第一節 シオンという名の少女 少女は森で亡霊に出会う
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薄暗い森の底、まだ10にも満たない幼い少女が一人で座っていた。
ボロボロに汚れたドレスと葉で編んだ布団を被り、焚き火の傍で本を開く。
新しい物語の扉を開くため。あるいは一人寝の寂しさを紛らわすため。
本を開くと周りの森は、壁が剥がれ落ちるように消え去っていく。
そして暑さも寒さも、空腹や傷の痛みさえも感じなくなった。
ここは…… そう、本当の世界とは違う別の空間だ。
そして何も無い深遠の奥から、必ずその魔女は現れるのだ。
「ああシオン! 今夜も会いに来てくれたのね! 嬉しいわぁ♥️」
メリハリの効いた豊満な肉体を、窮屈そうな黒いローブに押し込めた魔女は両手を広げて魔女は少女を出迎えた。
頭には動物の頭蓋骨を被り、肉厚な黒い唇以外は顔もほとんど隠れてしまっている。
そしてその柔らかく妖艶な体を、抱え上げた少女に何度も繰り返し押し付けるのだ。
魔女の大きな胸の谷間は、少女の小さな頭をまるごと包み込んでしまうほどだ。
こんなやり取りが毎夜の歓迎の儀式なのだった。
「ちょ、ちょっとやめてよエドゥバ! くるしいって!」
「さびしかったわぁシオン 貴女に会えない時間がどれほど切ないか……」
魔女は長い手足をくねらせつつ訴える。
「毎日会いにきてるよ! ねぇそれより、かえる師匠のお話に行きたい!」
「うーん、わかったわぁ私のKawaiiシオン! 今、ママが連れて行ってあげるからね」
そう言うと魔女は少女をやっと解放した。いつの間にかその傍らに、少女がやっとくぐれる程度の小さなドアが出来ている。
新たな物語へと至る魔法のドアだ。
シオンは顔を崩して満面に笑みを浮かべ、魔女の腰に両手を回して抱きしめ返す。
魔女はもう一度その小さな体を両手に収めようと手を伸ばすが、それはしなかった。
その代わりに優しく肩に手を乗せて少女を促すのだった。
少女がドアの向こうへ去ると、真っ暗な世界に魔女は一人になった。
あの娘は上手くやれるだろうか……
時間はあまり残っていない
でもきっとあの娘なら
-シオン姫、かえる師匠におばけたいじを教わる-
シオン姫はいつもの通りにかえる師匠の居るどうくつをたずねました。
どうくつはとても広く、大ぐまのバーリーがおおあばれしても十分なほどでした。
かえる師匠にでし入りしたシオン姫は、くる日もくる日もここでかえる師匠にけいこをつけてもらっています。
「うおっほん シオンよ、おぬしはちゃんと毎日、わたしの与えたしゅくだいをやっておるな?」
かえる師匠がたずねます。
「はい!きちんと毎日やっています!」
シオンは元気よくへんじをしました。
「姫はなんてかしこくてえらい子なんだろう!」
大ぐまのきずめのバーリーは大きな声をあげてシオン姫をほめてくれました。
「よろしい、では今日は今までのどのてきよりも、おそろしい者のところへ行くとしよう」
かえる師匠が小さな、水かきヒレ付の足で立ち上がって言いました。
「そんなにおそろしい者がいるの?」
世界で一番強い、かえる師匠がおそろしいという相手です、シオン姫はふるえ上がりました。
「なぁに姫、ぼくには600きろの体重と、大きな肉もきりさけるナイフみたいな爪がある かならず姫を守ってあげるさ」
とくいげに言う大ぐまのきずめ《傷目》のバーリーのところへ、かえる師匠が歩いていってバーリーを三ど、かべに向かって投げつけました。
「こら、お前は600きろの体重があるかもしれないが、こんな小さなかえるにも投げ飛ばされてしまうではないか これからたたかうあいてはお前では役に立たない ここでるすばんをしていなさい」
かえる師匠をおこらせてしまった大ぐまのきずめ《傷目》のバーリーはしゅんとして床のそうじをはじめました。
やさしいシオン姫はバーリーに「だいじょうぶ、帰ってきたらバーリーにもお話を聞かせてあげるからね」と言うと、バーリーはとてもよろこびました。
おさけの入ったつぼを抱えたかえる師匠は、かるい足どりで山道をあるいていきます。
