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戦国ブロードウェイ  作者: ヴィエリ
1/14

~過去~

―あの図書館に行けば、また俺と再会できるさ。すぐにな―



「坊ちゃん、お見合いの話は進んでいるのですか?」


僕が生まれる前から高山家に長年仕えているお梅が、廊下拭き用の雑巾を持って尋ねてきた。もう今年で63歳になる老婆だが、それを感じさせない働きで40年間この家の家事や雑用を毎日こなしているので、商売気質で頑固な僕の父親もお梅には頭が上がらない。


「またその話ですか?可もなく不可もなくという感じですよ。」


僕はそう言って、頭を掻く。僕の家は小さいながらも酒屋を営んでいる。その繋がりで今回のお見合いの話が浮上したのだが、僕は正直気が進まないでいた。

一方、相手方は呉服屋を営んでいて、つまりは同じ商人である。違うとすれば、店の規模と利益がうちの酒屋よりも遥かに上をいっているところだろう。もうすでに相手方の娘と何度か食事を共にしたのだが、地元でも評判の娘だけあってまだ若く器量も気立ても申し分なかった。それにもかかわらず、30歳になっても家業を継ぐ気もなく人様には言えない職業をしている僕に、その娘はどういうわけか好意的らしいのだ。


「またそんな言い方をして・・・。こんな良い縁談はそうはないですよ。」


そんなことは言われなくても分かっていた。僕の気が進まない理由は、身分の差や相手方の娘がこんな僕には勿体ないくらい評判の女子であるという理由だけではない。


「私はまだこの仕事を続けたいんですよ。」

「本当にそれだけ?」

「それだけですよ。では、僕はもう行きますよ。」


僕はお梅に渡された上着を羽織り、靴を履く。


「また今日も夜遅くまで、お出掛けになるのですか?今夜は相手方の娘さんが食事にいらっしゃる日ですから、早めに切り上げてくださいね。」


お梅は呆れた表情で、埃まみれの雑巾を水桶の中に入れる。


「ええ、それはもちろん。」

「あまり無理しないでください。最近の坊ちゃんは働き過ぎですよ。」


お梅は深く刻まれた皺をさらに寄せる。時には危険を伴う仕事を請け負うこともあるので、その度にお梅はこのような表情をして忠告する。


「それは仕方のないことですよ。今回の仕事は今までとは比べ物にならないくらいに大事な依頼ですから。」


僕の名前は高山利彦。


「それでは、行ってきます。」


探偵をしている。


 「本日から、こちらで給仕として働かせていただくことになりました小林太一と申します。」


お梅に見送られて家を出た僕は、土埼[トキ]城にいた。そして、城門の前に立っている門番の1人に話しかけ、ついでに雇用内容が書かれている契約書も渡す。


「ふむ、確かに間違いないな。それでは書面通り今日から早速働いてもらうぞ。」


もう1人の門番も来て、僕の顔と契約書を交互に見た後に頷く。


「一応城に入るにあたって身なりの確認を行う。」

「はい、もちろんです。」

「ではその場で立ったまま、両手を上げろ。」

「はい、お願いします。」


門番2人の確認が終わると、すぐに城門が開いた。

これで僕は片岡家の人間になったということだ。もちろん、僕の本当の名前は高山利彦であり、小林太一という名前と契約書は僕が偽造した物でこの世には存在しない架空の人物である。


「入れ。あとのことはあそこにいる今川という爺さんが、お前に色々と教えてくれるはずだ。今いる給仕の中でも一番の古株で、今日からお前の上司になる人間だ。」


今川は城の縁側の下に生えた雑草をむしっていて、おそらくこちらに気付いていない様子だった。


「今ちょうど庭園の方でも清掃をやっているから、今日はお前にもそこを手伝ってもらうからな。」

「かしこまりました。それでは本日からよろしくお願いします。」


僕は門番2人に頭を下げ、城内へと入っていった。

城内は10日前までここで戦があったことがまるで嘘だったかのように閑散としていて、隅々まで清掃が行き渡っている。


「ここに来るのも久しぶりになるな・・・。」


ここは2年前に来た時の風景と何も変わっていなかった。変わったことがあるとすれば、この城とこの城に住んでいる人間が陣内家ではなく、今は片岡家のものであるということだけだった。


