~現代 土河勇④~
「これがそのおばあさんに借りた本なの?」
ここまで年季の入った本を見たことがなかったのか、萌は物珍しそうにその本を眺めている。
「そう。大切な本だから、あんまり乱雑に扱うなよ。」
僕はすぐに釘を刺した。
「うん。もう全部読んだの?」
「いや、昨日借りたばっかりだから、まだしっかりとは読んでない。」
現代語で翻訳されているとはいえ、この手の歴史書を読むには多少の根気が必要だと思い、昨夜は頓挫してしまったのだ。
「どんなことが書かれてるんだろうね?私、こういう本は今までほとんど読むことがなかったからさ。」
萌や僕に関わらず、おそらく現代に生きる人間のほとんどは、こういった書物に縁がないだろう。だが、誰も知らないからこそ、観客は固定観念や先入観に捉われることなく、純粋に僕達の劇を観ることが出来る。僕が歴史ものに拘る理由はそこにある。
「昨日ざっとは通して読んでみたけど、戦国時代に起きた1つの事件について書かれているみたいだな。」
「戦国時代か・・・勇が日本史の授業で答えられなかった本能寺の変が起きたあたりだね。」
萌は茶化すような口調で僕に言った。付き合って間もない頃の僕だったら、これも愛嬌ということで片付けていただろう。ふと佐山の顔を見ると、口が微かに緩んでいることに気付いた。
「あの時は聞いてなかっただけだよ、というよりその話はもういいだろ?佐山も笑うなって。」
佐山は相変わらず猫背気味で両目は前髪で隠れていて見えない。僕はなんで佐山を連れてきた?という目で、萌を見た。
「帰りにたまたま会って、勇の家に今から行くのって言ったら、じゃあ僕も行くって。ね、佐山君。」
そう言われた佐山の頭がゆっくりと上下した。佐山が大聖高校に転校してきて半年が経つのだが、その間に僕は佐山と友達らしいことをした記憶が1つもなかった。いや、それどころか原稿用紙1枚に収まってしまう程度の語句しか交わしていないのではないだろうか。偶然萌に誘われたとはいえ、僕と薄い関係性しか築けていないのにもかかわらず、佐山がなぜ僕の部屋にいるのかが不思議でしょうがなかった。
「土河君はずっと劇の脚本を書いているんだね。」
僕の視線に気付いていたのか、佐山はゆっくりとした口調で話しかけてきた。
「うん、まあね。一応中学生の時から見様見真似で書いてるけど。」
「そうなんだ?実は僕も少し書くことに興味があってね。ここに引っ越して来てからは、図書館で色々なジャンルの本をよく読んでるよ。もちろん歴史書もね。」
「佐山君、こっちに来てまだ半年しか経ってないもんね。」
「うん、転校したてで他にやることもまだ見つからないしね。それに家に帰っても誰もいないから。」
「親が仕事でいないんだ?じゃあ私の家と一緒だね。」
萌は共感するように深く頷く。萌の両親も共働きをしていて、一人っ子の萌は小さい頃から自宅の鍵をいつも携帯している。
「うん。まあそんな感じかな。」
佐山はそう言って、目の前に置いてある老婆の本を手に取る。
「そういえば、勇が中学生の時は歴史ものじゃなくてミステリーを書いてたんだよね。コンクールでも賞を獲ってたもんね。」
「そうなんだ?それはすごいね。」
「コンクールといっても、そんな大げさなものじゃなくて学内だけどな。あとは小さい出版社の賞を貰ったくらいだよ。」
「いや、それだけでもすごいことだよ。」
「しばらく職員室の前の掲示板に賞状が飾ってあったの覚えてるもん、私。」
萌は嬉しそうに何度も頷いた。佐山は途中から本に集中し始めたのか、僕達と話をしがてら、ぼそぼそと呟きながらページをめくっている。
「今回はおばあさんに借りたこの本をもとに劇の脚本を書くつもりなの?」
「うん、そうしたいと思ってるけどな。去年やった三国志みたいに皆が知っているような出来事や事件は今回は避けたいしね。」
