~現代 金村萌~
「3階の21号室にいらっしゃいます。あちらの通路を真っ直ぐ行って頂くと左手にエレベーターがございますので、ご利用ください。」
受付の20代半ばの若いナースが丁寧に行き先を教えてくれた。地元では一番大きい病院だけあって、院内は清潔感がありナースの対応もしっかりしている。私は先程のナースが教えてくれた道を少し早足で辿っていく。エレベーターで3階に着くと、地図が設置されていたのでそれを頼りに321号室へと向かった。私が見舞いで病院に来るのは、去年肺炎で入院した祖父以来であった。321号室に着くと、数人の名前の中に「土河勇」と書かれた札があったので、私は一呼吸置いて扉を開けた。部屋にはベッドが4つあり、そのうちの3つには人がいない。
「萌、こっちこっち。」
右奥のベッドから声がしたので、そちらに目を向けると勇が手を振っている。頭に巻かれている痛々しい包帯とは不釣り合いに表情はリラックスしているように思える。その姿が逆に私をさらに安心させた。
「ごめんな。わざわざ放課後に来てもらって。」
私はベッドのそばに置いてあるパイプ椅子に座った。
「当り前でしょ?彼女なんだから。」
私はそっと包帯に触れた。
「大丈夫?やっぱりまだ痛む?」
「最初はな、麻酔が切れた後は特に。今は時々痛む程度だから、そんなに心配するな。」
勇がこの病院に運び込まれたのは、今からちょうど一週間前の夜だった。今は6月半ばの
梅雨の時期でその時もかなり強い雨が降っていた。偶然公園をジョギングをしていた男性が頭から血を流して倒れている勇を見つけて、病院まで運んでくれたという。その次の日に勇のお母さんから連絡を貰って私が病院に駆け付けた時には、手術後の麻酔が効いていたらしく勇は眠っていた。
「あとどのくらい入院する予定なの?」
入院してから今日で7日目だった。
「先生の話だとあと2,3日で退院できるってさ。」
「そうなんだ。良かったね。」
それを聞いて一安心した反面、1週間前に起こった事の経緯をほとんど話さない勇が少し気がかりだった。担当の医者によると、棒状の鈍器のようなもので後頭部を殴られたとのことだった。勇は付き合った時からあまり自分自身のことを話さない。今回の場合も私に無駄な心配をさせたくないという気持ちがあるのだろうか。そうだとしても今回に限ってはいつにも増して何も話そうとしない。
「演劇部の皆はどんな感じかな?昨日皆に出来あがった脚本を渡したか?」
俯いていた私の顔を覗き込む。
「うん、ちゃんと皆に渡した。本格的に稽古をしてるところだよ。」
つい最近、老婆から借りたあの本をもとに勇は劇の脚本を書き上げたのだ。脚本が出来上がった事を他の部員よりも先に聞かされた島田君や数人の部員達は自分のことのように喜んでいた。もちろん、脚本が完成までに至った要因として、佐山君の協力があったのも大きかっただろう。
「そっか、それは良かった。俺も早く退院して皆に合流しなきゃな。」
勇はそう言って、病院の窓から外の景色を眺めている。だが、おそらく勇が眩しそうに目を細めて見ているのは、久しぶりに面会に来た孫とベンチに腰掛けて絵本を読んでいるおばあさんでも、喫煙所で煙草を吸っている入院着を着たおじいさんでもないだろう。こんな状態になっても演劇のことを一番に考えている勇に少し呆れつつも今まで以上に力になってあげたいと痛々しい包帯と横顔を眺めながら私は改めて思った。
「じゃあ私、そろそろ家に帰るね。今日は珍しくお父さんが早く帰って来るから、晩御飯作らなくちゃ。」
下に置いてあったバッグを取って立ち上がった。
「そっか、今日は来てくれてありがとう。あと送れなくてごめんな。」
「ううん、そんなこと気にしなくていいよ。でも元気そうで本当に安心した。」
