ルリ祭にて
真紅のドクぺ缶が直射日光で鮮やかな色を放つ。
暑い。まだ初夏だというのに。
俺は額の汗を疎ましく思いながら、本のページをめくる。
「加賀先輩、俺図書室行ってきていいですか。あそこならエアコンあるんで」
「ダメだよ。それはダメ。葵くんが図書室に行っちゃったら、私がこの蒸し風呂みたいな教室で一人になっちゃう。それは寂しいよ」
寂しいという割に加賀先輩は相変わらずで、そう言いながらも手の動きを止めることなくゲームに没頭している。
「なら、先輩も図書室に来ればいいじゃないですか」
「そんなことできないよ。それをしたら部活ができないもん。どんなことがあろうと顧客第一だからね。もしここにお客さんが来たとき、部員は図書室に行って悠々自適にクーラーの中で涼んでいます、なんて張り紙があったら相談する気も萎えちゃうでしょ」
それは先輩がすでに悠々自適とテレビゲームをやっている時点で顧客第一という先輩の言葉に信憑性が欠片ほどもない。客を迎える気ゼロだ。
部室として借りているこの予備6室にあるものは、先輩のゲーム機とテレビ、ソフトとその他ゲーム類の諸々、後は各教室で余ったイスと机が雑多に置いてあるだけだ。
べつにテリトリー意識があるわけではないが、先輩は基本ゲームをしているため教室の正面左隅に置いてあるテレビの前に陣取り、一方俺は教室の後ろに積まれたイスからひとつ持ってきて、窓際に座って借りてきた本を読んでいる。
名目上は写真部。部室はないので空いている予備6室。基本的な活動は今のような状況。でも、それならそれで俺は構わない。写真に全く関係がない活動だとしても俺の気にすることじゃない。
問題なのは先輩の言うお客さん、つまり依頼人が来た時だ。
この時期になると、この辺りの高校はどこもかしこも学園祭モードで、それはこの高校も例に漏れていない。
放課後には、学園祭で出す屋台の看板などの準備をしたり、展示品を作ったりとクラスの皆々が実に充実した青春を送っているような光景が見られる。
俺はというと、クラスで用意する展示品の作成に携わっていたが、それが予定より早く終わってしまい、今は特にやることがない。他の人の作業を手伝おうかとも思ったが、クラスでたいした人間関係を築いていないので、どうにも声を掛けずらい。そんなわけで、大体はすぐに家に帰るか、図書室にいるかで、とにかく教室には残らないように最近は過ごしている。気づまりというほどではないが、何一つ学園祭の準備をしないのに教室にいるというのは割と気まずい。
とは言え、今日は金曜日。部活があるので大人しく部室に行くつもりだ。部活に行かないで図書室に行っても、どうせ加賀先輩に強制的に写真部部室へ連れていかれる。これは一度経験した。
部室に行く前には必ず自動販売機まで足を運ぶ。というのも、俺自身が何か飲みたいのではなく、加賀先輩に毎週頼まれているからだ。入部してすぐにあった一件の後以来、俺は毎週こうして買って行っている。最近はもうこの購入作業もだいぶ板に付いてきたかもしれない。これは、とても悲しい。
お使いの内容はいつも決まっているのでそれを購入。購入した350ml缶の冷たさに心地よさを感じながら俺は部室へ向かう。
校内ではほぼ全員が一様に学園祭を成功させようと活気づいている。青春のありありとした姿を見ているとまるで俺の青春が褪せているかのように思えてくる。いや、これは偏見だ。青春に決まりきった形はない。やる気とか活力とかそういう若い衝動だけがすべてじゃない。俺の今は褪せているのではなく、ただ少し薄いだけ。そうマリンブルーのような、そういった色合いだ。……たぶん。
部室のドアを開けても、珍しく先輩が飛びついて来なかった。
先輩はいつもの場所に座りながら、ゲームの画面を点けたままで俯き眠っている。
きっと加賀先輩は学園祭の準備で疲れているのだろう。先輩なら準備にですら張り切りそうだ。
ある程度ゆっくり歩いて一応先輩は起こさないようにしながらいつもの定位置に座る。
十五分して先輩が起きなかったら帰らせてもらうか。
