08.陰翳
首尾の報告が一区切り付くや否や、ウィリアムは乱雑に文書を机上へ放り投げた。ヘイデンとニーナを除いて、政務官、侍従、そして近衛騎士らの全てを人払いした執務室の中で、殆ど叩きつけるようだったその物音は存外大きく響いた。文書――父、ダグラス王の十番目の王女、オフィーリアについての報告書を鬱陶しげに一瞥して、ウィリアムは溜息を吐く。
「姉上どころか、デイナと比較するのも烏滸がましい痴れ者が」
あの女はどこまで頭が悪いんだ、と忌々しく罵る。エリオットもそれには同意しているのか、特に口を挟まなかったが。
「あら、バカな子ほどかわいいとは言いませんこと、ウィリアム様」
机を挟み、ウィリアムの眼前に例の如く直立するエリオットの背後で、来客用のソファに腰掛けた女が、可笑しそうに反駁した。可笑しそうにといっても、それは言葉が持つ意味合いだけのことで、声音は冷淡なものではあったけれども。
眉間に皺を寄せていたウィリアムは女の物言いで微かにそれを解くと、机に頬杖をついた。エリオット越しに彼女を見遣る。
女は、世間的には未亡人であるというのに、相変わらず金茶色の長い髪を頭部半分だけ大まかに括り上げ、残りは首から背に掛けて流していた。髪を滑らせる首筋の先では、殆ど開いていない襟刳りからほんの僅かにデコルテが覗く。暗色のドレスの意匠は実に簡素で、蝋燭の火を反射してうっすらと艶めく光沢感のある生地のみが飾りのようなものだった。その他の装飾品の類いは一切ない。だが、奢侈とは程遠いその禁欲さが、却って婀娜めかしく見える。――夫の処刑と共に地位を失い、清貧と貞潔を掲げる修道院へ入れられたことになっている元王妃には、到底思えようもなかった。
元近衛騎士団長、スタインズ侯爵レックス・ラドフォード同様、先王の粛清の後に全ての地位を返上した元王妃、アシュバートン公爵令嬢――このように呼ばれるのも心底厭っていた彼女にとっては、寧ろ長年の煩わしさから解放されすっきりしたようだが――ミシェーラ・マガリッジ、改め、養父母のカトラル姓へ戻したミシェーラ・カトラルは、ウィリアムの視線など素知らぬふりで、ニーナが新しい紅茶を用意するのを待っていた。そうしてニーナがそれをし終わると、あなたも座りなさいと口にして、彼女を困惑させている。
ミシェーラの代わりに、ニーナが苦笑をはいてちらとこちらへ目を向けるのに笑い、ウィリアムは軽く手を振った。ミシェーラの好きにさせればいい。口喧しくそれを咎める人間はここには誰もいないのだ。
ややあってニーナがミシェーラの傍らに控えめに腰を下ろしたのを見て、ミラがあれを好いていたとは知らなかったな、とウィリアムは言った。
すると、だって、とわざとらしい我が儘ぶった口調の答えが返ってくる。
「事ある毎にあの方を貶めるのですもの。けれどあの方はお優しいから、私が代わりに相手をして、可愛がって差し上げていただけですわ。着飾ることしか能のない、お花畑のフー、とね」
フーとはオフィーリアの愛称だ。当の本人がそのように呼ばれるのをひどく嫌っていたので、城内で耳にしたことはないに等しいが。
「今でも自分が最も美しい娘だと妄信しているのね。嫌だわ、見目ですらあの方の足許にも及ばぬのに……本当にバカで可愛らしいこと」
舌先だけで嘲笑ったミシェーラは、卓の上の茶器を手に取った。隣に座ったニーナはやはり困った表情で小さく笑っている。ミシェーラの言う『あの方』――異母姉の侍女であったニーナがあのように失笑するのであれば、ミシェーラとオフィーリアの当時の遣り合いは、想像するだに、それなりのものだったのだろう。
つんと取り澄ました気位な横顔にウィリアムは肩を竦め、それからエリオットへ向き直った。
「オフィーリアの件は暫く泳がせておけばいい。どうせそのうち襤褸が出るだろう?」
「だといいですが」
エリオットの返答は、含みのある言い方だった。
なに、とウィリアムは片眉を上げる。
「気になることでもあるの」
エリオットはその問いに対し、一瞬、薄い唇をごく微かに歪ませた。だが、いえ、とすぐに首を振ろうとする。それを遮ったのはミシェーラだった。
