05.青嵐の予感
屋根のない箱形の、生成色の壁の邸宅が軒を連ねている。舗装された街道、区画は規則正しく、整然とした街並みはどこまでも続く。車に設えられた小窓を開放すると、涼やかさの中に微かな熱を孕んだ初夏の風がやってきて、それとともに吹き込んだ雑踏が耳を掠めていった。マリアベルは窓際に身を寄せ、流れてゆく景色を眺める。
客船が帰港した小さな港町ルーデルスから馬車で半刻ほど。到着したのは、ヨンナ=エストバリ海からの大陸への玄関口にして、イェイエル河に分断された大陸西側において最も繁栄している国家のその心臓部。大国クロンクビストが王都、エイジェルステットである。
きら、きらりと光を弾く陽射しの下で、道ゆく女性の、色鮮やかな日傘が踊るのが目に留まった。
「――何か興味深いことでもございましたか」
おのおのの従者に荷を持たせ、日傘に隠れて姦しく囀る娘たちは、マリアベルと同じ歳の頃だろうか。衣装の華やかさからして、少し下かもしれない。そんなことを考えながら外を見ていたとき、斜向かいに腰掛けた男から声を掛けられた。視線は外へ遣ったまま、マリアベルは口の端で笑う。
「そうね。新しい国はどこも楽しいわね」
クロンクビストほど大きい国は初めてだからなおさら、と。
素直な気持ちでそう答えたつもりだったが、浮かれてもいない声の調子のせいか、白々しい言葉だと自分でも思わないではなかった。しかし、そうですかと返した男の声色も普段と変わらない淡泊さだったので、その問答がどうということでもないのだろう。男にしてはめずらしく、社交辞令だったのかもしれない。――それよりも。
「あなた、いつまでわたしに敬語を使うつもりなの?」
馬蹄の音に交ざって、窓の外を行き交う人々のざわめきが揺れ動いていた。稀少な青の油絵具で塗り固められたような、厚みのある碧空へ、高らかに飛んでゆくのは子どもたちの声だ。進めども進めども、褪せず、濃密な気配がする。息づいているのだとマリアベルは思った。祖国―― 一年の半分以上が雪と氷に覆われている、凍んだような静寂に埋もれる故郷では聞こえぬ賑やかさと豊かさだ。嫌いではない――が。
馬車からの眺めに、マリアベルは眸を細める。
この国は、大陸の西側における要所だ。創世記より成立するとされる『教会』と、建国の時から長きに渡り双肩であった。たとえ八年前の政変を機に教皇庁から離反し、人の都となったといえども、地政上でも宗教上でも決して存在を無視することは叶わない。エイジェルステットの街並みは、歴史的な重圧の上に成り立っている光景であり、それを憧憬や羨望といった一つの単語で片づけてしまうことは、マリアベルには困難なことのように思われた。
「わたしはこれからあなたの養子になるのよ、レックス・ラドフォード。ちゃんとわかっているの?」
「……理解はしていますが」
渋々、といったふうで頷きがあった。
「そう。では、ぜひとも納得もしてちょうだい。わたしたちはもうここまで辿り着いたのだから」
今更引き返すだなんてあり得ないわ、咽喉の奥で嗤笑いながら、マリアベルは男の方へと向き直った。五十の声を聞いてなお精悍さを失わない、元騎士の尊厳を覗かせる男の面には、何とも言い難いとばかりの感情が見え隠れしている。至極面倒なことを押しつけられた現実に、盛大に顔を顰めたいのを堪えている、と評してもいい。――この国で自分の養父となるこの男、スタインズ侯爵レックス・ラドフォードは、本人に会う以前には自他ともに認める鉄仮面だと聞かされていたわりに、存外そうでもないのである。それはここまでの旅路における、マリアベルの彼に対する見解だった。堅物なのは確かだが。
マリアベルは眦を歪めて笑った。
「できないのなら、お義父様って呼ぶわよ」