家族との面会を終えたのだろうか、入院着を着た50歳くらいの男性が右手に果物の盛り合わせを持って部屋に入ってきた。表情もどことなく緩んで見える。
「じゃあ行くね。明日も来れたら来るから。」
「うん、分かった。島田や佐山にもよろしく言っておいてくれ。」
私は頷き、最後に軽く手を振って病院を出た。1週間前のことを言ってくれないことも聞けなかったこともしこりとして残ったままだったが、元気な姿を見られたのでとりあえずはそれで納得することにした。
暗くなる前に帰ろうと小走りでエレベーターに向かうと、母親と息子らしき親子が立っていた。さっき帰り際に病院に入ってきた男性の家族だろうか、まだ小さい男の子は笑顔ではしゃいでいるのだが、母親は曖昧な表情でその息子を見つめていた。それもそのはずだ、誰だって見舞いに来る回数は少ないに越したことはない。
病院を出て空を仰ぐとまだ明るかったが、薄い雲が空全体を覆っていた。小走りで病院の自転車が止めてある駐輪場に向かう途中で、胸ポケットに入れてあった携帯電話から着信音が鳴った。着信画面には加藤歩と表示されていた。吹奏楽部の加藤からだった。クラスや部は違えど部長という立場では同じということで、勇と加藤は普段から非常に仲が良かった。
「もしもし、萌ちゃん?」
電話に出ると吹奏楽部の部長だけあって、加藤の聞き取りやすいよく透った声が私の耳に入ってきた。
「そうだよ。どうしたの?」
加藤が私に電話してくるのは珍しかった。
「いや、今日土河の見舞いに行くって言ってたから、あいつの様子はどうかなって思ってさ。」
「どうって・・・加藤君、昨日見舞いに行ったばっかりじゃない?元気だったよ。あと2,3日で退院できるって。」
「そうか・・・それは良かった。」
普段の加藤にしては、やけに歯切れが悪い。電話の用件は別にあると悟った。
「どうしたの?何かあったの?」
少しの沈黙が私達の間に入ってきた。連れてきたのは加藤だ、私は彼が口を開くまで待ってみた。
「・・・あのさ、1週間前のこと萌ちゃんはどう思う?」
1週間前の事とはもちろん、勇が襲われたあの事件のことだ。もしかしたら勇は昨日見舞いに来た加藤にその件について話しているかもしれないと私は直感的に思った。
「加藤君はどう思ってるの?」
「俺は文化祭の劇はやらない方がいいと思ってる。なんか何かしら起こりそうな・・・危険な感じがするんだよな。」
危険というたった2文字が私の背筋に寒気を走らせた。
「なんで危険だと思うの?」
受話器に口を寄せたのだろうか、加藤の声が先程よりも鮮明に聞こえてきた。
「土河を襲った犯人の目的だよ。」
「犯人は単に無差別に人を襲う人間だったってことじゃないの?」
「土河のバッグに漁られた形跡があったんだよ。それにもかかわらず、そのバッグに入っていた財布は残されたままだったんだよね。つまり、犯人の狙いは始めから土河の別の何かだったってことさ。それに無差別に人を襲うことだけが目的の愉快犯なら、襲った人間の持ち物に関心なんて示さないだろうしね。」
仮に私が犯人の立場だったとして、襲った後に最優先に考えることはバッグかポケットに入っている可能性がある財布や金品だ。それに目もくれず別の何かを探すという選択肢は普通に考えれば有り得ないはずだ。だとしたら犯人が財布よりも優先したものは一体何だ?
「昨日土河言ってたけど、バッグには財布と勉強道具以外は特に何も入れてなかったみたいだよ。」
私は自転車の荷台に入れていたバッグを取り出し、再び肩に掛けた。
「そんな犯人も犯人の目的も分からない状態で、1つの空間に不特定多数の人間が集まる劇に土河が出るのは危険だと思わない?だからさ、彼女として萌ちゃんからも何か言ってあげてよ、土河にさ。」
もちろん、そのつもりだった。
私は先程通った道を先程の倍以上の速さで戻った。