「確かに、フー自身は取るに足りない存在だけれど、きっと何事もなくとはいかなくてよ、ウィリアム様。閣下はそれを懸念されているのでしょう」
言いながら、ミシェーラはカップの縁に付いた口紅の痕を親指で拭き取る。
「オフィーリア王女の降嫁先を決めたのは、他でもないあの男ですから」
するりと落ちたその声は、研磨した短剣で男の寝首を掻き斬るような響きだった。
しかし次の瞬きにはもう、彼女は洒脱に笑うと、現実を直視する能力のないあのお花畑のおバカさんはすっかり曲解しているようですけれど、と色を落としたばかりだというのにカップに口を寄せ、供された紅茶を改めて飲み始めた。その咽喉が小さく上下するのを、一時、何も言い返せずに見つめ、ウィリアムは盛大に顔を顰めた。
ハーシェル公爵、と呼ばう声には怒気が籠もる。だが、エリオットは勘気を予断していたのか欠片も動じるふうを見せず、ですからミシェーラ嬢にもご同席頂いて、たった今、王女の動向についてご報告申し上げました、としれっと宣った。喰えない男だ。先程言い止したのもこれが理由か。おのれが放っておけと指示を出したら、以後は何も報告せずに事を始末する腹積もりだったに違いない。
――兄には全ての情報を開示して、逐一指示を仰いでいた癖に。
ウィリアムがそれに迫ろうとするよりも早く、嫌だ、とミシェーラが口を挟んだ。
「私、令嬢という歳ではないのだけど、エリー」
「陛下の御前でご婦人を呼び捨てにするのは気が引けるので」
「所構わず女性を口説いて、これでもかと殿下の手を焼かせた社交界の貴公子とは思えないお言葉ね」
「あれと違ってこの方は大層潔癖なのでこんな私でも一応気を遣っているのですよ、ミラ嬢」
「あのエリオット・ミラーが? それは大変ですわね」
「ええ本当に。自分でも心底そう思いますね」
「……そういう話はしていない!」
お互いに至極真面目な表情をして、ぽんぽんと打っては返す軽口の応酬をするエリオットとミシェーラに、ウィリアムは声を荒げた。示し合わせたようにぴたりと二人の声が止む。
そうして先に視線をウィリアムへ投げてきたのは、入室して挨拶を交わすなり、許可を得るよりも先にさっさと着座して、以降一度もこちらを見なかったミシェーラの方だった。萌葱色の双眸がウィリアムを捉える。素顔に近いほどの薄化粧だが、生来のくっきりとした目鼻立ちのためか、美貌を繕った若い令嬢たちも余程華やかで気の強い面は、されどひどく静かだった。
あの男のことなら、そうミシェーラは囁くように言う。
「他の誰よりも私が存じておりましてよ、ウィリアム様。オフィーリア王女や、それこそ……きっとあの方よりも」
仄かに色を落とした、妖艶な唇が孤を描いた。
「私たち、同類ですもの」
ミラ、とウィリアムが渋く嘆息を吐けば、私はフーが大嫌いですの、と嫌にうつくしい微笑みが返ってくる。浅慮で傲慢、自らの血筋と驕奢に耽溺し、おのれの金満な美貌にこそ皆が平伏すと思っている。幼少の頃から何人の諫言も耳にせず、それどころか甘言に唆されてお育ちになられた、暗愚の偶像のような王女。
「このオクセンシェルナにおいてあれほど愚昧で在れたことは、王の子でない私ですらいっそ尊敬に値すると感じ入るほどだわ」
莫迦な子ほど可愛いとはよく言ったものだ。
あの男も同じようにオフィーリアを断じていたに違いないのよ、とミシェーラは呟く。声量に反して、瞳は毅いままだ。おのれの裡に、揺るがぬ何かを勝ち得た者の眼差しだった。ミシェーラは、同類だと共鳴しながらあれと同じところへ墜ちることなく、あの日違えた道を今日まで歩いてきた女性なのだ。
ウィリアムは無意識に奥歯を噛み締めた。
胸の中で何かが滲み出す気配がある。
「着飾ることしか能のない姫君には興味がない――これこそ正しく、私の前に初めて現れたときのあの男の言葉なのだから」
無言になったウィリアムに対し、ミシェーラは、医者の手らしい、爪を短く研いだ指先を顎に当て、ほとりと小首を傾げた。
「けれどもあの男のことだもの、手駒の一つとして残しておくには善いとでも考えたのでしょう。不遇を許容できないあの矜恃の高さを利用して、優しげな言葉を囁き、その身の上を憐れんでやれば、容易く扱える人形程度にはなるだろう、とね。フー自身に何かを期待したわけではないと思うわ。彼女が踊って役に立つならば善し、そうでなくとも退屈凌ぎにはなる――」