「お前、名を何と言う?」


風景と過去に思いふけっていたので、背後に人が立っていたことに全く気が付かなかった。驚いた僕は、慌てて後ろを振り向いた。


「あ、はい。本日から給仕としてお世話になる小林太一と申します。」


僕は直立に立つと、今川に向かって深く頭を下げた。


「俺は今川才蔵といって、この城の給仕達の親方をやっている。新人が入って来ることは聞いていなかったがな。」


細い目ながらも上目遣いで僕を見る。元々の身長が低い上に腰が少し曲がっているので、より小さく見える。


「片岡家に知り合いがいまして・・・その方の紹介で、急きょこちらで働くことになったのですよ。」

「そうか。それでは今日からよろしく頼むぞ。」

「はい、こちらこそ。しかし、少し前にここで戦があったとは思えないくらい細かい所まで片付いていますね。」


今川も僕につられて辺りを見渡す。


「そうだろう?それが俺達の仕事だからな。戦が終わった後はそこら中に刀やら弓矢やらが散らばっていたよ・・・もちろん死体もな。だが、丸2日かけて、俺達が全て片付けたんだよ。」

「たった2日で?それは凄いですね。」


僕達が今立っているこの場所も想像を絶するような凄惨な状況だったのだろう。


「ちなみに前の主君であった陣内秀孝はどこに?」

「秀孝か?あの渡り廊下を真っ直ぐ行くと奥の間と言われていた部屋があるのだが、そこに1人で座っておったよ。」


今川はその場所を皺だらけの指で教えてくれた。


「座っていた?ということは見つかった時は、まだ生きていたということですか?」

首を左右に軽く振った今川を見て、僕は分かり切った質問をした自分自身を少し恥じた。

「自害しとった。自分の脇差しで腹を真一文字にかっ裂いてな。敵ながら見事な死に様だったよ。」


そう言う今川の表情はどこか誇らしげだった。


「それはそうと、ここでいつまでも立ち話している暇は俺にもお前にもない。今日は庭園の清掃をする予定だから、これからお前にも付き合ってもらうぞ。」

今川は門番に軽く頭を下げると早足で奥の方へと歩き始めたので、僕はその後に続いた。

庭園に着くと、すでに給仕が1人いて黙々と作業をしていた。庭園には一面に砂利が敷かれていて、端に小さな池がある。ここもしっかりと清掃が行き渡っていた。


「お前には落ち葉拾いと草むしりをやってもらう。それが終わったら、鯉に餌やりを頼むぞ。」

「はい。あの、すみません。」

「今度は何だ?」

「秀孝の娘である雪名の死体はこの庭園にあったのは本当ですか?」


今川は少し驚いた顔をして僕を見た。


「そうだが・・・何で知っている?」

「いや、町の噂で聞きまして。本当にそうだったのかな、と。」


今川はゆっくりとした動作で庭園のある二か所を指差した。


「それは本当の話だな。陣内雪名はあの池の近くでうつ伏せになって倒れておったらしい。そして、あそこの階段付近には陣内家の家臣が仰向けの状態で倒れていたと聞いた。戦中に殺されたみたいだから、俺はこれ以上のことは分からん。その2人の死体も俺が片付けたわけではないしな。」


今川の目には戦後の光景が浮かんでいるのだろうか、細い目をさらに細めて首を捻った。


「それはそうですよね。やはり陣内家の人間は皆、10日前の戦で死んでしまったのでしょうか?」

「ああ、女子供以外はそうだな。陣内家の家臣達の忠誠心はかなりのものだったようで、降伏や

投降は一切せずに最後まで向かってきたらしいからな。」

「では、1人残らず・・・ということですか?」

「そういうことになるな。」


片岡家の主君である信親は、その豪腕ぶりで有名であると同時に非情な一面も持っているという話を聞いたことがある。滅びていった陣内家のことを考えると胸が少し締め付けられるが、感傷的になっている暇など今の僕にはなかった。


