私、綺麗?
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ねえねえ、こーちゃん。「月が綺麗ですね」っていう告白、聞いたことがある?
まあ、有名どころだし、尋ねるまでもないか。これって夏目漱石が英語を教えている時に、「I love you」をこのように訳せ、そうすれば日本人には通じるって話した言い伝えだという。実際の記録には、残っていないらしいんだけどね。
僕は正直、この手の洒落た、というか回りくどい言い方は、あまり好かない。誰にでもわかりやすく、ずばっと言ってしまう方が双方、誤解を生まずに済むと思うんだけど。
――え? 誤解を生まない分、悲劇を生む?
怖いねえ。所詮、素直に伝えられるのは、おそれを知らないがきんちょの間だけ。大人になると、粋や風流を解する余裕がなかったら、自分の身さえも危ないってことか。
でも実際、形式的なセリフにとらわれて、下手に気取ってしまうとまずい事態に出くわすこともあるらしい。その体験談のひとつをお話ししようか。
うちの兄貴が以前、彼女に先の「月が綺麗ですね」告白をしたことがあるんだそうだ。
二人で海の近くにある旅館に、お泊りデートをしに行った時、海沿いの道を彼女と歩きながら口にしたのだとか。
ちょうどその日は満月で、覆い隠す雲もなし。兄貴はひょいと空を見上げて、欠けることない月を一瞥しながら、ぽつりとつぶやいた。
半ば冗談、半ば本気。あわよくば良い返事が欲しいが、断られてもそれで構わない。そんあショックアブソーバーを心に備え付けながら、じっとその答えを待つ。もう視線は月から彼女の横顔へ移っていた。
彼女がくっと空を見上げる。肩にかかるミディアムヘアを揺らしながら、彼女は答える。
「あれでも?」と。
「教養ない系」の女子だったか、といささか落胆する兄貴。もう少し風流な返しはないのかよ、と思いながらも、彼女は兄貴の方を一顧だにせず、月を見上げたまま。
その視線を追うままもう一度、空を仰ぎ見る兄貴だったけど、彼自身も目を見張った。
ほんの数舜前まで、真円をえがいていた月。その中央右手から、じょじょに黒い雲のようなものが円内へ入りこんでくるんだ。
雲はそのまま半ば、そして反対側のふちまで及び、ついには完全に外へ飛び出して、二つの半円へと分けはなってしまう。
「あれを見ても、綺麗だといえるかしら?」
兄貴はぽかんとして、彼女にまともな答えを、とっさに返すことができなかったそうだ。
その時から、彼女との仲は微妙にぎくしゃくし始めた。彼女は兄貴のことを、気取ったセリフを吐きたいだけの、軽い男だと感じたのかもしれない。ちなみに彼女は「月が綺麗ですね」の、意味するところを知っていたそうだ。
――いらない真似で、恥をかかせやがって。
兄貴はそれ以来、憎々しげに月を見上げることが多くなる。
すでに月は右側から欠け始めていたが、あの日の満月の時以上に、黄色く強く光っているように感じられたとか。
それから月の満ち欠けが巡り、再び、満月が近くなってきた時のこと。
兄貴は、自分の眠りが浅くなっているのを自覚し始める。これまでは少なくとも、5時間以上は連続で眠ることができていた。それが、1時間半ほどで一度は目を覚ますようになってしまい、それからはまたうとうとして、1時間半ほどで覚醒……細切れ睡眠をし続ける身体になってしまったんだ。
目が覚めるたび、身体の節々が痛い。以前も寝不足を強いられた時にも痛みに見舞われることがあったが、それはたいてい頭だけだった。なのに今は、わずかに身体をよじっただけでも、できたばかりの青あざ部分を、思い切り強打してしまったような痛みを感じるんだ。
満足に寝がえりを打つこともかなわずに、ただじっと夜が明けるのを待つ。そんな日が三日ほど連続で続いた。
「ねえ、あんたこの頃、ちゃんと眠れてる?」
学校で声を掛けてきたのは、彼女だった。以前に比べれば距離は感じるものの、まったく口を利かないほど険悪ではない。
最初の方は多少のこっぱずかしさを感じた兄。だが、「いつからなのか?」、「大丈夫なのか」とやたら気にする彼女に押されて、正直に口を開いた。
ここ3日、立て続けに睡眠不足だと。
彼女は「ちょうど、あの日から一ヵ月近くよね」と、他にもぶつぶつつぶやいた後、言葉を継ぐ。
「もう一ヵ月、自分の眠りに気を払ってみて。詳しいことはまだ言えないけど、よほどのことがない限り、いつも通りの規則正しい時間でね」
なんだか医者のようなことをいう、と思いつつも兄貴はそれからできるかぎり、普段通りに過ごそうと努めた。
