これはまた随分と難しい書棚の前におられる、そう言って、男は天井まで達する棚を眺める。マリアベルは素知らぬ顔で、そうでしょうか、と相槌を打った。些か為損なった感は否めない。浮き足立っていたので、適当に棚を選びすぎた。マリアベルが読む本は、普通の令嬢が読むには嫌に堅苦しいのだ。
だが、余計な補完は墓穴を掘るだけである。口数を少なくし、人見知りを装えばいい。レックスが言うには、自分は引き籠もりだそうだから。
そうしてそれ以上一言も口を開かずにいると、男はマリアベルの方へ向き直り、まるで道化師のように首を竦めた。
「いや、お嬢さんの読書のお邪魔をして悪かった。お若い女性の読み物には縁がないので、少し興味があってね」
どうぞごゆっくり、と男は胸に手を当て、室内のため下げる帽子がなく、ささやかに腰を折って礼をした。ありがとうございます、とだけ、マリアベルは返答した。
マリアベルの隣を摺り抜け、そのまま歩廊を去ってゆくかと思われた男は、しかし、何かを思い出したかのように振り返ってもう一度マリアベルを見た。男の姿が見えなくなるまで本に手を伸ばす気のなかったマリアベルは、再び男と対面する形になる。どこからか射し込んだか細い光が、男のモノクルの銀縁を罅割っている。
言い忘れましたな、と。
男は、わらった。
「銀髪に緑眸とは何とお美しい。また是非ともお会いしたいと思いますよ、マリアベル」