俺は買って来たドクぺを窓の縁に置く。
十五分経っても起きる気配なし。ありがたく帰らせてもらおう。
自分のリュックを背負って先輩の後ろを通った瞬間、先輩に制服の端を掴まれた。
「待ってよ~葵くぅん、まだゲームしようよぉ」
「先輩起きて……」
……ない。まだ俯いたまま寝ている。先輩の夢の中の俺は大丈夫だろうか。なんか死ぬまで先輩とのゲームに付き合わされていそうだ。
それからも何かむにゃむにゃと寝言を言っていたが聞き取れなかった。まあ、全部聞くつもりはない。早く帰りたいし。
それにしても、眠っている先輩はかわいい。無防備に閉じられた瞼、窓からのそよ風で優しく揺れる前髪、生地が透けそうな夏服のワイシャツ。いつもは面倒な先輩もこうして見ると図らずも庇護欲を掻き立たせられる。
俺は結露で汗をかいたドクぺをちょっとした悪戯心で先輩の頬に触れさせる。
……起きない。
少し反応はしたものの、微かな寝息は途切れることなく続いている。
帰るか。俺も帰ってやりたいことがある。
ドクぺを先輩の足許に置いて、俺は教室のドアに手を掛けた。
「あ、葵ちゃん……来てたの?」
「とっくに来てましたよ」ため息が軽く零れる。「先輩はさっき俺とゲームしてたんじゃないんですか」
「そうそう、してたんだよ。あれ、もしかして私なんか言ってた?」
「ほとんど聞き取れませんでしたけどね」
「そっか。結構楽しかったんだよ。葵くんものすごく弱かったけど」
がんばれ夢の中の俺。
先輩が両腕を思いっきり上に伸ばしながらあくびをする。
「一緒にゲームする? 葵くん」
「遠慮しておきます。先輩強すぎるんで」
「大丈夫だよ、協力プレイだから」
先輩はイスから勢いよく立つとコントローラーを俺の手に握らせた。仕方なく加賀先輩の隣にイスを持ってきて座る。
「これどうやって操作するんですか」
「大丈夫、習うより慣れろだよ。はい、スタート!」
知っている。先輩が嬉々としてる時はだいたい、無茶ぶりとか、お節介とか、面倒ごとで、良いことじゃないと。
「そういえば知ってる? 葵くん」
「何をです」
「毎夜、悲愴を奏でる幽霊の話だよ。よっと、意外に頭使うね、このゲーム」
先輩の操作する弓を持った盗賊っぽい女性のキャラがギミックを解こうと画面内を右往左往する。
「明らかに嘘っぽいそんな噂聞いたことありません。どうせ夏の定番の幽霊ネタかなんかじゃないですか」
俺はよれた緑のローブに尖がり帽子の魔法使いを操作して魔法で四角い足場を出現させた消したりしてみる。ドアのギミックが解けず立ち往生している盗賊と魔法使いを傍目に、先輩と俺は既に諦めモードに突入している。
「定番じゃないよ、葵くん。こういうのは王道って言うんだよ。だって興味をそそられる話でしょ」
「まったく興味湧きません。それって言い方が違うだけで実質的には大差ないです」
「どういう話かっていうとね……」
「いや、興味ないですって」
加賀先輩は幽霊の噂を信じているのだろうか。純粋で天真爛漫な加賀先輩のことだから信じていても不思議じゃない。信じるか信じないかは先輩次第だが、問題なのは行動だ。俺はいつもそれに巻き込まれる。どうせ正体は、枯れ尾花とはいかなくても、吹奏楽部とかその辺りの人だろう。
「それは、この学校での話でね。
土砂降りの雨の日、暗い校舎の中に血の滴るような音が響いていた。K君は誰もいないはずの校舎でなぜか視線を感じる。それはべっとりと不気味な感覚。しかし周りに誰もいない。どこかの影から死体が生気のない目でこっちを凝視しているようで……」
ホラーな比喩が入ってはいるものの、声音が普段と変わらず明るいので怖さが出ていない。怖い話は苦手なので若干身構えてはいたが、これなら怖くて眠れないということはなさそうだ。
「その時、どこからともなく楽器の音が!」
「……先輩、まだその話続きますか」
「あれ、怖くなかった。がんばって怖さを演出したんだけどなぁ」
先輩はオーバーにくちびるを尖らせていじけた素振りをして見せる。そして悔しそうに肩を竦めると、画面の中の先輩のキャラクターがいともたやすくドアのギミックを突破した。
