譜面
楽譜はただ五線譜が引かれているだけの真っ白な状態がそこにある。いつもなら聴こえてくるはずのメロディが全く聴こえず、楽譜を書くことさえもできなかった。頭の中でぐるぐると感情がまわる。ギターは結局弦を変えることが出来ないまま、スタンドに立てかかっている。ベッドの上に横になって、携帯を開いても何も変わらない。彼女からの連絡はない。今日学校を無断欠席した彼女は一体どうしたのだろうか。体調でも悪かったのだろうか。家の用事か何かだろうか。考えれば考える程ぐるぐる回って気持ち悪くなる。幼なじみで家が近い。僕と彼女の距離は、ただそれだけなのかもしれない。
こんなにも遠い、苦しい世界で生きている。
そう思った瞬間、音が無くなった気がした。いや、実際には無くなってはいなかった。外の音は変わらずに聴こえる。
だけど確かに何かは消えて無くなった。それが何かも分からないまま、僕は眠りについた。
今日も彼女は学校に来ない。一時間目が終わって、クラスメイトがざわついている。僕は当然話す人がいないから、ざわつくこともない。ゆっくりと視線を外にずらした。
「なあ。」
一瞬ドキリとした。誰かに話しかけられたのが久しぶり過ぎて、ドキリとした。
「なあ、聞いてんのか。」
「ぼ、僕…ですか?」
「んだよ、聞こえてんじゃねぇか。」
そこには、クラスで危険人物とされている男子がいた。勿論名前は分からない。
「お前さぁ、色葉と仲いいんか」
「いや、そんなことは別に…」
怖い。率直に言ってこわい。染められた髪の毛と、何も付けていないピアスの穴。第1僕より十センチ以上ある身長と威圧が怖い。目を合わせないようにして、僕は会話をした。
「でもさ、その本。色葉のだろ」
「なんでそんなこと…知って…」
驚きで謝って目を合わせてしまった。不覚だった。僕の心の中が全て読まれているんじゃないかって思うくらいの鋭い眼差しに、本を持っていた手が震える。
「ちょっとこい」
そう言って彼は僕の手首を掴んで、引っ張るようにして歩いた。怖かったから、震える足でついて行くしか無かった。彼の背中は大きく、とても寂しそうだった。
ついた場所は教室がある校舎とは逆側の校舎だった。移動教室とかのときに使う時が多い為か、人気が少なく静まり返っている。少し廊下を歩くと見えてきたのは美術室だった。彼は半ば強引に建て付けの悪いドアを開けると、中に入って行った。美術室の前で立ち止まっていると、彼は優しめの口調で言った。
「早く入れよ」
美術室の中は絵の具の匂いが充満している。色んな作品が並んで、僕みたいな音楽をやっている人には異様な空間だった。
「さっきはすまんかった。ちょっとイライラしててな。」
「いや、そんなことは別に…。でもなんで美術室なんか…」
「ここは美術部の部室だ。」
「いや、うん。分かるんだけどね」
彼は僕に背を向けて窓の方を向いて話した。
「そして、俺と色葉は美術部員だ。」
「え!?君、美術部員なの!?」
「うるせぇ、シバくぞ」
「ごめん…」
「俺はあいつに沢山助けて貰ってたのに、あいつのこと何一つ助けられてないんだ。なあ、お前さ」
鳥が羽ばたく音がする。ああ、凄く嫌な予感がする。喉が乾いて熱い。
「俺のこと手伝ってくれないか」
もう僕の日常は全くもって変わってしまったんだと、音が消えてからわかった。