ラドフォード家は、歴史あるクロンクビスト貴族の家柄である。だが、嫡男として先祖代々の爵位を受け継いだものの、レックス自身は近衛騎士としてクロンクビスト王一筋に仕えてきたために、いずれの令嬢を娶ることもなく、つまりは妻子がいなかった。一族には、世継ぎなど妹の息子――甥が一人いれば十分だと言って憚らなかったらしいのだが、そんな男の許に、ある日突然、レックスを『オトウサマ』と呼ぶどこの馬の骨ともしれない若い娘が現れたなら。周囲がどう邪推するかなど考えるまでもない。
その予想を共有したらしく、顰めた顔のその額にさらに皺をたたんだ男に、マリアベルはあざとく小首を傾げた。追い討ちは容赦なく、が信条だ。
「不満なら、旦那様、と呼んで差し上げてもよろしくてよ」
五十の男に、既婚歴なしの若妻である。あなたの名声は地に落ちるかもしれないけれどそれもいいわよね、周囲を黙らせやすくて、と付け加えれば、暫くの沈黙の後、レックスはあからさまにうんざりとした息を吐いた。そうして険を乗せた黒眸で、マリアベルを睨めつける。
「……今更墜ちる名声などないが」
――勝った。
彼生来の、ぶっきらぼうな物言いに、マリアベルは微笑を浮かべる。
「そうだとしても要らぬ不名誉など負わない方がいいもの」
マリアベル様、と口を挟もうとするレックスを、今度は眼差しで制する。
「だめ、マリアと呼んで。敬語を止めても敬称を付けたら意味がないでしょう、あなた莫迦なの? ――ああ、わたしは今後もこのまま話すけれど、いいわよね。礼儀正しく喋ろうとすると却って襤褸が出易くて。身を以て経験済みだからあなたの反論は受けつけないわよ、レックス」
一息に、いけしゃあしゃあとマリアベルは宣う。レックスはもう何も言わなかった。完全に目が据わっている。口が裂けても声にはしないだろうが、厄介な人物を預かった、と心底辟易しているに違いない。けれど、境遇を呪うのならばわたしではなくあの男にしてほしいのだけど、とマリアベルは胸中で独りごちる。既に引退したとはいえ元近衛騎士だ、揶揄う塩梅には気をつけないと。何事も引き際が肝心なのだから。
マリアベルは再び、その白緑の瞳を街へと移した。
二人が乗った馬車は、扉の鎖された大聖堂の前を通り過ぎ、それまでより一際大きな屋敷が建ち並ぶ区画へと入ってゆく。
「――……私は一人、大変なお転婆娘を知っているが」
それはもう、他人の言葉になど一瞬も耳を傾けぬほど。
無謀な生き方を選んだ娘だったが。
「それでも、貴女ほどではなかったような気もする」
彼の言葉がどういう意味なのかとは考えなかった。
だから、車内に吹き込んだぬるい風が、溜息とともに零された、その、どこか心許ない声を攫ってゆくのを、マリアベルは気づかなかったことにした。
クロンクビスト貴族の王都の屋敷は、そのほとんどが三区と四区に建てられている。三区の方が王城オクセンシェルナに近く、そのためそこにある屋敷の多くは公爵や侯爵のものが中心であり、伯爵位でも城内で重役を担う高位貴族のものだった。侯爵位を賜るラドフォード家は名誉騎士の家系で、とりわけ王城に近接している。近接、とはいえ、果てしなく長い往来のその先の先にようやく、郊外に建造された王城、を取り囲む外壁がある、というので、ラドフォード家の敷地から城自体が視界に入ることはないのだが。
マリアベルの義父になる男であり、屋敷のあるじであるレックスは、現王が即位した一年後に騎士の称号を返上して以来、ほとんどこの屋敷には帰っていないと聞いている。だが、元々王に近侍して登城していることが常であったせいか、彼の使用人たちは落ち着いた様子で久方に顔を見せた家長を出迎えた。さすがに見知らぬ女を連れ帰ってきたことには、屋敷を預かる家令ですら驚愕していたけれど、その動揺も一瞬のことで、レックスの指示を皮切りにすぐさまマリアベルを迎え入れる準備へと動き出すのだから、侯爵家の面々には恐れ入る。
