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青衣と菫  作者: 氷空けい
本編
11/22

06.開幕


 初めて土に埋めたのは、鳥の死骸だった。

 産まれたばかりの雛だった。

 それは、最果ての孤島にようやく遅い春がやってこようかという時節であったと記憶している。家の庭に植えられたケセドの老木の枝へ毎年必ず巣作りに来る鳥がいたのだが、その年は何かのけものにでも襲われたのか、気づいたときには巣が荒らされていて、遺った雛鳥が一羽だけ、融けきらぬ雪の上に落ちていたのだった。生え揃ったばかりだったのだろうに、柔い羽毛は濡れそぼり、その下の薄紅の肉は剥きだしで、血と雪に塗れたそれは惨い有様だった。手のひらに掬い上げればまだほんのり生温かく、ぬるりとして、――死んでゆくのだと、思った。

 ひどく悴んだ手で凍てた雪を掻き分け、さらにその下の土を堀って、雛鳥のものなのかそれともおのれのものなのかも最早知れない血塗れの手で、ケセドの樹の下にその死骸を埋めた。それが、最初だった。

 翌年から、鳥が家の庭へ巣作りに来ることはなくなった。

 そうしておのれが次に土へ埋めたのは母だった。それから、何の罪も持たぬ市井の母子おやこを埋め、父を埋め、異母兄あにを埋め、多くの島民を埋め、――やがては、おのれを誰よりも慈愛深く育ててくれ、この世で最も敬愛した祖父を埋めた。最果ての孤島にいくつの墓碑を建てたのだろう。数えても数えても数えても、数えきれないほど、土を掘っては埋めた。もう二度と、誰にも安らかな眠りを妨げられることのない、最果て(ディンケラ)の、あの凍土に。

 ――()こそが、最初の雛であったなら善かったのに。

 今でも、そう思っている。



   .

   .

   .



 極夜のようだ、というのが第一印象だった。

 大陸最北の国、マリアベルの祖国ミルヴェーデンでは、真冬になると太陽の昇らぬ時季がある。昼と夜の境がなく、日中でも昏い状態が続くその日を極夜と呼ぶのだ。国の果てでは極夜は数ヶ月にも及ぶことがあり、あえかな光が今にも潰えそうに所在なく揺曳している――。初めてまみえた彼の印象は、そんな、祖国の極夜だった。多分に、彼の、どこまでも深く濃い碧の双眸が、マリアベルにそのような心象を抱かせたのだと思う。

 吐息さえ凍る、あの厳冬を思い出した。

 ミルヴェーデンの冬は、静謐さえも呑み込んでしまう、耳朶を引き裂く無音の世界だ。新緑の芽吹く声など遥か遠く、どこもかしこも雪と氷が青白く光る、本当に頼りない薄明だけがある。時折、ほんの気まぐれに極光オーロラが現れては、闇に塗り潰された天を裂いてゆく。終わりの地だ。そこから先には何もない、死にゆくものだけが辿り着く、最果ての冬。彼の眸は、あの碧さに似ている。どこにいても目立つだろう、天使の梯子のような、暗雲を降りてくる艶やかな金の髪よりも、マリアベルにはその昏さがやけに目についた。

 金の睫毛の下で、マリアベルを認識するなり、彼の碧眼は冷たさを増した。


「――誰」


 初対面の人間にその露骨な不機嫌さはないだろう、と思わざるを得ない響きだった。風貌からマリアベルが推測する年頃の男性にしては繊細な、高い声音テノールは、咽喉の奥から低い唸りの嫌悪を吐き出す。あの堅物のレックスのところにこんな女がいるなんて聞いてないんだけど、と。


「オーウェン、どういうこと」


 彼はマリアベルから目を逸らさないまま、詰問の口調で言う。オーウェン、というのは彼の後ろに付いて来ている人物だろう。彼と同年代か、否、年下と思しき青年だ。マリアベルと同じ年の頃くらいかもしれない。初夏だというのに、全身、見目がとても暑苦しい漆黒の装いをした彼とは異なり、動き易さを重視したカンナビスのシャツの軽装が若々しい。その『オーウェン』が、存じ上げません、と実に素っ気ない返答をしたので、彼は品なく舌打ちした。仮にも女性レディの面前で失礼なことだ。

