~現代 ある老婆と少年~
「今日もまたおばあさんの家に行くの?」
母親は食器洗いで濡れた手をエプロンで拭きながら、玄関で靴を履いていた僕に話しかけてきた。母親は昼ご飯で余ったおかずが入ったタッパを持っている。
「うん、今から行くつもり。」
「だったら、このタッパを持っていきなさい。」
僕は上着を羽織り、タッパを受け取る。
「お昼ご飯の残りだけど、手ぶらよりはいいでしょう?」
「うん、ありがとう。それじゃあ行ってきます。」
家を出た僕は老婆の家に向かうために、お気に入りのマウンテンバイクに乗る。
1年前の中学2年生の誕生日の時に父親が買ってくれたものだ。老婆の家はこのマウンテンバイクを飛ばしても大体10分はかかる。早く行かなきゃと僕はギアを最大にして、重くなったペダルを思いきり踏み込んだ。
老婆と出会ったのは、今から半年前のことだった。僕は中学校でサッカー部に所属していて、3年生ということで部長を務めている。その時もいつものように部活を終えた僕はバッグの中にジャージやスパイクを入れて、マウンテンバイクに乗った。
学校を出るとすっかり日が沈んでいて、辺り一面に夜の闇が広がっていた。急いで帰らないと母親が心配すると思った僕は、普段はあまり使わない近道で帰ろうと自転車のライトを点けた。
その近道はいつもの道と違い、舗装も満足にされていない砂利道で街灯も極端に少ないので出来れば使いたくない道なのだが、部活の終わりが遅かったあの夜だけは仕方がなかった。
砂利道をしばらく走っているとT字路が見えてくるので、僕はそれを左に曲がった。道沿いには年季の入った民家が点在しているだけで人通りや街灯はさらに少なくなって、まるで真っ暗なトンネルをくぐっているかのように少し不気味で暗い。
僕に娘がいたとしたら、この道からは絶対に通わせないだろう。自転車に乗っている男の僕でも少し怖いのだから。
ドン。
そんなこと思っていたら、大きな爆発音とともに点在していた民家の1つから突然まばゆい閃光が放たれた。
「うわっ。」
ハイビームにした車のライト以上の光がいきなり視界に入ってしまった僕はペダルから足を踏み外し、先程の光を放った民家の前で派手に転倒した。
そのはずみでカゴの中に入っていたバッグが飛び出して、その民家の引き戸に当たってしまった。これはまずいと思った僕は慌てて立ち上がりバッグを拾う。
中から人が出てくる気配がなかったので、気づかれる前に早めに立ち去ろうとしたその時だった。
「あら、大丈夫?」
振り返ると、家の前には80歳くらいの優しげな表情をした老婆が立っていた。観念した僕はマウンテンバイクから降りて、老婆に向かって深々と頭を下げた。
「すみません。あなたの家の前で転んでしまいまして・・・。」
老婆は首を左右にゆっくり振ると、心配そうな表情で僕の両膝を見た。
「いいのよ、そんなこと。それよりもあなた、膝から血が出ているわよ。」
老婆にそう言われて自分の膝を見ると、確かに擦り傷が出来ていてそこから血が出ていた。夜風に少し染みたが、普段からサッカーの試合でこれ以上の傷を作っているので別に大したことはなかった。
「このぐらい大丈夫ですよ。」
「駄目よ。絆創膏を貼ってあげるから中に入りなさい。」
そう言って老婆は僕の返答を待たずに家の中へ戻ってしまった。せっかくの好意を無下に断るのも悪いと思った僕は、とりあえずマウンテンバイクを老婆の家の脇に止めて後に続いた。
家に入ると古い豆電球が1つ玄関の上にぶら下がっているだけで中は薄暗かった。壁の所々にも小さなひびが入っていて、お世辞にも新しいとは言い難い内装をしていた。
「こちらにいらっしゃい。」
老婆は笑顔で手招きをしている。
「はい、お邪魔します。」
僕は靴を脱いで、家に上がる。一歩ずつ歩く度に床がギシギシと音を立てた。老婆に招かれて居間に入ると、この部屋も豆電球が点いているだけで全体的に薄暗いこと以外は、何の変哲もない普通の部屋だった。では、先程この家から放たれた閃光と大きな爆発音は何だったのだろうか?絆創膏を僕の膝に貼ろうとしているこの老婆が何事もなかったかのように振舞っていることが不思議でならなかった。