「しつこく聞いてすみませんでした。それでは仕事に戻ります。」


作業着に着替えた僕は、今川に先程言われた庭園の落ち葉拾いからとりあえず始めることにした。季節は秋ということもあり、庭園には赤色や橙色に染まった落ち葉が庭一面に散らばっていた。僕はそれらをほうきで一点にかき集めていく。しばらく仕事に没頭していると、池の近くの花壇をいじっていた男が話しかけてきた。男は僕よりも少し年上に見えた。


「何か困ったことがあったら私に色々聞いて下さい、小林さん。」

「はい、ありがとうございます。」

「ちなみに私は武田と申します。あなたと同じくここで給仕をやっております。」


武田は謙虚で落ち着いた雰囲気のある男だった。


「武田さんはここで働かれてどのくらい経つのですか?」

「2年ほど前からですな。普段はこのように給仕として働いていますが、10日前の戦には救護兵として参加していました。昔に医術を少しかじっていましたので。」


これは何か聞けるかもしれないと直感的に思った。


「あの戦にですか?」

「そうです。戦とは無縁だと思っていた私も参加しろと言われた時はまさかと思いましたよ。実際の戦というのは、それはもう・・・壮絶なものでした。」


そう言う武田は虚ろな目で何かを追っているように見えた。武田の目に映る何かが、何もかもが綺麗に片付けられ、紅葉で赤一色に染まったこの景色ではないことだけは確かだった。


「そうですか・・・。でも武田さんがご無事で何よりです。」

「私は誰よりも安全な場所に居ただけで、何も出来ませんでした。」


武田は力なく首を左右に振った。心の一部分をどこかに置いてきたのか、もしくは捨ててきてしまったのだろうか。しかし戦や争いとは、今の武田のように人間にとって影響や意味を与え続けるものであってほしいと僕は思っている。

そんなことを思う僕はまだまだ戦やあらゆる物事の片鱗さえ見えていないのだろうか?

だが、戦で経験した全てを必死にもがき消化しようとしている武田を見ていると、切実にそう願ってしまう。


「そういえば小林さん、先程今川さんとも先日の戦の話をされてましたよね?」

「ええ。戦が終わった後の遺体や城内の片付けが大変だったみたいですね。」

「その話なんですがね、先程お2人がしていた会話の中で1つ間違っていた点がありまして。」

「間違い・・・ですか?」


武田は周囲を見渡して、一歩だけ僕の方に近づいてきた。大きな声で話せる内容ではないということだろう。


「陣内家の家臣は全滅していないかもしれません。」

「え?」

「1人だけ。まだ生きているかもしれません。」


周囲を気にする武田が話しやすいように僕も一歩近づいた。


「死体が見つからなかったということですか?」

「ええ。もちろんそれもありますし、知り合いの方もそのように言っていました。あの状況では逃げられる場所など1つもなかったはずなのに、どうしてもまだ1人だけ見つからない、と。」

「・・・そうですか。」


武田のこの話は、土埼城に来て一番の収穫だった。


「ちなみにその見つからない人の名前を?」


その僕の問いへの返答は思いのほか早かった。


「確か・・・水野貴一郎という方です。なんでも前の主君である陣内秀孝の側近だったらしく腕も相当立つということで、片岡家も戦を始める前から注意していた人間だったらしいんです。」

「水野貴一郎・・・。」


2年前に仕事でこの城に来た時にその名前を聞いたことがあった。その当時、この城を統治していたのは片岡家ではなく陣内家で、陣内家は僕の父親が営んでいる酒屋のお得意様でもあった。その繋がりで探偵をしていた息子の僕に城の内部調査の依頼が来たのだ。

当時、僕は新米の家臣に成り済まし色々と調査をしていたのだが、特に問題らしい問題は見当たらなかった。


依頼主であった主君の陣内秀孝とも話す機会が多々あり、その時に水野貴一郎という名前を聞いた記憶があったことを思い出した、最も信頼する家臣として。


「結局死んだということで片付けられていますがね。」

「そうですか。ところで、武田さん。陣内秀孝が死んでいた奥の間という場所はどこにあるのでしょうか?」

「あそこの階段を登って渡り廊下を歩いた先にありますが・・・奥の間は先程私が清掃したばかりですよ。」


武田が示す方向に目をやると、他とは隔離された場所に部屋があるのが見える。


「あの、少し見て来てもよろしいでしょうか?これからもお世話になる所なので、今日のうちに色々と見て回りたいと思っているのですが。」


最初は不思議がっていた武田だったが、そういうことでしたらと快く了解してくれた。

僕は武田の言った通りの道筋を辿って、奥の間の襖を開けた。他の部屋から隔離されているせいか、もしくは日が全く入らないせいか、奥の間は暗く湿っている感じがした。そこは城主の死に場所としては相応しくない場所であることには違いなかった。