 ソファに座ったまま、談話室に入ってきた彼らを一通り観察したマリアベルは、視線を手許の本へと戻した。生憎と、自ら名乗るわけでもなく、不躾に誰何すいかする人間に付き合う趣味は持っていない。況して、見ず知らずの相手にこんな女とは随分な言いようである。

 無視を決め込んだマリアベルをどう思ったのか、彼は矛先を変え、案内を務めたらしいスタインズ侯爵家の家令に問い質している。訊いたところで家令は知る由もない、マリアベルが独りごちたとき、この小さな騒動を聞きつけたレックスがやって来た。レックス、と現れた家長を非難がましく呼ばう彼に対し、レックスの方は――マリアベルが耳をそばだてている限り――明らかに嘆息していた。何事かと思えば、と話し出した声は、普段マリアベルを諫めるときと同じ、苦々しいそれだ。


「貴方は一体お幾つになられたのです、ウィリアム様。いい加減、それ相応の振る舞いを」

「そういう小言なら毎朝毎晩エリオットから聞いている。十分だ」


 久方に帰国したと思えばそれか、うるさいな、そう鬱陶しげにレックスの見咎めを追い払い、それより、と彼は些か苛立った語勢で問い詰める。


「彼女、誰」


 それは極めて端的な訊き方だったが、権力を有する者特有の、叛くことを容赦しない傲岸さがあった。一瞬、レックスがこちらへ視線を投げる気配がある。マリアベルは顔を上げなかった。――旧家の侯爵位、それに命令を下すより上位ともなれば、自ずと存在は限られる。

 加えて――眩い金髪に、求心力のつよい碧眼。

 一目見たなら決して忘れ得ぬ至高色。世界中の誰であっても、この国においては断じて偽証できないそれ。見紛うはずもない。金髪碧眼の血を色濃く継ぐ若い男は、()()クロンクビストにはただ一人だけしか存在しない。


(ウィリアム)


 八年前、突如として兄王を殺して王位を剥奪。直後に腐敗した前教皇を弾劾し、国内外で混乱と対立を深める中、戴冠を巡り『教会』と闘争を起こして、血濡れたその手で天の軛までもを断ち切った、神をも畏れぬ背教者。

 クロンクビスト国王。

 ウィリアム=メディオフ・オルブライト。

 ――その人だ。


「レックス」

「――家出娘ですよ」


 威迫する彼に対し、レックスは至極冷静な声で答えた。争乱を前に君主を裏切り、謀叛を起こした末の王子に侍った元近衛騎士は、おのれの馘首になど疾うに頓着していなかった。


「彼女の家出を心配した方に預かってくれと頼まれましたので、仕方なしに、連れ帰ってきました。落ち着いたら国へ後見人を申し出て、貴方にもご報告するつもりでしたよ」


 仕方なしに、のところに嫌に強調が籠もっている上、さらには不用意に姿を見せたのはそちらだと暗に指摘するレックスに、マリアベルは笑いそうになった。本当に、これを鉄仮面と評する周囲には、おまえの耳目は確かかと訊いて回りたいものだ。

 へえ、家出、とレックスの言葉を彼は舌先で反復する。冷ややかなそれは、明らかに信用していない。


「誰から請け負ったの。で、彼女はどこの誰」

「北方の、名のある氏族クランからです。私はオーベリで知り合いましたが、彼女はミルヴェーデン出身です。マリアベルと申します――マリア」


 居候先の家長に紹介されたからには立たざるを得ない。マリアベルは本を閉じた。最後に読んだところは百八十二ページ目、と脳裏に刻みながらソファから腰を上げ、未だ談話室の入口で屯している男たちへ向き直る。そうして、侯爵家には釣り合わない、質素な灰黄緑色の踝丈のワンピースをわざとらしく抓んでみせた。ちらと碧眼を見た後、軽く膝を折って挨拶する。