「これで大丈夫ね。もう痛くないかい?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございました。それより、あの・・・。」
「ん?何だい?」
老婆の全てを包みこんでくれそうな穏やかな表情を見たら、僕は喉まで出かかっていたさっきの疑問を咄嗟に飲みこんでしまった。それに今の2人の間に変な空気が入り込むのを僕は何となく嫌った。
「いや、あの・・・おばあさんはここに1人で住んでいるんですか?」
「ええ、そうよ。」
僕は何気なく部屋を見渡す。薄暗い室内からは生活感があまり感じられなかった。
「1人で大変じゃないですか?」
老婆は口に手を当てて小さく笑う。
「ふふ、心配してくれているのね?」
「あ、すいません。余計なお世話ですよね。」
「ううん、ありがとう。確かに大変だけど、天気の良い日は公園のベンチに座って本を読んだり、そこにいた高校生の男の子とお話したりね。そうそう、この前もその子に私のお気に入りの本を貸してあげてね。」
「高校生ですか?」
「そうなのよ。部活で演劇部に入っているらしくてね、それで参考にって本をね。」
老婆が目を輝かせて話すので、そんな老婆を見ている僕もつい嬉しくなってしまう。
「参考にしてくれるといいですね。」
「そうね。だから、1人でも結構楽しいこともあるのよ。それに・・・。」
「それに?」
老婆の表情が一瞬曇った気がした。
「私の人生はあるところで一回終わってしまったから・・・愛する人や物をその時に全て失ったわ。だからいつお迎えが来ても未練はないの。」
老婆はそう言って僕に笑いかける。僕はそれ以上の事を聞かなかった。悟りきったようなその物悲しい笑顔は、言葉以上の何かを僕に伝えている気がしたからだ。それが何かは具体的には分からないが、人といることがこんなにも居心地が良いものだと思ったことは一度もなかった。
「あの、おばあさん。」
「何だい?」
「迷惑じゃなかったら、これからもおばあさんの家に遊びに来てもいいですか?」
僕は初対面のこの老婆が純粋に好きなんだなと思った。そうでなければ、こんなことを簡単には言えない。
「あら、本当に?もちろんいいわよ、いつでもいらっしゃい。」
老婆はすぐに了承してくれた。
「ありがとうございます。じゃあまた今度遊びに来ます。」
「ええ、待ってるわ。」
「それでは僕、そろそろ帰ります。母親が夕飯作って待っているので。」
「そう、分かったわ。突然孫が出来たみたいで嬉しいわ。またね、坊や。」
老婆と初めて出会ったあの夜から学校が休みの日や部活帰りに僕は月に4回ほど老婆の家に行っていた。特に何をするわけではないのだが、僕の部活や学校の話を隣に座って嬉しそうな顔で聞いてくれた。それだけでも僕は十分に楽しかった、老婆といる空間が僕は好きだったのかもしれない。
そして、あの日も母親から渡されたタッパをマウンテンバイクのかごに入れて、いつものように老婆の家へと向かったのだった。
老婆の家に着くと、いつものようにマウンテンバイクを脇に止める。
「あら、いらっしゃい。」
物音を聞きつけて、老婆はすでに玄関まで僕を出迎えてくれた。
「また来ちゃった。これ差し入れの肉じゃがときんぴらごぼう。早めに食べてよね。」
僕はタッパを手渡す。
「いつもありがとね。さ、中にお入り。」
「お邪魔します。」
いつものように居間にある青い座布団に座って、老婆が出す緑茶と茶菓子を食べて今日までにあったことを話す。この何気ない時間が心地良いのだ。
「サッカーの大会はどうだったんだい?」
老婆は台所の電気を消して、僕の隣に座った。
「うん・・・2回戦で負けちゃったよ。良い試合したんだけどね。」
「そうかい・・・。」
「しかもライバル校だったからさ。だから、余計に悔しいよ。」
そのライバル校は同じ地域にある中学校で実力も戦績も五分五分だったのだが、昨日の試合に限っては勝利の女神はあちらに微笑んでしまったということだ。
「本当に悔しいよ。」
僕は自分の太ももを拳で強く叩く。この足がもっと動けていれば状況は変わっていたのかもしれない。
「ふふ、やっぱり似てるわね。」
そう思っていたら、不意に老婆が微笑む。
「似てる?誰に?」
「昔ね、あなたのように本当の孫ではないのだけれど、孫のように可愛がっていた子が2人いたのよ。その1人の男の子にあなたはそっくりなの。」
