13.もう、いいんじゃない?
「今日は楽しかったよ、ハルさん、ありがとな」
「こちらこそ。ヨースケ、大丈夫か? 飲み過ぎてない? 久美さんも大丈夫かな?」
「私は大丈夫です。……洋輔は、結構酔っ払ってるみたいね。楽しかったから。でも大丈夫、そこでタクシー拾うんで」
「ハルさん、またいっしょに飲もうよ、千里もいっしょにさ」
「はいはい、わかったから。久美さん困らせないの」
よほど楽しかったらしく、ご機嫌にテンションの高い太田洋輔は、何度も振り返って「ハルさーん、またー」とか「ちさとも、またなー」とか、ぶんぶん手を振って呼ばわり、松浦久美に支えられて一本向こうの大通りのほうへ去って行った。
二人を見送り、やれやれ、と晴彦は伸びをする。
「ヨースケ氏、ご機嫌さんでよかったな。とりあえずは、うまくいったんじゃない?」
チリちゃん?と振り返ると、千里は「え。ああ、うん」と気が抜けたように頷く。
「ありがとう、ハル」
「……大丈夫? チリちゃんも結構飲んでたな。飲み過ぎてないか?」
「うん。大丈夫」
ふい、と目をそらして、帰ろうよ、と呟くように言った。
地下鉄で帰る、という千里につきあって、晴彦もいっしょに最寄り駅まで歩く。
並んで歩く千里の歩みは覚束ない。彼は歩調を遅らせて彼女に合わせる。
終電の一本か二本前、くらいの時間。人通りは少なく、街灯が弱くてほの暗い夜道。
「……もう、いいんじゃないの?」
ふいに、晴彦が立ち止まって振り返った。
千里は怪訝に応える。
「……何が?」
「泣いても、いいんじゃない? ずっと我慢してるだろ」
ふふっ、と千里は小さく笑った。
「ベタだなあ。泣かないよ」
強がっている、というよりは、力の抜けた口調。いつもの柔らかな深い声は、息が漏れるように掠れてしまう。
「…………久美さん、素敵な人だった」
「さっきね。お店のレストルームで久美さんと話したの。鏡の前で、二人でメイク直ししながら、久美さん、楽しそうに、“千里さんに会えて嬉しい”って言うの。以前から、“洋輔さんに話を聞いていて、ずっと会いたかった”って。“話で聞くよりずっと素敵な人で、ハルさんも楽しい人だね、これからもよろしくね”って」
「本当に楽しそうに、嬉しそうに。すごくかわいい人」
「わたし、ずっと、久美さんの嫌なとこ探してた。見た目とか服装とか髪型とか、自分と比べて勝ってるか負けてるか。食事の仕方とか、お酒の選び方。なにかひとつでもヘンなとこがあればいいのに、って。小姑みたいにチェックして、めちゃめちゃ嫌な女になってた」
「久美さんが、嫌な女だったらよかったのに」
晴彦は、ちょっと躊躇ってから、腕を伸ばした。彼女の肩に触れて、そっと抱き寄せる。
「な、に?」
「泣いてんじゃん」
喋りながら、彼女はぽろぽろ涙をこぼしていた。本人も気づいていないかのように、拭いもせずそのまま、溢れるがままに。
道の端、街路樹の陰に引き寄せて、腕の中に抱きしめる。
小柄な体が腕の中で震える。遠慮がちに、ジャケットの裾を掴んできて、晴彦はなんだか堪らなくなる。
「チリちゃん」
呻くように呟いた。
「よくがんばったね。つらかったろ」
掠れるような嗚咽がもれて、華奢な腕がしがみついてくる。
晴彦は彼女に胸を貸す。そっと、頭を撫でて、背中を宥めて。
今だけは、彼女の“彼氏”のままでいたかった。
たとえそれが、偽物だとしても。今は。




