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青衣と菫  作者: 氷空けい
本編
12/22

07.菫を啄むのは誰か


 カツ、と華奢なヒールの音が響いた。

 首筋に滲んでいた汗がすうと引いてゆく。

 踏み入った礼拝堂は、息苦しさを憶えるほど静かだった。ここへ来るまでの道程も以前と寸分違わず寥々たるものだったが、俗世を遠く離れたこの地――暗澹たる深い森の奥に佇むこの礼拝堂の寂寞さといったら、おのれにはとても表現しようがないほどのものだ。色彩豊かな夏の気配さえまるで寄せつけていない。閉め切った空間は黴臭く、手燭に火を灯しても、決して消し去ることのできない濃い影だけが落ちてゆく。

 傷んだ床の上で、踵が気高く音を鳴らす。

 ここを訪れるたび身体の裡で燃え上がる感情に何と名前をつけたなら、おのれは諒解することができるのだろう。

 誰にも顧みられることのない、この、途方もない孤独について。

 礼拝堂を所管していた聖職者は疾うに叙任を解かれ、人の手が入らなくなったこの場所は、国民の忘却の彼方で朽ちてゆく一方だ。せめて私的な墓守くらい置ければよいのに、極めて変則的に巡察が行われる状況ではそうもゆかず、またこうして監視の隙を突いて参じた折でさえ痕跡が残ると()()()に諫められるので、少しの埃を清めることすらできないままだ。何一つ満足にできない口惜しさに、幾度唇を噛みしめたことだろう。

 ――けれどそれも、今日が最後だ。

 聖母子像の一つさえ飾られぬ祭壇の前に立ち、足を止めた。

 祈りのゆくべき先のない祭壇には、銘も刻まれぬ黒い柩が一つだけ、安置されている。

 自慢の金髪を美しく結い上げ、その上に被った小さな黒い帽子(トークハット)。そこに縫い止められた繊細なチュールレースを透かして柩を見つめ、ひどくゆっくりと碧眼を細めた。

 帽子同様、生地から装飾に至るまで全てを黒で統一したドレスを捌き、膝を折る。そうして、腕に抱いていた純白の聖母の花(リッリ)の花束を、柩の上へとそっと手向けた。――ようやくあなたを悼んでこの花を捧げることができた、と。安堵すると同時に込み上げてくるものがある。美しく微笑もうとした唇が、不恰好に歪んだ。

 ――八年、花の一輪さえ献じることが許されなかった。

 謂われなき罪、汚名を着せられ、誰の目に留まるともなく処刑され。

 国葬もなく、骨の一匙さえ遺せず、せめてもの情けといえばこの銘なき黒い柩だけ。それでさえこのような、国の辺縁にある奥深い森へと打ち棄てられた。

 誰よりも高貴であった、あなたが。


「お兄様……」


 幼少のみぎりより思慕してきたひとへの仕打ち、その身に降り懸かった悲劇に想いを馳せれば、戦慄かずにはいられなかった。眉をたわめると骸なき柩へと縋りつく。その冷たい肌触りに、愛してやまなかった怜悧な碧の双眸が甦った。――極上に美しい宝玉。王城に出入りするどんな宝石商であっても、あの双眸よりも凄艶な碧をおのれの前に揃えることはできなかった。クロンクビスト王族随一の血統を示す、冷たく甘美で、蠱惑的な、碧眼。

 おのれを見つめたあの眸を思い出すだけで陶然とする。国外の、下等な貴族へ嫁ぐことが決まった不幸な身上を憐れんで声を掛けてくれたのは、あのひとだけだった。不釣り合いな結婚生活の只中においても、決してその存在を忘れたことはなかった。愛しいお兄様。わたくしの。わたくしの、誇り高く美しいお兄様――

 けれど、至高で在ったそのひとを。

 八年前、狡賢い異母弟の謀略により、永遠に喪ってしまった。


(泣くものか)


 涙の代わりに、凍えた吐息がこぼれた。

 こんな暴虐が罷り通り、あのひとこそが相応しかったこの大国の王の御座に、卑小な器の異母弟が座しているなど。腹の底から青い焔が燃え上がる。空の柩に耳を澄ませば、あのひとの深い悲歎の声が聞こえる。あぁ、と柩に回した腕に力が漲った。赦されるものか――赦してはならない。意地悪く薄汚い盗人の王子、絶対に赦すものか。赦すものか。必ず、復讐を果たさねばならない。

 ざらついた柩の表面に緩慢に頬擦りをし、繊細な指先で縁を撫ぜ、ゆっくりと顔を上げた。手向けたリッリの馨しい香りがする。傅く誰もが美姫と褒めそやす貌を綻ばせ、今度こそうつくしく、微笑んだ。


「見ていて下さいませ、お兄様」


 美しいひとには美しいものを。

 あなたにこそ似合いのこの大国の王冠を、必ずや。




 かた、と物音がして弾かれたように振り向く。おのれの従順なるしもべは常日頃から決して物音を立てず、まるで影のように傍らに控えているので、突然のその音源がこの礼拝堂に招かれざる者であるというのはすぐに察せられた。素早く視線を走らせたところには、従者を連れた人間が一人、立っていた。丈の長い外套を羽織り、目深に被った頭巾フードで顔は窺えないが――女である。外套の裾から見窄らしい鈍色のドレスが覗いている。