「へぇ、どんな子だったの?」
僕は体勢を老婆の方に向き直す。
「責任感が強くて、優しい子だったわ。そして、時に無邪気で負けず嫌い。勝負事に関しては特にね。」
その男の子のことだけではなく僕までも見透かされているようで、何となく照れくさかった。
「でも、その子との別れはあの時突然来てしまったわ・・・。あっちは私のことなんてとっくに忘れてしまったでしょうね。」
昔を振り返っている老婆の表情は、どこか寂しかった。僕はそれから先の話を聞くことはしなかった。それは僕なりの配慮でもあったが、何より老婆の寂しげな表情をこれ以上見たくなかったのだ。
そこから話は流れてしばらく僕の家族の話をしていたら、外の光だけでは部屋の明るさを保てないくらいに時間が経っていることに気づいた。
「もうだいぶ暗くなってきたね。」
外を見ている僕につられて老婆も薄暗い空を見た。
「あら、もうそんな時間かい?」
「それじゃあ、今日もそろそろ帰ろうかな。完全に暗くなる前に帰らなくちゃ。」
「そうね。お母さんも心配するわ。」
今日は学校も部活も休みで昼頃に老婆の家に来たというのに、先程まで真上にいたはずの太陽はすでに沈みかけていた。老婆といるこのゆっくりとした空間を楽しんでいるからか、いつもあっという間に時間は流れてしまう。
「また来るね、おばあちゃん。」
「はいよ。」
老婆は笑顔で何度か頷く。僕は立ち上がって背筋を伸ばした。長時間同じ体勢で座っていたので足も少し痺れていた。
「あと体調には本当に気をつけてよ。最近は特にー。」
畳に置いていたバッグを取ろうとしたその時だった。
地鳴りのような音とともに身体が左右に揺れた気がした。最初は痺れた足のせいかと思ったが、それとは明らかに違うとすぐに分かった。
地鳴りの音も小刻みな揺れも明らかに大きくなっているのだ。だが、何となく地震とは違う感覚だった。
「おばあちゃん!大丈夫?」
僕は近くにあった食器棚に掴まって何とか体勢を立て直すと、地鳴りに負けないような大きな声で老婆に呼びかけた。だが、老婆は何事もないような表情をして座ったままだった。それどころか僕への返答もなく、居間にある古い暖炉を一点に見つめている。確かあの暖炉は壊れて以来一度も使っていないと言っていたはずだ。
「早く安全な所に逃げなきゃ!」
「まさかまた来るとはね。」
老婆は独り言のように呟く。
「え?」
また?以前にもこれと同じことがあったということなのか?
「また来たって?昔にもこれが来たの?」
僕は揺れに抵抗しながらも、何とか老婆の隣に座った。
「坊やの言う昔というのはあの2人の男の子がいた頃のことを言っているの?」
「そうだよ。違うの?」
老婆の表情からはいつもの暖かみや柔らかさが消え、徐々に大きくなっている揺れに動じる気配も全く感じられない。
「ええ、違うわ。来たのはつい最近よ。」
「最近?」
僕の脳裏に忘れかけていたあの日のあの出来事が一瞬にして浮かび上がった、初めて老婆の家で見たあの夜のあの閃光が。やっぱり、あれは全てこの家で起こったことだったんだとこの時確信した。
「そもそも昔に起こるわけがないのよ。」
老婆は隣にいる僕にも聞こえないような声でまた独り言のように呟く。状況が状況なだけに老婆の言葉が次第に不気味に聞こえてくる。いつものあの優しく微笑む老婆はここにないなかった。
「・・・だって、あの2人がいたのは500年以上も前のことなのよ。」
「え?」
その瞬間、ドンという爆発音とともに古い暖炉から無数の光が放たれ、僕の視界を一瞬にして真っ白にした。あの夜とまるで同じ光だった。
「うっ。」
一度にあり得ない程の光を浴びてしまった僕は、両手で顔を覆い、前のめりに倒れる。ちゃぶ台に置かれた湯飲みやお菓子が床に散らばり、食器棚や冷蔵庫などが音を立てて揺れる。竜巻が居間の中心で発生しているかのように、家中に突風が吹き荒れる。僕は頭を庇うように腕で覆うと、この状況が落ち着くまでその場から一切動かなかった。
それからどのくらいの時間が経っただろうか、風と揺れがおさまったと思った僕は恐る恐る顔を上げた。
一体何が起こっているのか?老婆は無事なのだろうか?
