一話 深き谷にて
魔女伝説は谷にあり。
深き谷のマドゥーラ渓谷には、飛竜と悪名だかき魔女が住む。
200年前から続く、おとぎ話のような伝説だ。
現実、竜なんて生きているうちに見たことがない。特に魔女の逸話に関しては、古いもので千年も前に記されているものもある。
千年だ。
千年もあれば、国は変わり、文化は移り、伝統は霞む。
60年生きるのが精一杯な人間からすれば、千年なんて途方もなく、それだけの年数を生きる人間がいれば、それは人ではなく化け物だろう。
長寿で知られるエルフェーンや獣人じゃあるまいし。
魔女伝説というのも、おおかたちんけなものだったりする。世襲制だったとか。
そういう俺だが、別段魔女伝説の信憑性を否定したいわけじゃない。
世襲制であれ、実在するならばそれだけ長い歴史を辿っていることの証左だろうし、掘り出し物が見つかる可能性が高い。古い魔導書物でも見つかれば最高だ。
だから形式がどうあれ、実在していることが大事なのである。
そう、実在していれば……まだ『価値』はあるんだから。
■
マドゥーラ渓谷の入口は焼け焦げた門が佇んでいるだけの、陳腐な作りだ。
通称『焦げ門』。
地域の人はこの焦げ門を見て、竜がいたのだと確信しているらしい。
こじつけ。飛竜伝説を守るための方便に違いない。
まあ、いい。竜が本当にいるのなら俺が生き証人になってやろう。
麓の村の人には一宿一飯の恩がある。竜の写真でも撮って渡してあげれば大喜びだろうさ。
しばらくなだらかな道が続く。
魔物が生息していると聞いていたが、なんとも静かなもんだ。匂いだって死臭はしない。澄んだ空気が俺の肺を通りすぎていく。
渓谷に入って一時間が過ぎた。
深い森に入り、遠くから滝の激しい音と鳥の鳴き声が響いているが、それだけ。魔物も猛獣もいない。
危険だと聞いて万全の準備をしてきたが、どうやら杞憂だったらしい。
「んだよつまんねえなぁ。酒場の親父も耄碌したかぁ?」
そろそろ谷を抜けようかと考え始めた頃、異変は起こった。
「ん? 草木が腐ってる……?」
森のある部分を境目にして、焦げたような匂いと腐卵臭が漂っている。草木はほぼ朽ちかけ、色が抜けていた。
今の時期、赤い花が咲くと知られるイボジクの樹は生い茂っていた葉っぱの冠を落とし。
ざらざらとした手触りが特徴的な、季節ごとに色を変えるとされるメレナも、その太い枝を垂れさせている。
死んでいたのだ、森が。
ぽっかりとそこだけ穴が空いたように。
「異常気象……? それともなんだ、毒でも撒かれたのか。……調べてみるか。精霊さん、秘密を暴く時間だよ」
俺は手を振って精霊を起動させる。
精霊、それは万人が持つ特殊な能力。
はるか昔に人と契約し使役されたとあるが詳細は不明。
意志疎通はとれず、人を守り支えるだけの不思議な生命体である。
俺の精霊は解析の能力を持つ。
小さな結界を形成し、その結界内部の情報ならば全て読み取れるのだ。まだ練度が少ないからか、解析対象の歴史だとか真実だとかそういう深いことは分からない。
分かり得るのは、対象の状態。
火傷であればどの程度深刻か。
毒であればなんの毒か。
病気であればなんの病気か。
ただしこれは俺の知識に依るところが大きい。
俺が解析されたものを知らなければ情報は開示されず、ただ浅い情報だけが残る。
そしてこの森を解析したところ、毒によるものだということが分かった。だが、なんの毒かは分からない。
知識がないのだ。
こればかりはお手上げである。
そうして調べているうちに辺りが暗くなった。
もう夜か、と一瞬でも考えた自分を殴りたい。
まだ『二時』だ。
夜には早すぎる!