するとどうだ。あの「月が綺麗ですね」事件があった日からちょうど一ヵ月ほど経つと、兄貴の細切れ睡眠は、ウソのようになくなる。また5時間、6時間と連続で眠ることができるようになったんだ。
半月ほど経っても異状は現れず、彼女にもそのことを話したのだけど、「まだ気を抜かないで」とたしなめられてしまう。そして実際、今度は「月が綺麗ですね」事件からの、2ヵ月経過が近づいてくると、また例の細切れ睡眠と身体の痛みが、首をもたげ始めたんだ。
彼女の助言通り、極端に生活リズムを変えたりはしない、節制を意識した30日近く。それがどうしてこの期間だけ、身体がおかしなことになるのか。
下校中、これもまた素直に彼女へ告げたところ、彼女はうなずいて、こう切り出してきた。
「今一度、あの旅館に行きましょう。一ヵ月後の土日、空けておいてね」
そういうや、彼女はケータイ電話を取り出して、すぐさま予約にかかる。とてもデートと呼べる雰囲気になりそうにないのは、兄貴にもうすうす感じられていたらしい。
そして当日。再び熟睡と、睡眠不足の周期を繰り返した兄貴は、旅館に向かう電車の中で彼女から告げられる。「あなたは満月に見初められている」と。
あの月が綺麗ですねの言葉を受けて、月が頬を染めた。人の身で起きるような、赤みが差すのではなく、黄色い身体と対称的な黒い色を帯びさせて。
そして満月が近づくたび、兄貴に会いに来た。いや、それだけでなく、兄貴自体を連れて行こうとしているのかもしれない。何度も目が覚め、身体の節々が痛むのもそのせいだと思う、とも。
突拍子のない話についていけない兄貴。けれど、旅館に着いてから体重を測るように言われて、各々で湯船に浸かった後、風呂場の体重計に乗ってみる。兄貴の体重は、三ヵ月前に比べ、10キロ近く落ちていた。
「あんたの肉と骨が、搾り取られているのよ」
食事に関しても、この二ヵ月の間は量も時間も、彼女の助言通りに規則正しく摂っている。特に激しい運動をしたわけでもないのに、これはさすがに不自然だった。
兄貴は思わず自分の身体を、両手でぽんぽんと叩いて回ってみてしまうが、部屋に戻ると彼女へ報告をする。
「夕飯の後、あの道を歩きましょう。三ヵ月前と同じようにね」
風呂から上がった後ということもあり、二人は若干の厚着をしながら、海沿いの道を歩く。海岸に沿って軽くカーブをするその道は、この時間帯、車通りはほとんどない。
潮騒の音をバックに、遮るもののない満月が海面を煌々と照らし、きらめかせている。
兄貴は先ほどから緊張しっぱなし。というのも旅館にいる時点で、どのような対処をすればいいか、彼女から聞いていたからだ。
「あの時、『月が綺麗ですね』といった現場に来たら。はっきりと言って、月をあきらめさせて。私に向かって、思いっきり。言葉は任せるわ」
――なあにが、「任せるわ」だ。
いささか、強引に引っ張られている気もするが、あの場所は一歩一歩近づいてきている。胸のばくつきを感じながらも、準備を整える兄貴。
見えた。速度制限の交通標識。三ヵ月前はあそこで言葉を告げたんだ。
もう猶予はない。兄貴はその場に着くと、今度は空ではなく、彼女の方を向いた。
「お前が、とっても綺麗だよ」と。
彼女はにこっと笑って、告げる。
「君にいかで 月にあらそふ ほどばかり めぐり逢ひつつ 影を並べん」
それを聞いて、兄貴は「やりやがった」と、別の意味で緊張が走る。
彼女が答えに使ったのは、僧侶西行の歌。
「毎晩、空に出る月と競うくらい、一緒にいたい」ということ。もしも、彼女がこれまで話したことが本当だったなら、自分を見初めたという月に、真正面から喧嘩を売ったことになるんだ。
ザブンと、ひときわ大きく波が打ち寄せる音。兄貴たちは思わず海の方を見やって、息を飲んだ。
月明かりが照らし出した砂浜。その上を、兄貴そっくりの誰かが歩いている。
明かりの下だというのに、肌の色、服の色さえ影のように黒いそれは、足音をまったく立てずに光の中を足踏みし続けている。
その足が、ふわりとおもむろに浮き上がり始めた。影は変わらず動かない足踏みを続けながら、吸い込まれるまま。光を放っている月めがけて、どんどん小さくなっていってしまったんだ。
「あれが、あなたから搾り取った、あなた自身の塊よ。放っておいたら、あそこにいるのがあなたになっていた」
ぎゅっと彼女が兄貴の腕に抱きついてくる。あたかもその重さ、そのぬくもりを確かめるように。
二人は今でも交際を続けているらしいけど、まだ学生ということもあって、結婚はまだしていない。
願わくは、また月に取られかけたりしないよう、がっちりくっついてもらいたいものだけどね。