先程の光のせいで両目と同様に頭も機能していない僕には、すぐにその質問に答える余裕などなかった。それでも今の状況を少しでも把握したいと思い、固く閉ざしていた目を無理にこじ開けた。何より、老婆のことが気になった。
視界はまだ滲んでいてはっきりとは見えなかったが、家中にあった物という物が散乱していた。次に、暖炉に視線を移した。先程光が放たれたその古い暖炉からは大量の煙が上がっていた。
やはり、原因はどうやらあの暖炉にあるらしかった。だが、その原因に疑問を持った僕は、煙の中をさらに目を凝らして見てみた。すると、暖炉の前に黒い塊がうつ伏せになって横たわっているのが分かった。その大きさや形から、それが人間だと分かるのにそう時間はかからなかった。その人間は横たわったままほとんど動かないが、死んでいるというよりも気を失っているように見えた。
だが、なんでここに人がいるのだ?どこから現れたのだ?まさかサンタクロースの如く煙突から入ってきたというのか?だが、サンタクロースはあのような光や音とともに盛大に現れたりはしないだろう。
そのようなことを考えていると、不意に隣から声がした。
「気がついたかい?坊や。」
声がした方に目をやると、老婆が立っていた。
「見たんだね、坊や。」
そう訊かれた僕は黙ったまま一度だけ頷く。それ以外の行為は許されない雰囲気が老婆から発せられている気がしたからだ。その証拠に、普段からあれだけ笑顔でいる老婆が事が起こってからは一度も笑っていない。
「そうかい。しかし、前よりも酷い有り様だね。」
そう言って、物がそこら中に散らばっている居間を見渡す。
「さて、どうしたものかね。」
老婆は1つため息をついて、突如として暖炉から現れたあの迷惑な客人の元へと歩み寄り、その近辺に腰を下ろした。立ち込める煙と未だにちゃんと戻らない視力のせいではっきりとは分からないが、老婆は気を失っている客人の身体や身に付けている物を詮索しているように見える。
なぜ、老婆がこんな状況にもかかわらず、あんなにも落ち着いているのかが不思議でしょうがなかった。
一通り詮索し終えたのだろうか、老婆は立ち上がると1つ2つ言葉を呟いて再びこちらに戻ってきた。
生きているね。今度はお前さんか。
僕には老婆がそう言っているように聞こえた。
「坊や。」
戻ってきた老婆は、まるで子供をあやすような声で僕に話しかけてきた。その声は、僕の母親がおもちゃを欲しがってその場に座り込んでしまった幼い頃の僕を諭した時の声と似ていた。
今日は買ってあげられないの、また今度来た時ね、と。
「坊や、今日は家に帰りなさい。」
言われた僕はすぐに頷いた。あの頃と違って、今の僕は成長し、物事の判断も少なからず出来る。
「そして、今日あったことは全て忘れなさい。誰にも言わないと約束できるわよね?」
また頷く。
この状況を考えても僕はそうせざるを得ないし、これ以上老婆を困らせたくはなかった。
そして、何より怖かった。
「良い子ね。それと当分の間はおばあちゃんと会えなくなるかもしれないけど、それも坊やなら我慢できるわよね?」
僕は親や先生から15歳という年齢の割にしっかりとした子だと言われる。
部活ではサッカー部の部長をやり、クラスでは学級委員会に所属している。親に迷惑をかけた記憶もここ最近はない。それもあってか、責任感と聞き分けの良さに関しては自負しているところがある。
けれど―。
「・・・もう会えないかもしれないってこと?」
「坊や・・・。」
ふと俯く僕の頭に老婆の温かい手の感触を感じた。そして、僕の髪をクシャクシャにして微笑む。
「それは絶対にないから安心しなさい。またすぐにでも会えるわよ。」
あの日僕はどのようにして家に帰ったのかをほとんど覚えていない。
もちろん、マウンテンバイクで帰ったのだが、気がつくと僕は自分の家のベッドで横になっていた。おそらく現実ではあり得ないような出来事を一度に経験した反動で、疲れが一気に出てしまったのだろう。その後、僕は高熱を出して、3日間学校も部活も休んで眠り続けた。
だが、今でもあの日の全てが嘘だったと僕は全く思わなかった。
僕の頭の上に乗っていた老婆の温かい手の感触と、僕の目を真っ直ぐ見つめて、また絶対に会えると言った老婆の言葉は本物だったから。それだけは嘘ではないと疑いなく信じられるから。
しかし、あの日から10年以上、僕は一度も老婆に会っていない。