殿下を国外へと追い出すそのときに。
敢えて、田舎の小国、その深窓の姫君でしかなかったクラリッサ様を宛がったのと同じように。
「あの男にとっては、舞台の脚本を書くようなことだったのかもしれませんわ。或いは……盤上でどのように駒を運べば、王手を指すことができるのか」
おのれの手のひらの上で、どれほどの人間を踊らせることができるのか。
それは、まるで。
唯一執着した、世にも稀に見る麗しい『鳥』を愛憎に因って縊り殺す、その序でに思いついたとでもいうような――
本当に嫌らしい男、とミシェーラが無感動にささめくのを、果たして耳にしたのかどうか。がた、と音を立ててウィリアムは立ち上がった。机上についた手、強く握り込んだ拳の内に冷たい汗が滲んでいる。身体の内側で蜷局を巻いているのは何だ。叫び出したいのに咽喉を真綿で封じられたようなもどかしさに急き立てられている。あの男。あの――『兄』を、殺しても、殺しても殺しても、殺し足りない気がするのは何故だ。八年経ってもなおおのれが油断した折に、その間隙から甦る。嘲笑が聞こえる。
(さて、この杯の礼に)
(おまえに一つ、呪いをあげようか、ウィリアム)
畏れるものなど何もない、愉悦に嗤う碧眼が、ウィリアムを見ている。
追い詰めたのはおのれのはずだった。『惨劇』に乗じて生じた簒奪者を粛清する、その目的は果たしたはずであったのに。
(にいさま)
泣いている、のは。
強く目蓋を閉じれば銀花が揺れる。揺れる。月明かりさえ射さぬ真夜中の暗闇で、揺れる。
ウィリアム、と嗤笑する。未だ何者にも成れずにいるおのれを、あの日の毒で死に至らしめようとしている。
――毒、とは。
誰がもたらしたものであっただろう。
カチャ、と。
間近で陶磁器の小さな音がして、ウィリアムは目を開けた。
視界には、白い湯気の棚引く紅茶が差し出されていた。鼻腔を掠めた匂いは瑞々しい果実を想起させる、ゾエの紅茶のそれだった。深い紅水が揺らめく茶器は、青いレーアテルエの描かれたレンノのオードリー。茶請けにレユイの砂糖漬けが付いている。
ウィリアムが顔を上げると、普段なら微動だにしないエリオットが一歩下がったところにいて、その代わりにニーナが近くに立っていた。エリオットのように真正面からではなかったが、榛色の瞳を少しだけ細めて、ウィリアムの様子を見つめている。淹れた紅茶を勧めるわけでもなく、視線を交わして何かを言うわけでもなく、ただじっと、そこで待っている。
(ニーナのね)
(淹れてくれる紅茶はとても美味しいのよ、ウィル)
(あなたもここで休んでいく?)
みんなには内緒ね、と。
遠い日の異母姉が悪戯っぽく微笑む。
力を籠めた手を開けば小刻みに震えて、ウィリアムはまたすぐにそれを握り込んだ。何かを言おうとして、けれども言葉にできずに溜息だけを嚥下する。
「――というわけですので」
容赦なく空気を切り裂いたのは、やはりエリオットだった。声音にぶれはなかった。――兄からどんな仕事を振られても易々と乗り越えてきたこの切れ者の懐剣を御すには、おのれでは力不足なのかもしれないとの思いが一層過ぎるのは、こんなときだ。
「一先ずは、陛下の仰るように様子見するつもりですが。ヘドボリからお一人であのオフィーリア王女が戻られたとは考えにくいですし、彼女の夫には不審死の曰くもありますので、手は割きます。以前のように油断して背後から一撃されては堪りませんからね」
わかった、そう頷くことは辛うじてできた。一方で、政務官たちを追い出しておいてよかったと場違いなことを考える。この醜態を曝さずに済んでよかった。余計な風聞を立てられては困る、恐らくはエリオットもそう考えていたのだろう。ただでさえ信任が薄いところに火種は作れない。
それから、とエリオットは続けようとしたが。
公爵の持ち出す案件がオフィーリアから離れようとするのを察したのか、ミシェーラが腰を上げた。フーの話ではないのなら私はもう必要ないですわね、と。
「エリー、デイナ様は貴方の私室においでに?」