「マリアベルです。スタインズ侯爵家の皆様には数日前からお世話になっております、よろしくお願いします」

「……随分と流暢なクロンクビスト語(クロック)だね、君」


 嗤笑の滲む声に、顔を上げ小首を傾げたマリアベルは、再びわざとらしく目を瞬かせた。


「あら。クロンクビスト語は通商語だし、西側諸国のいずれでも最も通じやすい言語ですもの。そこの男――失礼、スタインズ侯爵閣下がたった今申し上げませんでしたかしら。わたしは家出娘だと」


 本当は誰にも拾われるつもりなどなかったのだから、どこでも生きてゆけるよう国際共通語(スプロウ・クロック)を学んでおくなど当然だろうと、マリアベルは言外に匂わせる。彼の視点で考えれば、余計に不審に思われることは承知の上だ。だが、この類いの人間に嘘を言うのは得策ではない。必要なものは、嘘ではないが真実でもない、ただの事実だけである。

 ふうんと空返事をした彼は、やはり漆黒の、仕立てのよい手袋に包まれた指先を顎に当て、こちらの様子を窺ってくる。


「ミルヴェーデンと言えば、かつて『銀狼』が切り拓いた北方の雄。確かに名のある氏族が多いだろう。ねえ、君、姓はないの?」

「家出娘ですから。当然、捨ててきました」

「つまり言えないんだ?」

「閣下に出会う以前に捨ててきましたから、わたしどこに捨ててきたのかすっかり忘れてしまったのよ。そうね、どなたかが拾って下されば思い出すかもしれませんわ」


 ですからどうぞお好きにお調べ下さいな。マリアベルは口の端を吊り上げる。

 マリアベルを値踏みする、凍むる碧眼がすうと眇められた。彼はしばらく沈黙した。ややあって、嘲弄を象る唇が、マリアベルの『身元保証人』の名をひどく酷薄に呼んだ。


「――レックス。僕はおまえを信じるけれど、いいよね?」


 正体不明の女のことは信じないが、実績ある王家の近衛騎士が責任を請け負うならば信じてもよい、という意味だろう。翻せば、()()()()()首を刎ねられるのはスタインズ侯爵レックス・ラドフォード、ということだ。

 マリアベルの後見を預けた男は元よりそれを予断していたし、その意思を受諾したレックスも無論、彼がこのように言い出すのは了知していたはずである。レックスは首肯する。


「当然です。ありがとうございます、ウィリアム様」

「許可はしたが、後で正式に書状は出しておいて。エリオット宛でいい。序でにあれの仕事を増やせ」


 最近喧しくて仕方がないんだと溜息を吐く彼に一瞬渋面を見せたものの、承知しました、とレックスが恭順したところで、彼らの後ろから紅茶を乗せた台車(ティーワゴン)を押した執事が現れた。布が被せてあるので判別しづらいが、大凡の形状から恐らく、カップは四つ準備してある。

 同様のことを考えたのだろう、僕の分ならいらない、と彼は大儀そうに手を振った。


「レックスが帰国したと言うから面白がって会いに来たけれど、見たくないものを見たせいで興が冷めた。帰るよ」


 見たくないものとはわたしのことかしら、と。

 こちらのことをとやかく言える立場かとマリアベルは思う。本当に彼は、悉く、礼儀をどこかへ置き忘れてきたらしい。


「――失礼なひと」


 黙っているのは性に合わないので、きっぱり明瞭な声で言ってやった。

 彼が眸を瞠ると同時、マリアベルの気性を理解しているレックスは額を押さえた。気苦労の堪えない男だ――主にマリアベルのせいだが――、あの性格であの歳まで禿げなかったのは幸運だ――それも十分に失礼な見方だが――などと、不憫な義父オトウサマのことを思考の隅で考えながら、マリアベルは彼らから視線を背け、ソファに座り直す。読み掛けの本を手に取った。