そんな時、現実世界でもドアが開いた。
「頼みごとが、あるんだけど」
その声の主は、部室のドアを開けたまま学校で盛大にゲームをしている俺たちを唖然として見た。ここに入って来るのを戸惑っている、もしくは躊躇っている。おそらく、来るところを間違えたのかもしれないとさえ思っただろう。
加賀先輩は瞬時に立ち上がり、弾けるように跳んで一気にその女子生徒ととの距離を詰めた。
「あ、あぁ、あの」
加賀先輩の急接近に蹈鞴を踏んだ彼女は、今にも泣きだしそうな声で口をパクパク。
「相談かな? 大歓迎だよ。ほら入って」
そんな状態の彼女は為す術もなく先輩に腕を引かれ、写真部に連れ込まれた。
俺はコントローラーを置いて定位置の窓際に戻る。
「早速だけど、どういうご用件かな?」
加賀先輩と差し向かいで用意されたイスに座った彼女は、女子高生か怪しく思えるほどの可愛らしい身長だった。実際にここの制服を着ているのだから女子高生なんだろうが、うなじの辺りで二つに結わかれた髪やあどけなさを残した童顔さが幼さを一層際立たせている。
辺りを見回しながら困惑気味の少女は、一息ついて加賀先輩を真剣そうに見た。
「そ、相談があるの……あなたに頼み事」
「うん、話してみて。千野ちゃん。相談無料、依頼遂行も無料で承るよ」
先輩に千野ちゃんと呼ばれた少女は未だに迷いがあるらしく逡巡するように膝の上に置いた薄い箱を指で数回叩く。先輩が相手の名前を知っているということは少なからず面識があるみたいだ。
「相談の前に待って。あの隅にいるのは何?」
胡乱な者を見るかのようにねめつけられる。その視線に気づいていないふりをしながら俺は本のページを一枚捲った。
「あれは部員だよ。わが写真部のね。心配しないで、ここで話されたことはちゃんと秘密にするよう言ってあるから」
「べつに隠すほどのことでもないから、いいけど。ただちょっと目障りかなって思っただけ」
聞こえてるぞ、容赦ない辛辣な言葉が。容姿と中身は必ずしも一致しない。
さりげなく一瞥を向けてみたが彼女はそれに気づいた様子はなかった。というかあのロリは三年生なのか。夏服のワイシャツ姿なので校章は付けていないが、上履きに紺のラインが入っている。
「相談っていうのは」千野先輩はポケットから折られた紙を取り出すと、それを加賀先輩の前で広げる。「瑠璃祭でのバンドが一人足りないの」
この距離から紙の内容は窺えないがおそらくあれは校内に貼られている、学園祭で催される予定のバンドの演奏告知だろう。毎日教室に行く前に階段辺りで目に入るので内容はだいたい覚えている。たしか、2人の女子生徒がポップな絵のタッチで描かれていたはずだ。
「去年から約束はしてたのよ。それなのに裏切られたの」
裏切られた、とは、随分棘のある言い回しだな。
実際頭にきているようで、言葉にはとした怒気が滲み出ている。
「それって酷い話だと思わない? このポスター作ろうっていたら突然、出れなくなった、だなんて。ホント許せない!」
加賀先輩は相槌を打って真剣に聞いているようだが、どうなんだろうか。あれでは相談というより単なる愚痴だ。
「それで? 私たちは何をすればいいのかな?」
加賀先輩の質問に千野先輩は荒げていた言葉を小さな呼気とともに吐き出し、若干の冷静さを取り戻す。
「誰か新しい人を探して。ベースができる人。瑠璃祭でバンドができないと困るの」
「りょーかい。本番までに練習も必要だろうから、できるだけ早めに見つけておくよ」
前回と同じパターンなら、依頼を了承したところで解決に奔走するのは俺だ。今にも頭が痛くなりそうだ。今回こそはどうにか断りたい。
「それじゃあ……お願いします」
意外にも礼儀正しく頭を下げた千野先輩は、膝の上に乗せていた箱を加賀先輩に差し出す。
「あの、これ。何もしないんじゃ悪いから」
「そういうのは要らないよ。これはあくまでも部活動の一環だからね」
箱の縁に手を添えて加賀先輩はそれを押し返す。申し訳なさそうに目を伏せた千野先輩は「何よ」と小声で吐き捨て、照れくさそうに言い方を変える。