部屋には秀孝の母親である陣内静の位牌と仏壇が残されたままになっていた。


「ここで・・・。」


秀孝は1人でひっそりと腹を斬ったのだろうか、母親の前で。

もしくは側近であった水野貴一郎もその場にいて、秀孝の切腹を見届けたのだろうか。見届けた後、水野貴一郎は何を思い、どのようにして消えてしまったのだろうか・・・。

僕は、ある依頼人が書いた一枚の手紙を取り出す。

数日前に家に送られてきたこの手紙を僕は何回も繰り返し読んだ。だが、この手紙を書いた依頼人はもうこの世にいない。僕を頼ってきた依頼人のために出来ることは一体何だろうか?この手紙を読む度に僕はそう思う。割に合わないと思った依頼は基本的に断ってきた僕が、報酬もなく依頼人もいないこの依頼を引き受けなければならないと思った理由は、莫大な報酬や探偵としてのやりがい以上に僕の心を揺さぶるものがこの手紙にあったからだ。


「小林さん、もう部屋は一通り回りましたか?」


庭園の清掃を全て終えた武田が顔を出した。


「はい、おかげさまで。」

「それは良かった。今日の僕達の仕事はこれで終わりみたいなので、そろそろ帰り支度しましょうか。初日のお仕事、お疲れ様でした。」


先程まで真上にいたはずの太陽がすでに沈みかけていて、今では半分しか見えなくなっていた。


「そうですか。武田さんには初日からお世話になりっぱなしで・・・ありがとうございました。」

「当たり前のことですよ。では、私は先に帰りますね。」

「はい。また明日もお願いします。」


武田は正しい姿勢で頭を下げると奥の間から出ていった。武田がいなくなると一時的にどこかに消えていた静寂とこの部屋特有の湿り気が、再び部屋の中に戻ってきた。また1人になった僕は奥の間にあった机に向かい、紙を一枚取り出し、今日の調査結果をその紙に箇条書きしていく。


僕は依頼人の手紙とこれから積もり積もっていくはずの調査結果を一冊の本にしようと思っている、自分自身の仕事の集大成として。そして何より、探偵としての僕を最期に頼ってきたこの依頼人のために。

何かに駆られるように筆を走らせていると、日が昇っている時間帯でも薄暗かったこの部屋が、気がつけば一段と暗闇に支配されていた。静寂も一段と増している、やはりここは寂しい場所だった。

自分の書く文字も次第に見えなくなってきたので、そろそろ帰り時だと思った僕は支度をしながら、ある事を思い出した。今夜はお見合い相手の娘と僕の家で食事をする予定が控えていたのだ。


「これは不味い。」


僕は慌てて帰り支度をして、早足で帰路を急いだ。

家に着くと、僕の家族の靴の他に見慣れない女性の靴が並べられていた。


「坊っちゃん。もう千華さんがいらっしゃっていますよ。」


物音を聞きつけてお梅が台所から顔を出した。千華とは、もちろんお見合い相手の娘、川島千華[チカ]のことである。


「すみません。それで千華さんは今どこに?」


僕は上着を脱いで、お梅に渡す。


「お館様と居間にいらっしゃいます。坊っちゃんも急いでください。」


言われるまでもなく僕は急いで居間に向かった。居間の前に着くと、利彦ですと言って、ゆっくりと襖を開けた。


「遅いぞ、利彦。千華さんを待たせるとは何事だ。」


案の定、父親は怒っていた。そんな父親の向かい側に座っていた千華は父親とは対称的に柔らかい表情をして僕に微笑みかける。その表情は相変わらず美しくて、僕の胸が少しざわめいた。


