~現代 土河勇①~
1582年、世は戦乱の時代。天下統一が目前だった織田信長は、本能寺で家臣である明智光秀の謀反によって殺されてしまう。
この事変が起きたことにより、時代はまた大きく変動していく。
その翌年の1583年、この変動の渦に時代や人々が否応なしに吸いこまれていくのを余所に、海沿いに位置する小さな国である1つの事件が起きる。
土埼城の変。
それは、現代の一般的な教科書では数行でしか書かれていない小さな事件。
しかし、これから先もきっと僕の人生の中心に在り続けていく事件。
僕にとっては一生忘れることなど出来ない大きな大きな事件。
10月のある日曜日、高校が休みなので僕は自転車に乗って図書館に向かった。小さな図書館なので置いてある本こそ少ないのだが、たまに他では置いていないようなマイナーな書物があり、僕もテスト勉強のために普段からこの図書館にはお世話になっていた。
自転車を止めて、図書館に入ると休日ということもあり親子連れが多い。絵本を真剣に読んでいる親子や3、4人で輪になってカードゲームをしている子供たちが座っている長椅子を横切って、返却コーナーに向かう。そして、持っていたバッグから一冊の本を取り出して、50歳くらいの司書の女性にその本を手渡した。
「返却ですね。あら、随分若い子が返しに来たわね。」
女性は、本と僕の顔を交互に見ながら言う。
「え?」
「あ、いきなりごめんなさいね。この本を借りる人ってすごく珍しかったからね、借りた人のことを覚えていたのよ。確かおばあさんだったわよね?」
女性は首を少し傾けて、僕に聞いてきた。
「そうです。今忙しいみたいで、僕が代わりに返しに来たんですよ。」
「やっぱり。この本ね、見て分かる通り相当古いじゃない?だから今月中に廃本にする予定だったのよ。借りる人もおばあさん以外にいなかったし。」
女性は神妙な顔をして、持っていた本を数ページめくる。
「ああ、そうだったんですか。」
「そうなのよ。だからね、おばあさんが返しに来た時にせっかくだからこの本をあげようと思ってたのよ。何回もこの本だけを借りてくれてたからね。ここまで返しに来るのが大変だったのか、たまに延滞したりもしてたけど、私はいつも目をつぶってあげてたわ。今回みたいにね。」
女性は口に手を当ててクスリと笑う。
「ああ、そうだったんですか。その本を貰えると聞いたら、おばあちゃんもきっと喜んだと思いますよ。」
本を手にして喜んでいる姿が容易に浮かんで、僕は少しはにかんだ。
「そうでしょう?それなら、あなたからおばあさんにこの本を渡してもらえないかしら?」
本の表紙に付いた汚れを手で丁寧に払って差し出された黒い表紙の本は、四隅が白く剥げていて、所々に擦ったような傷が何か所もあった。
「ありがとうございます。でも、この本ばかり読み続けていたから、さすがに飽きてしまったみたいで・・・おばあちゃんも借りるのはこれで最後にしようってちょうど言ってたところなので、もう大丈夫だと思います。」
「あら、そうなの?せっかくだからおばあさんにもらってほしかったんだけど・・・なんか残念ね。」
女性は小さくため息をついて、差し出した本を手前に引っ込めた。
「すみません。それと近々遠くに引っ越す予定で、ここにもあんまり来れなくなるって嘆いていましたよ。好きでしたからね、この図書館もその本も。」
「そうだったの・・・分かったわ。おばあさんがこっちに帰ってきた時にはこの図書館にも顔を出してくださいって伝えてちょうだいね。」
女性は納得したように何度も頷いて、本を返却ボックスに置いた。
「必ず伝えておきます。そういう僕もここにはよく来るので。」
「うん、お願いね。」
「はい。あ、すみません。歴史の書物が置いてあるフロアってどこですか?ちょっと僕も探している本がありまして。」
「えっとね、そこの通路を真っ直ぐ行って突き当たったところよ。」
女性はカウンターから身を乗り出して、道のりを指で示してくれた。
「ありがとうございます。それじゃあ、ちょっと見てきます。」
「うん、ごゆっくり。」
僕は女性に軽く頭を下げた。そして、床に置いてあったバッグを肩にかけて、一番奥のフロアへと向かった。着くとそこには様々な歴史の書物が、ここの図書館にしては割と多めに置いてあった。僕はその中でも戦国時代の歴史書が並んでいるコーナーに用事があった。
目的の書物を探そうと、順々に背表紙を指でなぞっていく。すると、ある筆者の書物が目に止まったので、驚いた僕はすぐにそれを手に取った。そして、その本を開き数ページ読んだだけで、これが目的の書
物だとすぐに分かった。
「そうか、こういうことだったんだ・・・あの野郎、こんな回りくどいやり方にしやがって・・・。」
あいつに対して小さく悪態をつくと、しばらくその場に立ち尽くして本を眺めていた。しばらく考えた後に、僕は結局その本を最初にあった場所に戻した。
まだ自分には読む覚悟がないと判断したからだ。
お前が落ち着いてこれを読むにはまだ時間がかかるんじゃないか?と、あいつも言っている気がした。
「また来るから。」
気持ちを見透かされたような気がした僕は、あいつに一言そう返答するしかなかった。近いうちに必ずな、と。
戻るとカウンターにはまだ先程の女性がいて、返却された本を整理していた。
「あら、何も借りないの?もしかして見つからなかったのかしら?」
女性は手を止めて、手ぶらで戻ってきた僕に話しかけてきた。
「いや、あったんですけど・・・また改めて借りようかなと思いまして。今日はとりあえず帰ります。」
「あら、そう。じゃあ、またいらっしゃいね。」
「はい。それでは、また。」
僕はそう言うと、胸ポケットから自転車の鍵を取り出す。今日のところはもう帰って、また出直すとしようと思った時だった。
「ねえ。」
出口の方へ向かおうとしていた時に女性が呼びかけてきた。右手には先程僕が返した本を持っている。
「やっぱり、あなたがこの本をもらっていかない?若いあなたが読んでもきっと面白いと思うのよね。」
僕はゆっくりと女性を振り返った。そして、女性に向かってもう一度深く頭を下げた。
「すみません。僕、それを読むといつも悲しくなるんです。気が付いたら涙が勝手に出てきてしまう厄介な本なんです。」
僕は今から少し前に起きてしまった「ある出来事」を思い出していた。