背たけはシオン姫の半分もないのに、シオン姫は追いつけません。
それでもなんとか、山をみっつこえた先まで、かえる師匠についていきました。
なん時間も歩いたので、周りは夜になり、シオン姫はくたくたでしたが、かえる師匠は平気そうでした。
かえる師匠はシオン姫にたいまつを持たせて言いました。
「たんれんが足りないなシオン わしはおぬしにいろいろなしゅぎょうをさずけてきたが どんなに強くても勝てない相手もいるということを教えよう」
「かえる師匠のように強くてもですか?」シオン姫はびっくりしました。この世にかえる師匠にも勝てない相手がいるなんて思いもしなかったのです。
「うむ、そいつはなぐってもけってもかみついてもたおすことはできない おそろしいあいてなのだ」
そう言ってかえる師匠が水かきのついた指で向こうを指さしました。
そこには青白くゆれるきみのわるい影のようなものがうかんでいました。
「キャァー!おばけ!」思わずシオン姫は声をあげました。
「こらこら、てきをおそれるな こわがれば、てきは今よりずっと大きくなる そのほうがてきよりもずっとこわいのだ あい手の事をよく見てよく知る事が大切じゃ」力強い、かえる師匠の言葉に、シオン姫もふるい立ちました。
「さぁかかってこい」
青白のおばけは、おそろしげな声をあげてかえる師匠に飛びかかりました。
シオン姫はその声のあまりのおそろしさに耳をふさいでふるえてしまうのでした。
けれども、おさけのたるを抱えたままのかえる師匠は、ひらりと青白のおばけをかわします。
そのとき、おさけのたるからおさけがこぼれました。
それでも青白のおばけは、またかえる師匠にとびかかります。
それでもかえる師匠はひらりとかわしてします。そのとき、またおさけのたるからおさけがこぼれました。
何度も何度もおばけはかえる師匠に飛びかかりますが、そのたびにかえる師匠はひらりとそれをかわしてしまい、何度も何度もおさけがこぼれるのでした。
シオン姫はそんなようすを見て不安になってたずねました。
「かえる師匠 どうして逃げてばかりなのですか? おばけがこわいのですか?」
「はっはっはっ、わしがこわいのは雷だけさ まあそこで見ていなさい」
そう言ってかえる師匠はシオン姫がもっていたたいまつを取ると、地面に放り投げました。するとどうしたことでしょう!
地面がいきおい良くもえあがり、青白のおばけを火でつつみこんでもやしてしまったのです。
「これは一体、どうしたのですか?」
「強いおさけを地面にこぼしておいたのさ あのおばけは沢山の火がにがてなのじゃ」
こうしてシオン姫はおばけのやっつけ方を学びました。
大ぐまのバーリーも、シオン姫の話を聞いて力だけではダメだという事をなっとくしました。
シオン姫はまた一つかしこいたたかい方を知ったのです。
-かえる師匠のおばけたいじおわり。
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夜の森には夜の顔がある。
自己主張の激しい小さな演奏家達が、競って奏でる音色。
風に揺れる木々のひそひそと囁く様な葉擦れの音。
時折響く、月に咆える動物の鳴き声。
その中に少女は身を潜めていた。
もうすぐ秋の収穫の頃合だ、夜は少し冷える。
少女は手も顔も、小さな擦り傷や土に汚れていたが、薄色の髪の毛だけは丁寧に梳られていた。
それが淡い月明かりに透かされ、琥珀色に輝くのだ。その背中には一冊の本がロープで結ばれ、ぶら下げられている。
本は大きく、分厚い革で整えられた重厚なもので、金属で補強され幾何学的な模様が押されていた。
ふいに虫達の合唱が止んだ。
少女は小さく、水筒のような奇妙な形の笛を鳴らした。
ミィーと奇妙な音がする。コレは少女の手製の鹿笛だ。木と動物の皮から成り、鹿の鳴き声を模した音を立てる。
少女は月明かりの向こうに動く影に注目した。草むらの中に目当ての獲物が居るはずだ、うまくすれば明日は大きな肉にありつける。
クロスボウを構え、音を立てないように慎重に動き出す。しかし影は突如、草木をなぎ倒しながらいずこかへと走り去ってしまった。