俺は地面に置いた荷物を拾って咄嗟にその場を離れると、先程まで俺が座っていた場所に巨大な脚が舞い降りた。
屈強で、そして鋭利な爪を有している。
肌は森に紛れるかのような濃い緑。
そして脚から上に視線をずらすと、涎を垂らすおおきな顎と翼が見えた。
ああ、俺はこいつを知っている。
ああ、そっくりだ。絵本と。
ただ絵本の方が、もっと可愛げがあった。
翼の先には爪が生えていて、蝙蝠のように腕と翼が同化している。
爬虫類のような瞳をしているそいつは、口元から小さな炎を迸らせたあと、グググっと伸びをして。
直後、咆哮と衝撃波を文字通り吐き出した。
「ガアアアアアアアアアアアアッッッッ」
そいつの名前は。
伝説でしか語られない、そいつの種族は。
「飛竜……」
運が悪かったのか、それとも森の事情に入れ込みすぎたことを咎めているのか。
どれにせよ飛竜はしっかりと俺を狙っていて、なおかつ殺そうって気概がぷんぷん漂っているのはどうやら気のせいじゃないらしい。
だって次の瞬間、奴は地面すら溶かす炎を吐き散らかしたのだから。
命の終えた森の区域が炭となって消えるまで。
境界線なんて無くなるまで。
俺は炎の吐かれる直前、一目散に逃げ出していた。
元来た道から、入口までのルートを構築する。
しかし、背後から迫ってくる熱と暴風が、俺に逃走を許さなかった。
「キィィィィィ──────」
竜が甲高い声で鳴いたかと思うと。
俺の、すぐ横を、大質量の何かが通りすぎた。
衝撃波で俺の体は大きくはね飛ばされ、葉っぱが積もる草むらを転がった。
大質量のなにかとは、竜である。
飛竜が全速力をもって、被害なんて省みず、突進をしたのだ。
木々は今の一撃でほとんどが粉砕され、無惨な姿を晒している。もう少し右方向へ走っていれば、俺もあんな風になっていたのだ。
容易に想像できる結果が、俺の体をぶるりと震わせた。
「お、俺は竜じゃなくて魔女に会いたかったんだっつーの。……へへ、万事休す」
荷物から何か使えそうなものを漁る。
匂袋、肉の詰め合わせ、ナイフ、ろくなものがない。
俺は竜に見つかるわずかな間で、匂袋をナイフで裂いた肉と肉の隙間にねじこみ、遠くへ投げる。
竜種は犬のように鼻が利く、とされる。
実践なんてこれが初めて。通じるかどうかはある意味賭けのようなものだった。
竜の荒い鼻息が近くにきては、遠くに離れて。
また近くなっては、遠くなる。
竜は俺を探しているようだった。
俺は草の蔭に這いつくばり、これでもかと身を伏せて、幸運が下りてくることを願った。
普段神に祈ることはしないが、それでも祈らずにはいられなかった。
自分は不徳者である。
懺悔しよう、懺悔しよう、だからどうか助けておくれ。
自分の心臓がまるで大きな風船にでもなったような気がして、今にも空気がパンパンになった風船は破裂しそうだった。
そうしてしばらく最大の警戒を向けながら竜の動向を探っていると、とうとう竜は強行手段に出た。
俺が用意した匂袋入りの肉を食らい、そして辺り一帯を尻尾でなぎ払ったのだ。
岩石や樹木はどれだけ頑強で大きかろうと、飛竜の尻尾に紙切れが如く削られ、吹き飛ばされる。
当然、人間もだ。
俺は襲いくる暴風に数秒は耐えたものの、戦いに無縁な体ではそれ以上の耐久は不可能だ。
風に当たり、ものの見事に竜の鼻先へ飛び出てしまった。
「へ、へへ。話し合おう、話し合おうや」
死が生きている。
俺の眼前で、憎悪を向けて。
火がちろりと口の端から覗いた。
立ち上がれない。恐怖で足がすくんでやがる。
生暖かい液体の感触を股の間でしっかりと感じて、いよいよ死ぬ瞬間がやってくると確信すると同時に、俺は断末魔の叫びというべきか、獣の咆哮にも似た言葉になっていない悲鳴をあげた。
それが、俺ことドロッポ=コーデュロイ渾身の『生』への渇望であった。
■
轟く雷鳴。
今まさに飛竜の口から熱線のような激しい炎が放たれ、俺を焼いたと思った矢先のことである。
雷が槍の形を伴って、竜の横っ面に刺さっていたのだ。
そして炎は、自分を中心として綺麗な半円を描くように逸らされていた。
炎が当たるたびに揺れる空間、歪んだ透明な膜。
それは結界と呼ばれるものであった。
「なんじゃあ、なんじゃあ、煩いのう。獣の如し叫びが耳朶に響くわい」
竜の尻尾によって半ばから削られた岩の上に、先ほどまではいなかった少女が座っていた。
少女は自分の身長より大きな杖を持っていて────いや、むしろ少女そのものが小さいのだ。
「お主、そこの虫のように這いつくばるお主、名前はなんだ。名乗れ」
「お、俺は……ドロッポ=コーデュロイ」
「クハハハハハ! 変な名前じゃのう」
可笑しそうに大笑いをする少女に不快感を抱いたのか、竜は憎らしげに顔を歪めて、今度は少女に向かって火炎を吐いた。
灼熱が視界を覆い尽くす。
大質量の熱が放射線状に広がった。
濁流が流木を押し流すかのように、少女の姿が炎によってかき消えてしまった。
『竜』という存在の暴力。
少女は流されてしまった。
だが、それすらも霞むようにして、炎の中から一条の雷が再度解き放たれる。
雷の槍は竜の顎を穿った。
炎が晴れ、そこには以前と変わらぬ少女の姿があった。
少女は天に杖を掲げ、美しく冴えた玲瓏たる響きを込めて詠唱を終えた。
「女神サフランの奇跡をここに。最上級魔法『天雷撃』」
天のある一点から閃光が迸り、太い柱のような雷が竜の体を飲み込んだ。
音はない。ただ埋め尽くさんばかりの光と爆風があった。
光が止む頃には黒焦げの大きな塊と、余裕綽々としている少女、そして一部始終を見届けた俺だけが残った。
「おい、人よ。迷い子か? なれば儂についてこい」
「あ、あなたは……」
「おお、そうじゃった。まだ名乗っておらんかったの。儂の名前は……」
少女は一瞬考える素振りを見せるも、
「アイリーン。アイリーン=ドゥンデル。稲妻のごとき魔女じゃ」
魔女、と。少女は言ったのだ。