~現代 土河勇⑤~
「ついに脚本が出来上がったのか?俺にも見せてくれよ。」
島田は机の上に置かれた原稿を我先にと身を乗り出して、手に取る。
「うん、昨日やっとね。まずここにいる皆に出来あがったことを伝えたくて持って来たんだよ。」
原稿用紙をクリップで止めただけで、まだちゃんとした冊子になっていないが、誰に見せても恥ずかしくない脚本を書き上げたという自信はあった。
「書き始めたのは確か3月からだから、この2、3ヶ月でよく書き終わったよね。」
束になった原稿用紙と僕の顔を交互に見ながら、萌は感慨深げに言う。
「俺の力だけじゃないよ。佐山の協力もあったしね。歴史に関して色々相談に乗ってもらったからさ。」
佐山は用事があったらしく、今日の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り出すと同時に帰ってしまって、今ここにはいない。無口で無愛想なところと猫背気味な姿勢は相変わらずだが、気が付けばそんな佐山も演劇部の一員として僕達と共に行動することが多くなっていた。
「それにおばあさんとあの本の協力もあったからこそ、だよね?」
それはもちろんだ。この脚本のモチーフは紛れもなくあの老婆が貸してくれたあの本なのだから。
「おばあさん?誰のこと?」
先程から黙々と原稿を読んでいた島田が僕の顔を見て聞く。そういえば島田にはあの老婆のことを話していなかったと思い、公園での老婆との出会いと本を貸してもらった経緯を簡単に説明した。
「ふーん、なるほどね、そんなおばあさんがいたんだ。そのおかげで出来上がったんだもんな。そのおばあさんには感謝しなくちゃな。」
「うん、それと9月の劇にも来てもらう予定なんだ。少しでも恩返し出来ればいいと思ってるよ。」
「そうだな。あと3ヶ月で本番だからな。良いものを作ろうぜ。」
島田はそう言って、勢い良く立ち上がる。転校生である島田が去年の9月頃に演劇部に入ってから、部全体に活気が出てきている。島田がムードメーカー的役割を担ってくれていることに、部長である僕は何度も助けられているなと改めて感じた。
始めから終わりまで全て1人で何かをやり遂げて得られる達成感は自己満足でしかないのかもしれない。何事に於いても、複数の人間が一丸となって何かをやり遂げ、またそれを複数の人間によって評価された時に初めて本当の達成感が感じられると僕は思っている。
つまり、僕にとってそれは劇を意味している。
「うん、作ろう。皆で。」
僕の言葉に島田は深く頷いた。
「明日か明後日にはこの原稿を冊子にして部員全員に配るのか?」
僕と萌、島田の3人より少し外れた席に座っていた唐津が訊いてきた。劇用の舞台セットや衣装などは、この唐津を中心に4人の人間が1つのチームとなって作ってくれている。
僕はそのチームを唐津班と呼んでいる。
「そうだな。明後日までには全員に冊子を配って、それから本格的に稽古も始めようと思ってるよ。」
「分かった。俺達美術班は通し稽古までには、全て用意しておけばいいんだな。」
唐津は常に携帯している大きめの手帳にペンを走らせる。夢中で何かを書いている唐津の横顔を見て、9月の劇に向けていよいよ動き出したと実感した。
「それじゃあ、なんかひと雨来そうだし今日はこの辺でお開きとしようか。皆、色々と頼むよ。」
窓の外を見ると、薄暗い空に雨を降らせそうな黒い雲が点在している。僕の緊張感が伝わったのか、他の3人は僕を真っ直ぐ見つめてほぼ同時に頷いた。
「僕は少し学校に残って準備する。」
そう言って立ち上がった唐津につられるように島田も席を立った。
「手伝うよ、唐津。俺はどうせ家に帰ってもすることないし。」
「そっか、分かった。じゃあ僕と萌は先に帰らせてもらうよ。原稿を早く編集しなくちゃいけないしな。」
「そうだね、じゃあまた明日ね。島田君、唐津君。」
僕も原稿をバッグに入れて、立ち上がった。一瞬佐山の顔がよぎった。出来れば今日のうちに原稿を読んでほしかったのだが、それは冊子になってからでもいいと判断して、とりあえず萌を家まで送ることにした。
「じゃあ俺達は先に帰ろうか、萌。」
夏の大会が近いのだろう、普段よりも掛け声が飛び交っている運動部を横切る。本番を控えているのは、僕達だけではないのだ。
「うちの部もやっと動き出した感じだね。」
萌はそんな運動部を眺めながら言う。
「ああ、これが俺達3年生の最後の劇でもあるからな。いつも以上に脚本を書き上げるのは大変だったけど、かなり良いものが出来たと思う。あとは皆がそれに魂を吹き込むことで、俺なんかが想像も出来ないような劇にしてくれるはず。」