 眉を顰めると、オフィーリア、と聞き覚えのある気弱そうな声が耳朶を掠めた。首許に手を遣った女が頭巾だけを取り去る。

 そうしてこちらを見つめていたのは、水で溶いたような、不明瞭な色味の碧眼だった。


「オフィーリア……」


 それは同腹の姉だった。デイナ=ロス・オルブライト――今は、ハーシェル公爵夫人デイナ・ミラーか。

 昔から俯きがちな、気概のない瞳が、おのれを見つめて悲しげに歪んでいる。


「あなた、ここで……なにを」

「――お姉様こそ」


 姉の、ぼそぼそと、吐息に紛らせて小声で話すところは相変わらずだった。おのれの艶めかしい髪とはまるで比較にもならない、暗がりに滲んで見えなくなってしまう程度の金髪を冷ややかに見遣って、何の御用かしら、とあしらう。

 物理的にも立場的にも、ここへ独断で来られる姉ではない。姉自身が自覚しているかどうかは別として、彼女が誰かの差し金なのは明白だった。


「旦那様がお亡くなりになってしばらくして、あなたが、ヘドボリのお屋敷から姿を消したと聞いて……」

「あんな男、わたくしの夫でも何でもありませんわ。虫唾が走ることを仰らないで」


 ぴしゃりと言い切る。イェイエル河以東の、何の取り柄もない田舎の小国ヘドボリに嫁がされた過去は思い出したくもない。況してあの十も年上で好色な、醜い貴族のことなど。大国の王女としてみなに伏侍され敬われ、気高く生きてきたおのれにとって、あれほどの恥辱が存在しただろうか!

 脳裏を過ぎった日々に一瞬憤然としたが、オフィーリア様、と囁いたしもべの声に、さっと冷静さを取り戻した。息を吐く。この気弱な姉如きに取り乱すとは。見苦しい。自らを律すると昂然と胸を反らし、忍ばせていた扇を手に取りばさりと開いた。

 わたくしあなたを心配して、と視線を落とす姉を、扇の内で嘲笑した。


「お姉様に気に懸けていただくようなことは何一つございませんわ、ええ、何一つとして」

「オフィーリア」

「大体、人の心配をしている余裕がお有りですの? デイナお姉様こそ、ハーシェル公のご機嫌取りに勤しまれた方がよろしいのではなくて?」


 だって、と。

 眸を弓形に撓らせる。


「お姉様は、公にとって所詮ただの身代わりなのですもの」


 その一言で、明らかに姉は全身を強張らせた。それどころか見る見るうちに顔色を青褪めさせてゆく。とても滑稽だった。

 いい気味だわ、と内心で侮蔑する。――デイナは凡庸な姉だ。クロンクビスト王族の血を引き、紛うことなき金髪碧眼を持ってはいたが、幼い頃より根暗で目立たない王女だった。これが同腹の姉であることは、生誕のときより王女の手本であったおのれにとっては、長年の恥ずべき事柄だった。その、突出して何が秀でているでもない、王の系譜である以外には取り柄のない存在であった姉が、社交界の貴公子であった公爵の伴侶となれたのには、理由があるのだ。

 そうでなければ何故、おのれが矮小な外国貴族へ嫁がねばならず、何段も見劣るこの姉が国の大公爵家の一つへ嫁げたというのだろう。


「――あの穢らわしい異母妹いもうとの代わりの、デイナお姉様?」


 『兄』が大層可愛がっていた、一つ下の異母妹。

 父を誑し込んで禁を犯し、弑逆した挙げ句、王家から離籍されてなおのうのうと生き延びたあの。


「『お兄様』のご学友でいらっしゃった公が、わたくしたち姉妹の誰に長らく求婚なさっていたのか、当然、お姉様もご存じのはず」


 姉の色を失くした唇が呼気さえ発せずに戦慄くのを、愉悦を憶えながら眺める。そうして、礼拝堂へ入ってきたときと同じく、カツ、と靴を鳴らした。姉の方へと歩み寄ってゆく。くすくすと笑う。

 ねえ、お姉様。

 お可哀想なわたくしのデイナお姉様。

 あまく、あまく、――猛毒のぎんをその愚昧な耳朶に注ぎ込むようにして、ささめく。


「わたくし、いつでもお姉様の味方になって差し上げてよ?」


 戸口で立ち尽くしたまま動けずにいる姉の横に立ち、扇で隠しながら顔を寄せ、観賞する甲斐もない陰気な碧眼に口許だけで微笑んでみせる。


「公は、()()()のことで手が一杯でしょう」

「……オフィーリア」

「放っておかれて寂しいでしょう。悔しいでしょう。ええ、わかりますとも。わたくしたちは同腹の姉妹なのですから」


 意地悪を申し上げてごめんなさいね、わたくしもとても胸が痛いんですのよ、ですから言わずにはおれませんでしたの、畳み掛けるように囁けば、なにを、と姉の震えた声が洩れた。――莫迦な姉だが捨て駒にする程度の価値はあるだろう、と胸中で独りごちる。大して使えなくとも構わないが、布石を敷いておくに越したことはあるまい。さかしい異母弟を排除するためには、利用できる手は多い方が善いに決まっている。

 ――ハーシェル公爵も愚かなことをしたものだ。主体性を持たない臆病な妻を、たかだか付き人一人でおのれの許へ寄越すとは。


「わたくしはあの方の悲しみに報いたいのです、お姉様」


 公には秘密ですよ、と紅を剥いた唇に人差し指を立てる。

 姉の従者には決して聞こえないように、そろりと話した。おのれの発言を聞き瞠目した瞳に嗤笑い、その隣をすり抜け、礼拝堂を後にする。いつでもいらしてね、と言い残して。




 外に待たせておいた馬車に乗り、扇を畳んだ。暫しの別れとなる礼拝堂を小窓越しに見つめて溜息を吐きながら、レイフ、と呼び掛ける。向かいに座した男は、はい、と抑揚のない声で答えた。鞭の音、馬の嘶きが聞こえ、馬車が動き出す。


「わたしのかわいいしもべのあなた。ちゃんとついてくるのよ」

「仰せのままに、オフィーリア様」




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