だから、あなた意外と人望があったのね、などと呟いてしまったのは致し方のないことだ、とマリアベルは思う。耳敏くそれを拾ったレックスの白眼視には、大人しく首を竦めておいた。よくよく考えれば、人望なくして王家が所有する近衛騎士団の長にまで上り詰めるわけがないのだが。
「あなたがいない間、この家は誰が取り仕切っていたの?」
ひとまず、ということで、談話室へ案内されたマリアベルは、レックスに促されて腰掛けながらそう訊いた。妹だ、と端的な答えが返ってくる。
「旦那が既に死別しているから出戻り、とまでは言わないが。あれの息子の一人が家を継ぐことになっているから、その序でだな」
「わたしがお会いすることはあるかしら。まあ、あるわよね」
「ああ。二週に一度は来ているようだからそのうちに。……先に話しておくが」
執事が低卓に茶器を揃えてゆくのを尻目に、レックスの声色が僅かに低くなる。
「クロンクビスト貴族にはいくつかの派閥がある。妹は現王を支持しているが、彼女が嫁いだ家――レディントン伯爵家の一族にはそうではない者も多い」
美しく澄んだ色合いの紅茶がティーカップに注がれてゆく。青みがかった爽やかな香りが薫った。執事に菓子とともに差し出され、マリアベルは緩く微笑んで謝辞を述べる。カップを手に取ると、曲線美を極めたその縁に唇を添わせた。そうして一口嗜むと、美味しい、と呟く。もう一口含んだのち、マリアベルは執事に向き直って、とても美味しいわ、と今度ははっきり伝えた。彼は表情こそ変えなかったが、胸が微かに上下したのを見るに、安堵したようだった。
「マリアベルさ……マリア、聞いているのか」
供された紅茶をただ楽しむマリアベルに、レックスが怪訝そうな表情をする。聞いているわよ、とマリアベルは御座なりに頷いた。
「権力闘争などどこにでもあるもの。とりあえず聞いておくけれど」
マリア、とレックスが言い募ろうとするので、マリアベルはようやく視線を上げた。
「急いてもいいことなどないわよ、レックス。為損じるだけ。それよりもまずは折角の紅茶を楽しんだらどう? 久しぶりのご自宅なのだから、肩の力を抜いたらいいのよ」
カップをソーサーへ戻すと、今度は菓子に手を付ける。赤紫色の花びらが生地に練り込まれた焼き菓子だ。マリアベルが今まで目にしたことがないそれに瞳を瞬かせ、傍に控える執事を仰いで訊ねると、彼は、食用の花でイラークリーと言うのだと教えてくれた。
囓ると少し苦みがあったが、その分生地が甘いので、ちょうどいい。
あるじに近づく不審な女と捉えられてもおかしくはなかったのに、と考えながら、マリアベルがラドフォード家の心遣いをありがたく頂いていると、レックスは諦めきったような溜息を洩らした。自らの前に用意された茶器に手を伸ばす。彼の指には剣を握る者特有の無骨さがあったが、所作には侯爵家の嫡男らしい優雅さが覗いていて、ともにお茶の時間を楽しむのは悪くなさそうだった。マリアベルは、美味しいものは美味しく頂きたいのである。
「わたしはきっと、まだあなたの信用を勝ち得ていないのでしょうけれど」
ふ、とレックスが一息吐いた頃合いを見計らい、マリアベルは独白のように囁く。男の黒眸がこちらを見た。クロンクビストへ着いてからというもの――本人は意識していなかっただろうが――手負いのけものと見紛うくらいには緊張を漲らせていた眼差しが、幾許か鋭さを潜め、落ち着きを取り戻している。紅茶は本当に偉大なる存在だわ、とマリアベルは内心で笑う。
「うまくやるわよ。約束だもの」
こんなに血塗れの手でも。
救えるひとがいるのだと、天使が信じてくれるのなら。
マリアベルは用意されていた手布で菓子を抓んだ手指を拭うと、背筋を伸ばして挙措を改めた。他国籍の人間である自分の身元の引受人となってくれたレックス――スタインズ侯爵に毅然と向き合い、だから改めて、と、傍目には美しい貴婦人の手を差し出した。洋上を力強く羽ばたいていった鳥たちの、あの燦然とした光を孕んだ白緑の眸を細めながら。
「どうぞよろしく、侯爵閣下」