「足を引っ張らないように、私も一生懸命頑張るから。」
梅雨の時期ということで雨雲がまばらにある夕方の空はきれいとは言い難かったが、それなりにオレンジ色の光が地面に差し込んでいて、周りを歩く人もどことなく幸せそうに見える。この雰囲気の中で彼氏として相応しい言葉があってもいいし、言われて萌も悪い気がしない状況だった。
「あのさ・・・。」
呼ばれた萌が僕を見た。
「なに?」
「・・・いや、やっぱり明後日までにはこの原稿を冊子にして皆に配りたいんだ。人数分のコピー頼めるか?」
そう言って僕は原稿を萌に差し出す。
「別にいいけど・・・なんで改まって言うの?そんなのいつものことじゃない。」
萌はクスクスと笑いながら、受け取った原稿をバッグに入れた。
「そうだよな。じゃあいつも通り頼むよ。」
昔のように恋人として純粋に気持ちや言葉を通わすことが出来ない自分にもどかしさを感じた。
「じゃあね、勇。また明日。」
「ああ。・・・ごめんな。」
付き合い始めた頃と変わらぬ笑顔と仕草で別れを告げる萌には、聞こえないような声で僕は呟いた。一軒家の2階の角にある萌の部屋の電気が付くまで、しばらく僕は萌の家の前に立っていた。
そんな僕を促すように先程よりも倍以上の大きさになっている雲が雨を降らせ始めた。
近道をするために3月にあの老婆と出会った公園に入る。
夜ということで辺りは薄暗く、公園内に人気はほとんどない。遠くの方でジョギングをしている男性がいる程度だった。ここの公園はこの地域でも割と規模が大きい所で出入り口が3つある。しばらく歩くと左手に細い砂利道が見えてくるので、僕はいつものように左に曲がった。
いつもと違ったのは曲がった後すぐに見えるはずのコンビニを遮っている人間が真正面に立っていたことだった。
僕の真正面に立つその人間は全身を黒一色に統一していて、顔はフードに隠れていて見えないが体格的に男であること、この男が異様な雰囲気を放っていることは分かった。少し身構えながら一歩ずつ近づいていっても、男が僕に話しかけてくる素振りはない。
「すみません。」
小声で断りを入れて、そのまま男を横切ろうと早足ですれ違ったその瞬間だった。
ドン。
後頭部から今までに感じたことのない鋭い痛みが一瞬にして僕の全身を駆け巡った。
雨にぬかるんだ砂利道に前のめりで倒れる。倒れたことが認識出来た後にかろうじて自分にまだ意識が残っていることに気付いた。
一体何が起こったのか?どうしてこんな状況に陥った?そんな疑問が痛み以上に身体中をのた打ち回る。
断続的に光る赤いランプ、ひたすら繰り返されるアラーム音、勢い良く水が飛び出す天井のスプリンクラー、逃げろ逃げろと避難を繰り返し促すアナウンス。そして、その状況の中で1人倒れている僕。そんなイメージが僕の頭をよぎって勝手に回り出す。これが走馬灯というやつなのか?
ふと先に目をやると、この非常の事態から助かったことへの喜びをお互いに分かち合ってくれるはずのたくさんの人達がいる。あそこを必死に目指そうと僕はスプリンクラーでびしょ濡れなった身体に鞭を打つように全身を動かそうとした。
しばらくそのままでいると、傍で雨音とは別の物音が聞こえてきた。
おそらくフードの男が僕のバッグの中を漁っているのだろうと直感的に思った。そして、徐々に足音が遠ざかっていく。また周囲に夜本来の静寂が訪れて、フードの男の気配がなくなっていた。
危機的状況を何とか回避できた安心感と遅れてやってきた痛みが僕を闇へと誘っていく。それからどのくらい経っただろうか、しばらくして僕の視界は夜よりも暗く深い暗闇に包まれていた。
そんな数日前に自分の身に降り掛かった事件を僕は回想していた。
誰にやられた?と。
「勇!」
先程別れを告げて病室を出て行ったはずの萌が息を切らしながら、ベッドに横になっている僕のもとに戻ってきた。萌は今までに見たことがない表情をしている。
「どうした?忘れ物でもしたか?」
僕はそんな萌を見て、あえて穏やかな口調で話しかけた。何を言われるかが何となく予想できたから。
「やめた方がいいよ、劇。」
「急に何だよ?」
萌は乱れた息を整えるために唾を飲む。
「さっき加藤君から全部聞いたよ。なんで私には言ってくれないのよ?」
呼吸と同じくらい口調も荒くなっていた。だが、それは当り前のことだった、言わない僕が全部いけないのだから。
「ごめんな。」
萌に言わなかったのは心配させたくなかったから、加藤に言ったのは萌以外で信頼できる人間は加藤しかいなかったから。
演劇部の人間には言えないことだったから。
「やるよ、劇。絶対にやる。」
僕は萌の目をしっかり捉えて、そう言った。