10.ひどいや
晴彦の妹・弥生の修業先は、妹の名と同じ、“弥生寿司”という。
カウンターの端の席は晴彦の定席で、その隣で話の相手をするのは八重樫 望。
「……で、明日がその、婚約祝いの食事会なんだ?」
「うん……」
いつも軽妙に賑やかしい男が、ノンアルコールビール+麦茶という奇っ怪なブレンドを傾けつつ、心ここにあらず、といった風情。
「また妙なことに巻き込まれちまッて」
呆れる弥生に、
「でも、ハルらしいと言えば、らしいかな」
八重樫は苦笑交じりに、感心したように言った。
「アドリブもきくし、彼氏役としてはベストな人選じゃないか? その女性、ハルのことよく見てるんだな」
晴彦は、彼氏役を頼まれた、という話はしたけれど、千里と幼なじみの事情までは言わない。ましてや、千里に対する自分の心情も打ち明けるには至らない。
彼はぶっちゃけるタイプに見えて、意外と肝腎なことは口が堅い。
それと心得ている弥生も八重樫も深く尋ねはしないけれど、どうやら晴彦が何事か思い憂えているらしいことは察した。
八重樫のセリフも聞いているのかいないのか、うわの空だ。
弥生と八重樫は顔を見合わせて肩をすくめる。
「八重樫さん、お待たせしました、持ち帰り鮨4人前ね」
「ありがとう。自家製のガリもつけてもらえましたか?」
「もちろん。別添えでたっぷりめにご用意しましたよ。マリエさんお好きですもんね」
「珠美さんも気に入ってるみたいで。念を入れて頼まれましたよ」
八重樫はこれからマリエ宅を訪ねる予定で、土産の鮨を調達しに寄ったのだった。珠美はマリエと同行して先に行っているらしい。
マリエや珠美の名を聞いても、晴彦はなんの反応もない。いつもなら「ふたりによろしく。マリエさんの夫さんも、お大事に」と挨拶を寄こしてくるのに。
これは相当重傷だ。
とは言え、何ができるわけでもなく、惚けっぷりに苦笑するくらいで。
「ハルのことだから、うまいことやるだろ。明日、がんばって」
八重樫は大事そうに折り詰めを携え、店を去って行った。
晴彦はノンアルビール麦茶(麦茶を足すと麦の香りが増してよりそれっぽくなる、とか戯言を吹いてる)を飲みながら、ぼんやりと感慨に耽る。
思い出されるのは、千里の声。表情。仕草。
初めて会ったときの、鮮烈な横顔。真っ直ぐな視線。不機嫌そうに眉を寄せる表情。
警戒を解いてからの、柔らかく深い声。すぐには馴れない。畏まった距離感から、ときおり閃くように表れる笑顔。不意打ちの茶目っ気。
そして何より、“彼”のことを話すときの、いきいきとした饒舌。
くるくると表情が変わり、話すほどに“彼”に関することを思いついて、嬉しそうに笑いながら。
はしゃいしまう自分にハッとして、饒舌を抑えようとして、でも、結局こらえきれずに話してしまう。
洋輔とか言うらしい、“彼”はよく気づかずにいられるものだ。あんなにまっすぐに気持ちを向けられているのに。
「言わないの?」
と聞いてみたら、千里は
「だからそんなんじゃないし!」
と繰り返してごまかし続け、けれど、結局ごまかしきれずに、途方に暮れた子どもみたいな顔をした。
「言わない。絶対」
言ったって、誰も幸せにならない。
「彼女のことを話す洋輔を見たら、何も言えなくなる。あんな笑顔初めて見た。あんなに優しい声で話すの、信じられない。バカみたい。洋輔なのに。いつもふざけてばっかりなのに」
「……それでいいの? 後悔しない?」
「後悔なんてとっくにしたよ。死ぬほどした」
「…………」
「どうして、ちゃんと伝えなかったんだろう、って。あのとき言ってれば、って。でも、だとしても、どうにもならなかった。きっとそう。わかる。わかっちゃうの」
「それでも、言うべきだ、って思う? 私は思わない」
「今まで通り、幼なじみでいられなくなるかもしれないから? 確かにそれも怖いよ。でも、それよりも。洋輔の幸せが曇る。それが嫌。絶対嫌」
「私の気持ちなんてどうだっていいの。私にはちゃんと彼氏がいて、洋輔のことなんかなんとも思ってないし、ただの幼なじみだし。って、洋輔はそう思ってればいい」
「ふたりにはちゃんと笑って“結婚おめでとう、幸せにね”って、言いたいの。言うの」
「だから、お願い、ハル。協力して」
「………………勝手だよなあ」
完全に巻き込まれている。利用されてる。
なのに、怒りや苛立ちは感じない。
ただ、放っておけない。
あのときの彼女はすごく綺麗で。
「ひどいや」
あんなに綺麗だなんて。
ひどい人だ。
八重樫望と珠美さん、マリエさんは「Ginger」「Vanilla」の登場人物。
晴彦の妹、弥生は「Vanilla」と短編「Wasabi」に出てきます。