少女はその様子に周囲を伺い、クロスボウを外套の中にしまった。
そしてその手に鞘から抜き放たれた剣が握られた。よく手入れされ、磨かれた小剣に、南国の貝殻のように長い睫をした緑色の瞳が写る。
粗野な魅力を秘めた力強い目をしていた。
その少女の名はシオンといった。
シオンは身を小さくかがめたまま素早く走り出し、ある方向へ向かう。
そこだけ月明かりとは別の光源で明るく照らしだされている。焚き火があるのだ。
そして燃える木枝の一本を手にとってかざし、周囲をうかがった。
あちこちから鳴る木々のざわめきに剣の切っ先を向ける。姿はまるで見えないが大きいものだ。左、右、正面と思えばまた後ろ。
一つではないのか、オオカミのように集団で狩りを行う相手かもしれない。だがそれにしては獣の臭いがしない。
敵を恐れるな、恐怖は敵を何倍も大きくしてしまう真の敵である。恐怖をぬぐうにはまず相手を知る事である、とは師の教えだ。
シオンは意を決して、燃える枝を松明かわりに、猫科の獣の様に慎重に、闇に閉ざされた木々の奥へと足を向ける。
しかしやはり魔物の姿は見えない。
何か大きなものが動いているのは確かだが、それにしては動きに重さを感じないのだ。
シオンは思い切って音の方へ向かって松明代わりの燃えさしを投げつけた。
すると火におののくように、するりと青白く輝く人影が木々の合間から現れた。うっすらと、照明を当てられた霧のごとき影はその貌を醜く歪ませた。
かと思うと影は木の枝が出っ張った石や根をものともせずに、森の奥へと移動する。その通過した後に起こる僅かな風が、葉をざわつかせるのだ。
呆然と眺める少女の視線の先で、人影はまさに霧散して消えた。
「フォグレイス……」
そう、少女はつぶやいた。
あくる日、シオンは火の始末をし、キャンプを片付けた。
キャンプといってもテントも無く、小さな鍋一つと焚き火と、座布団代わりの柔らかい苔を敷いただけの簡素なものだ。
少女は厚手の長い外套の下に、動物の皮でこしらえた鎧を着込んでいた。
蝋と共に煮込んだ革は硬く、着心地も通気性も最悪だったが、ちょっとした刃物や流れ矢程度は防いでくれる。
頑丈さのわりに軽く、手入れも簡単で鎧にはうってつけだ。ついでに風も通さない。
焚き火の余熱で暖めた甘根のお茶を飲めば、寝不足の頭もスッキリとするだろう。
荷物をまとめて布に包んで担ぎ上げる。本は大事にロープで縛って肩から吊るした。
そして太く、頑丈な木の枝を杖代わりに、まだ弱弱しい朝日の中を歩き出した。それからすぐに少女は森の終わりを見つけ、かろうじて道と言えるものへと出る。
今回の目的地である「アーレイ村」へといたる道に違いない。
それからさらに数時間ほど歩いて、シオンは四日ぶりに人家を目にしたのだった。
太陽は明るく、空の頂へと昇ろうとしていたが村の様子は暗いものだった。
石垣や柵は崩れて腐るに任せ、痩せた家畜がうつろな目で草を食んでいる。農具も雨に晒されたまま錆び付いていた。
村の中を縦横に通る小道では子供たちが何をするでもなくただ座り、乾いたパンにかじりついている。
普通なら鍛冶場や炊事場から昇る煙はまるで見えない。粉引きの音も、主婦たちの笑い声も、鍛冶屋がハンマーを振る音も聞こえない。
佇む痩せた野良犬までも疲れきっているように見えた。
少女はこんな村を幾つも見てきた。
その度、どうにかしてあげられないかと思い悩む。しかし出るアイディアはどれも到底一人では成し得ないような偉業ばかりであった。
子供が一人で何かを成すには世界は余りにも大きく、そして非情なものだ。それがわかる程度には世間を知っていた。
シオンは村の中心部へ向かった。
そこには一際大きな木製の家屋があり、何人かの女や子供たちが椅子に腰掛けている。
皆やつれた様子だが、見知らぬ少女の姿を見て怪訝そうにひそひそ話しを始める。
そこはどうやら酒場の様だ。より正確には酒場兼、集会場兼、雑貨店といった様子だ。
シオンは好奇の視線を尻目に酒場の中へと入り、主人と思わしき男に声をかけた。
「ねぇおじさん! 仕事の話があるの」