「現れるなり不躾に誰何、こんな女呼ばわり、舌打ちに、見たくないものですって。初対面の上、ご自分は名乗りもしないのに。わたしの方こそあなたの顔など見たくもないわ。早くお帰りになって下さる? 読書の邪魔」


 マリア、とレックスが窘める声が耳を掠めたが、聞こえなかったことにする。

 マリアベルは室内に入りづらそうにしている執事を丁寧に呼んで、主人と客人の顔色を窺うのを説き伏せ、テーブルの上に給仕してもらう。今日はゾエの紅茶だった。湯気と共に、蜜を湛えた花のような甘い薫りが立ち上る。開いた本を片手で器用に押さえながら、マリアベルはカップを手に取った。

 一口飲んだところで、頭上からふっと影が差す。

 仰ぎ見るのも面倒だったのでマリアベルは相手にせずにいたのだが、彼が一向にそこから動かず、三十ページほど本が進んだところでさすがにうんざりした。根負けしたとは思いたくないけれども。見られたままというのは、疲れる。

 目線を上げれば、彼の眸が、凝然とマリアベルを見下ろしている。

 間近で見つめ返しても、その凍てつく碧さはやはりあの極夜だった。

 悲鳴も絶望も何もかもを吸収してゆく、ミルヴェーデンの無音の冬を、深雪を、マリアベルに想起させる。


「……なに」


 図らずも尖った声が洩れた。マリアベルの傍らに立っている彼は、君は、と呟く。


「僕を、知らない?」


 ──その『僕』とは、誰を示すものなのか。

 どういう意味で訊いているのか。

 マリアベルは咽喉の奥で嘲笑した。知らないわね、とぞんざいに答える。


「だってあなた、名乗っていないでしょう」


 彼が欲するものをマリアベルは知らない。考えようとも思わない。必要なものは事実だけだ。

 マリアベルの返答に、彼は暫時、考え込む素振りを見せた。その間、マリアベルは何とはなしに彼を眺め直す。

 眸と髪の印象は変わらない。ただ、北方出身のマリアベルから見ても、肌が白いなと思った。輪郭に余計な肉はなく、どころか少し、痩けているような気もする。長い金の睫毛が影を落とす場所には、うっすらと隈があった。薄い唇にも色はない。そこらの女性よりも余程清淑とした美しい貌をしているのが、却って病的なさまに見えなくもなかった。よくよく観察すれば目に留まる、精緻な織りを成した漆黒の衣服が、その雰囲気を引き立ててしまっているのかもしれなかったが。

 僕は、そう声を吐いた彼に、マリアベルは眼差しを向ける。


「……僕はこれでも、僕の一存で君をどうにでもできる立場の人間なのだけど」


 彼はほんの微かに首を傾げた。脅迫、というよりは、おのれの発言が含意するものを改めて確認しているような感じだった。戸惑っているのだろうか。


「そう。それなら好きにすればいいわ」

「……君は」


 先程から、『君』の繰り返しで鬱陶しい。マリアベルはあからさまに溜息を吐く。


「君、ではないわ。マリアベル。親しい人はマリアと呼ぶわよ」


 別にマリアと呼んでほしいわけではなかったが、名乗ったにも関わらず無視をされるのは気に食わない。

 彼は何度か目を瞬かせた。

 と、思えば、ついと口角を歪めて笑う。


「そう。なら、親しくない僕はベルと呼ぼうか。マリアだなんて清らかぶってて最悪だから」

「あなた、皮肉屋なのね」


 まあいいけれど、と肩を竦めたマリアベルは、それで、と訊き返す。


「わたしはあなたを何て呼べばいいの? 『王子様』」

「……王子?」


 怪訝そうに問うてくる彼に、マリアベルは我が儘で偉そうだからと理由を附した。事実なのだから仕方がない。マリアベルの歯に衣着せぬ物言いに、彼はやはり目を瞬かせ――ようやく、ウィリアム、と自らを名乗ったのだった。




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