「遅れてすみません。かなり待たせてしまいました。」


僕は千華の隣に座って、頭を下げた。仕事で遅れてしまったことを何となく言い訳にしたくはなかった。


「いいえ、全く。ですからお父様も利彦さんをあまり責めないでください。」


千華は待たせた僕をさりげなく許し、怒る父親を優しく諌めた。良く出来ているのはその美しい容姿だけではないと改めて思った。


「そうそう、つまらない親子喧嘩は犬も食わないですよ。それよりも温かいご飯を食べてくださいな。」


お梅はお盆に乗せた食事を、食卓に並べていく。2人の女性に同時に忠告された父親は恥ずかしそうに頭を掻いた。だが、この中で一番情けない立場にいるのは間違いなくこの僕だった。


「すみません、お梅さん。そういえば、母上はどこに?」

「奥様は町の寄合に。どうしても外せなかったみたいで。」

「そうか。それでは先に頂くとしよう。千華さんもくつろいでくれ。」


父親と僕、千華の3人での食事は終始楽しい時間だった。お見合いの話にはあまり触れずに、お互いの家の商売や千華の習い事の話で盛り上がったのだが、いつの間にか僕も仕事のことは忘れて久しぶりに居心地の良い時間を過ごした。気がつくと、食卓に出されていた食事や酒もあっという間に終わりに近づいていた。一通り話し終えて、この団欒の余韻を味わっている時に、父親が不意に口を開いた。


「お前が千華さんと結婚したら、どんなに良いことか。」


しこたま酒を呑んで酔った父親が今まで何となく触れずにいたお見合いの話を切り出してきたので、僕と千華は顔を合わせた。


「なんだよ、いきなり。ちょっと呑み過ぎじゃないか?」


僕は酒がなみなみと入ったお猪口に手を伸ばそうとした父親を目で制した。


「いきなりではないだろう。いつかはちゃんと話さなきゃいかんことだろうが。」

「それはそうだけど・・・。」


まだ探偵の仕事を続けていきたいことを父親にも千華にも言えてない立場の僕は、ただ口ごもることしか出来なかった。


「家にしても商売にしても千華さんの家の方が遥かに立場が上なんだから。」


もちろん、それは分かっている。だが、そこが問題ではないのだ。


「ふん。お前は昔から優柔不断なところがあるからな。」


酒で顔を赤らめた父親はそう言って再びお猪口に手を伸ばした。すると、隣から綺麗な白い手が父親の大きくて傷だらけの手にゆっくりと被さった。


「そんなに急がなくても私達は大丈夫ですよ、お父様。私はいくらでも待てますから。」

「しかしね、千華さん・・・。」

「確かに家柄のこともありますし、私達の縁談を取り持ってくれたのは、他ならぬお父様達であることも重々承知しております。ですが、そこから先は私自身と利彦さんの意思だけで決めたいのです。だから、私達は大丈夫ですよ。」


千華のその真っ直ぐな言葉に、父親はただ黙って自分の手に重なっている千華の綺麗で長い指先を見るしかなかった。そんな僕は父親以上に千華の言葉がこの胸に突き刺さってしまって、身体さえも動かすことが出来ずに凛とした千華の横顔を見つめていた。


「さて、坊っちゃん。これは困りましたね。」


食器を片付けるために僕の隣に来たお梅が、僕の耳元で僕にしか聞こえない声で囁く。声の調子と表情はどこか楽しげだった。


「女心は変わりやすいという言葉がありますが、それは半端な女にお似合いの言葉。きっと千華さんのような強い女性は、未だに煮え切らない坊ちゃんが考えていること以上に様々なことを考えていらっしゃるはずですよ。」

「・・・分かっていますよ。」


先程千華を見た時に感じたあの胸のざわめきの正体が少し分かった気がした。

千華とのこれからに、探偵という仕事以上の意味や価値があることに僕はやっと気づいたのかもしれない。

それは今日ではなく、きっと千華に初めて会った時から。


「私はずっと待っていますので。高山千華として、1人の女として。」


千華が高山家の人間になる・・・それも悪くない、と僕は思った。それに千華をこれ以上待たせることなど僕には出来なかった。

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