~現代 土河勇③~
「今年の文化祭の準備はどんな感じなの?演劇部は?」
隣の席に座っている加藤安雄が、話しかけてきた。
「うーん、うちは6割くらいは終わったかな。まだ4月だしね、入念にやるつもりだよ。吹奏楽部はどうなのさ?」
「俺達も大体準備できてるよ。あとは細かい打ち合わせがあるくらいだね。」
手持無沙汰なのだろうか、加藤はシャーペンを手で器用に回している。
「それよりこれ早く終わらないかな。戻って練習したいってのに。」
加藤が言ったこれとは、文化祭実行委員会を指している。
毎週水曜日の放課後に行われるこの委員会は、各部の部長が集められて、文化祭当日の流れや各部活の進行状況などを話し合っている。
「去年、演劇部は三国志をやってたよね。今年は何やるんだっけ?」
加藤のペンがさらに早く回る。余程退屈なのだろうか。
「また歴史ものをやるつもりだよ。でもマイナーな話だから、ほとんどの人は知らないと思うよ。僕も最初は全く知らなかったしね。」
「ふーん。脚本も全部土河が書いたの?」
「まあね。でも協力してくれた人もいてね、その人のおかげで書けたと言ってもいいよ。その人には本当に感謝している。」
そりゃ良かったと加藤は退屈しのぎで始めたペン回しにさえ飽きてしまったのか、気だるそうに頬杖をついて頷いた。
僕は、脚本や物語を考える時に決まって近所の小さな公園に行く。その公園は、住宅街や商店街から外れた所にあり、何かと騒がしい都内にあるとは思えない程に静かで穏やかな場所だ。今から一か月前のまだ寒さが残る3月のある日、僕は劇の脚本を考えるためにいつものようにあの公園に向かった。その公園には4つのベンチが横並びで配置されていて、僕は奥から2番目のベンチを勝手に自分の特等席としていた。
平日の夕方ということもあり、散歩をしている老夫婦やきれいな夕焼けをデッサンしている美大生らしき女の子がいる程度で、公園は閑散としていた。
いつものようにベンチに向かうと、僕の特等席に80歳くらいの老婆が座っていた。この時間帯に人が座っているのも珍しいなと思いつつも、特にその席に固執しているわけではなかったので、僕は老婆を横切り隣のベンチに座った。老婆は老眼鏡を浅めにかけ、かなり年季の入った黒い表紙の本を読んでいた。
僕はしばらく夕日を眺めた後に、バッグからネタ帳とペンを取り出した。去年の三国志に続いて、今年も歴史ものをやろうと決心したのはいいが、具体的に何をやるかまでは決まっておらず、文化祭までまだ半年あるものの正直なところ僕はかなり焦っていた。
とりあえず思い浮かんだものを書いていこうと、しばらくネタ帳にペンを走らせていると目の前に人が立っていることに気付いた。目線を上に移すと、僕の特等席に座っていた先程の老婆だった。後ろにある夕日が後光となって、老婆が菩薩観音のような表情をしているように見えた。
「隣に座ってもいいかしら?」
「あ、はい。いいですよ。」
僕は隣に置いてあった荷物をどけて、老婆を何の疑問もなく迎え入れた。老婆の優しげで物腰の柔らかさが僕をそうさせたのだろう。突然でごめんなさいねと言って、老婆はゆっくりとした動作で僕の隣に座った。
「あなたが知りあいの男の子に似てたものだから、つい話しかけたくなってね。」
話し方も柔らかい。
「それにあなたが真剣に何かを書きながら、織田信長やら明智光秀やらを口にしているのが、あまりにも可笑しくて。」
「あ・・・すみません。本を読んでいらっしゃったのに。僕のせいで邪魔してしまいましたよね?」
老婆は首を横に振り、僕に微笑みかける。
「僕、集中すると無意識にブツブツと呟く癖があるみたいで。」
「ううん、大丈夫よ。何を書いていたの?」
老婆は先程まで読んでいた本を自分の膝の上に乗せた。やはり相当年季の入った本だと間近で見て、改めて思った。
「はい。僕、実は高校で演劇部に入っていまして。それで、9月の文化祭でやる歴史ものの劇の脚本を書いていました。」
「それで織田信長ね。」
「はい。でも今は完全に手詰まりの状態ですけど・・・恥ずかしながら。」
惨めさを感じて、僕は自分の頭を掻いた。
「あれだけ没頭できるあなたならきっと上手くいくわよ。ところであなたはどこの高校に通っているのかしら?」
「大聖[タイセイ]高校です。この公園からだと自転車で10分くらいですね。」
老婆の皺だらけの細い目が一瞬だけ見開いた気がした。もしかしたら身内でも通っているのかなと思ったが、僕はわざわざ聞くことはしなかった。
そうだわと老婆は突然両手を叩いた。
「どうしました?」
「あなた、さっき劇の脚本が手詰まりって言ってたじゃない?この本が何かの参考にならないかしら。」
老婆はそう言って、先程まで読んでいた古く黒い表紙の本を僕に差し出す。
「いや、それは申し訳ないですよ。」
「いいから、いいから。まさに織田信長や明智光秀が生きていた時代に書かれた本よ。」
半信半疑で2、3ページ読んでみると、その本は確かに老婆の言う通り古い文章で書かれていた。その古い文章のすぐ横には読者が分かりやすく読めるように現代語で翻訳されている。
「どう?参考になりそうかしら?」
老婆はゆっくりとした動作で僕の顔を覗き込む。
「うん、確かに・・・時代的にも僕のやりたい劇と一致しますね。」
「あら、そう?それなら良かったわ。」
「ではこの本、しばらくの間お借りしてもいいですか?」
何かの縁を感じた僕は、とりあえずこの本を借りることに決めた。
「もちろんよ。」
老婆は両手を軽く叩いて、嬉しそうに笑った。
「それではお言葉に甘えて。あの、いつまでにお返しすればいいですか?」
「いつでもいいわよ。その劇はいつやるの?」
「9月です、9月の24日。大聖高校でやる予定です。」
大聖高校には体育館が2つあって、1つは集会や部活で使っているメインの体育館で、もう1つの古くて小さい体育館は僕達演劇部が使っている。もちろん劇も毎年そこでやっている。
「その劇、私も観に行っていいかしら?」
「ええ、それはもちろん。」
僕は深く頷いた。
「じゃあその時に返してくれればいいわよ。」
「でも劇をやるのは半年も先ですけど、大丈夫ですか?」
老婆は笑顔のまま黙って頷く。僕はありがとうございますと言い、借りた本を慎重にバッグに入れた。
「それじゃあ私はそろそろ家に帰ろうかね。わざわざ遠くから孫が1人で遊びに来てるのよ、だから早く帰ってご飯を作らなくちゃいけないの。」
「そうですね。」
もうそんな時間かと思い、空を見ると日本での仕事を終えたかのように1日中僕達を照らし続けていた太陽がいつの間にか沈みかけていた。
「今日は付き合わせてしまって悪かったわね。」
「いや、こちらこそ大切な本を貸して頂き、ありがとうございます。必ず参考にさせてもらいますので、是非、僕達の劇観に来て下さい。」
「ええ、楽しみに待ってるわ。」
「それでは、また9月に。」
老婆は僕に笑顔で軽く頭を下げると、持っていた木製の杖をつき、孫が待つ家へと帰っていった。そんな老婆の背中を僕は見えなくなるまで見送った。
そういえば、おばあさんの名前を聞くのを忘れたなと思いつつも、今年の劇の第1号の観客であるあの老婆のためにも頑張らなくてはと、僕は改めて気を引き締めた。