それに老婆に会った時に感じた不思議な縁もその理由の一つだった。
「ふーん、でもこの本って誰が書いたのかな?。」
「1ページ目の右隅に小さく高山利彦って書いてあるけどな。この本の筆者かどうかは分からないし、題名もない。」
「せっかく書いたのに・・・何でこんなに分かりづらくしたんだろうね。」
確かにそれは僕も思ったことだった。
「相当古い書物だからね。題名も筆者も分からない本はいくらでもあるよ。もしくは・・・。」
佐山は読んでいた本を置き、僕と萌を見た。
「もしくは、この筆者が意図的に伏せたのかもしれない。」
「へえ、そんなこともあるんだ。勉強になったね、勇。」
「うん・・・そうだな。」
普段学校ではほぼ無口に近い佐山が、やけに饒舌だったのが意外だった。
「佐山君ってかなり歴史に詳しいよね。斎藤先生に指されても、いつもすんなりと答えてるし。」
「人並み程度だけど歴史書は読むよ。元々嫌いではない分野だから。」
確かに以前やった期末テストでも、日本史が苦手な僕の倍近くの点数を取っていた記憶がある。
「あのさ、実はちょっと土河君に相談があるんだけどさ。」
佐山が僕を、というよりも人を名指しで呼ぶのが珍しかった。
「どんな相談?」
「僕を演劇部に入れてくれないかな?歴史には少し詳しいし、この本をもとに劇を作るっていう土河君のアイディアは面白いと思う。」
あまりにも意外な言葉が佐山の口から飛び出したことに僕だけではなく隣にいた萌も驚いたのだろう、僕達は思わず目を合わせた。
「仕事は荷物係でも何でもいいからさ。実はそれを言いたくて、今日ここに来たんだ。」
萌が佐山の突然の告白に戸惑っている僕の顔を覗き込む。
「いいんじゃないの?佐山君が歴史が好きだってことは本当なんだしさ。勇の力になってくれると思うよ。」
人の気も知らないでと舌打ちの1つでもしたいところだが、あの内向的な佐山がもともと猫背気味の腰をさらに曲げて、僕に頼みこんでいるのを見たらそんな気はどこかへ失せてしまった。確かに歴史に詳しいのは事実だし、何より僕の考えに共感してくれている点は十分買える。だが、僕はこれでも演劇部の部長を務めている人間だ。佐山を入部させるには1つ問題があった。
「演劇部に荷物係なんていう夢のない役職はないよ。うちの部員は全員役者として必ず舞台に立ってもらう。これは分かってもらいたい。」
佐山は曖昧な表情で頷く。
「・・・分かったよ、土河君。君がいかに真剣に演劇のことを考えているのかが分かって嬉しいよ。それだけで今日は来た意味があったよ。」
佐山は少しだけ表情を緩めて、何度も頷いた。
「今日はとりあえず帰るよ。僕もしっかり考えてみる。」
そう言って立ちあがった佐山と座ったまま動かない僕を、萌は不安げな表情で交互に見ている。
「じゃあまた明日ね。今日はこんな遅くまで土河君の家にお邪魔しちゃって申し訳なかったね。」
僕の隣にいた萌にも軽く会釈して、佐山はドアの音を一切立てることなく僕の部屋を出て行った。
「わざわざここまで来て入部したいって言ってくれたんだから、入れてあげればいいじゃないの。」
不機嫌そうな萌は、僕にそう訴えた。
「さっき佐山が言ってただろう?俺も真剣にやってるんだよ。」
窓の外を見ると、月に雲が薄くかかっていて霞んでいる。その姿が先程の佐山の表情とどことなく似ているように見えた。
「萌、お前もそろそろ帰った方がいいよ。送ってくから。」
僕はその月と脳裏に浮かぶ佐山の顔から目を逸らすように、立ち上がった。
翌日、僕は佐山と一緒に斎藤先生がいる職員室に行き、佐山の入部届けを提出した。
「演劇部に決めたか、佐山。文化祭、頑張れよ。」
斎藤先生はすんなりと佐山の入部を許可した。
「頑張ります。ありがとうございます。」
僕の隣には長かった髪を短く切り、背筋をしっかり伸ばした姿勢で立つ佐山がいた。