「いや……息子の顔が見たいと言って、一人で屋敷に帰りましたが」
それはエリオットにとって予想外の質問だったのだろう、彼は珍しく驚いた顔をした。何です、とエリオットが訊き返せば、ミシェーラは肩を竦める。
「デイナ様も、貴方の部下も報告していないことが、きっとあるのではないかしらと思って」
「は?」
「フーのことだから、相当陰湿な意地悪を言ったでしょうねということ。報告書にも書けないような、ね」
女性のことに関しては手練れだと思っていたけれど貴方もまだまだね、それともやはり主従は似るものなのかしら、とミシェーラは落とすように小さく笑った。
ニーナがウィリアムの傍を離れ、部屋の片隅に置かれたミシェーラの荷物と外套を取りにゆく。それらを持って歩み寄ったニーナに礼を言いながら、ミシェーラは釈然としないエリオットにひらと手を振って踵を返した。既にヘイデンが扉の前に立っている。
「ミラ嬢」
「では、御前失礼致します。ウィリアム様、閣下」
執務室を出てゆく寸前に振り返り、暗色のドレスを鮮やかに捌いて一礼したミシェーラは、言葉で追い縋ることすら善しとせずに立ち去った。ヘイデンとニーナが頭を垂れて見送るさまを呆気に取られて眺め、ややあってウィリアムはエリオットへ目を遣った。エリオットは怪訝そうな表情していたが、すぐにウィリアムの視線に気づき、姿勢を改める。ミシェーラの思わせ振りな言動には、その後、特には触れようとはしなかった。
何となく、急に肩の力が抜けた気がして、ウィリアムは椅子に腰を下ろした。鈍い動作でニーナが用意した紅茶を引き寄せると、カップを持ち上げ、一口飲む。少し冷めていたが美味しかった。
陛下、とエリオットが話し掛けてくる。
「例の女性の件ですが」
ウィリアムははたりと眸を瞬かせる。例の女性――
ああ、と頷いた。
「マリアベル、だっけ」
レックスが帰国したと聞きスタインズ侯爵家へ足を運んだところ、不意打ちで顔を合わせる羽目に陥った相手だ。レックスに会う気でいた所為で金髪を隠す変装もろくにしていなかった上、彼女の容姿が容姿だったので、我ながら非道い態度を取ってしまった。そのことについては、一匙程度の反省はしている。
彼女の後見についてはエリオットに申し出ろと、レックスに指示を出していたのだったか。
「そうです。レックス様から調書を取り、一応こちらでも消息を確認しましたが、目立って不審な点はなかったかと」
「出身は? 詳細にはわからなかった?」
「ミルヴェーデン人なのは間違いなさそうですが、家柄までは判りかねました。レックス様が初めてお会いになったというオーベリでは、一般的な中流家庭で生活していたようです。彼女の知人のご自宅だというのは、その家人から証言が取れています。そこで話していた言語はミルヴェーデン語だったそうですが、どこの地域の訛りもない綺麗な話し言葉だったらしいので、少なくとも良い家の令嬢なのでしょう。レックス様と本人曰く、家出娘、とのことですから」
我が国に関連しそうな事実は特段見当たりませんでした、とエリオットは報告を纏める。そう、とウィリアムは相槌を打った。レックスが責任を負うとおのれの面前で宣誓したほどであったので、彼女の経歴を大して怪しんでいたわけではなかった。
ただ――彼女の。
血液の透ける薄桃色の皮膚、紅を剥いたような赤い唇、それから。
(雪で白んだような、緑の眸に――)
あの。
澱みなく美しい、銀灰色の、髪。
思い出す彼女の風貌、それが何ら珍しくはない、北方出身者特有のものだとわかってはいても、ウィリアムには、想起せざるを得ないものがあったのだ。
ウィリアムは椅子に深く座り込んで、僅かに目を伏せた。耳朶を撫ぜてゆくのはおのれが発した問いと、その返答だった。それらは、努めて静謐を保とうとしていた水面に石が投げられて、否応なしに波紋が広がってゆくような感覚に近かった。――知らないわね、と笑う、退屈そうなその声と淡々とした眼差し。彼女の振る舞いが不愉快に感じられなかったからこそ。
脳裏で、銀がちらついている。
気づいてはならない何かが襲い来る予感に、ウィリアムは紅茶と共に、それを咽喉の奥へと流し込んだ。