「実はさっき友達と食べようとしたんだけど、結局残っちゃって。良かったら食べてくれない」
「仕方ないなぁ、そういうことなら頂くよ。とびっきり喜んでね」
すぐさま箱を受け取って加賀先輩は箱を開けた。照れ隠しの虚に容易く便乗してしまう先輩。品は要らないという先輩のスタンスを一瞬でもを尊敬してしまった俺は何だったんだ。
目を無邪気に輝かせながら先輩は俺の隣に置かれた机を引きずっていきテーブル代わりにした。そして俺の方へ手招きをする。どうやらおこぼれくらいなら貰えるらしい。
ホワイトチョコレートはどれもお洒落な形で単一の白にも関わらずどれもが個性を持って箱の中に並んでいた。見るからに高そうなチョコレートで、一つ食べてみたがそれ以上は口にしなかった。
正直、うまくない。
チョコレートの外観を見ただけで予想はしていたが、どうやら俺みたいな一般庶民には味が高尚すぎるらしい。
俺に比べ加賀先輩はひとつひとつを感動しながら食べていた。時々輝かせた目で俺の方を見たが、差し入れを持ってきてくれた張本人の手前、苦笑いしながら首を微かに横に振って、食べませんの意思表示。千野先輩も加賀先輩の食べっぷりに気圧されているのか数個しか食べなかった。
その後、千野先輩は数分間加賀先輩と雑談を交わした。
「もうそろそろ帰るわ。頼んだ案件よろしくね」
教室に掛かった時計を確認して千野は立ち上がる。
「あ、そうだ。千野ちゃん、最近幽霊の噂があるんだよ。校舎のどこからか響く楽器を奏でる音っていうお話」
千野は特に考える様子もなく即答する。
「それ、もしかして私のこと? 私ギターの練習、二階の予備4室でしてるんだけど」
幽霊の正体が呆気なく明かされて虚を突かれたのか、先輩先輩は須臾の間答えに詰まる。
「……そういうことだったんだね。噂の真相が知れて良かったよ」
「知らないところで幽霊扱いされてたなんて……あんまり嬉しくはないわね」
「まあ、元気出して。こっちでちゃんと適任の人を探すから、学園祭まで心置きなく入念に練習しててよ」
「任せたわよ。……本当に」
大きく頷いて胸を張った加賀先輩は、何の心配もいらないと言っているかのような翳りのない笑顔で、部室から出て行く千野先輩を見送った。
「さて、葵くん」
「断りますよ。前回の件、結局俺に丸投げだったじゃないですか」
強固な態度で接しなければ、また同じ道を辿ることになってしまう。同じ轍を踏んだりはしない。面倒なことはもうやりたくない。
「まだ何も言ってないよ、と言いたいけれどそういうこと。今回も協力してくれない? 頼むよ」
先輩は俺の目の前まで来て、俺の肩に手を置いた。夏服だと袖口から中が見えそうで俺はすぐ目を逸らす。もちろんそれが視界に入る程度でだが。
五月ぐらいだったか、先輩は俺に「人と関わって欲しい」と言っていた。どうしてそう言ったのかその真意は未だに解らない。でもひとつだけ分かることがある。それは、大きなお節介ということだ。先輩に言われなくとも自分なりに人付き合いはしている。
「嫌です。もうしません」
「本当に? 本当に助けてくれないの?」
「本当です。今度こそ手伝いませんから」
「でも、もうチョコレート食べちゃったよね」
「それは……食べてません」
咄嗟に嘘が口を吐いた。明らかに無理があるのは自明の理。事実食べているし、まだ口の中にほんのりチョコレートの風味が残っている気さえする。先輩は俺がチョコレートを食べる姿を確実に見ていたはずだ。
「食べた、よね?」
人を脅す深淵のような瞳。先輩は自身の身体を俺に擦りつけようとしているかのような距離まで横から近づいて、座っている俺を見下していた。
俺は先輩の双眸から目を逸らして、ため息を吐く。また、依頼か。
「手伝うとしても俺は力になれません。ベースやってる知り合いなんていませんから」
「そんなことないよ。いざとなったら片っ端から探して回るからね。人手は必要だよ」
「いざとなったらってことは、現時点で目星が付いているんですか」
先輩が俺から離れて目の前に立った。身体の左半分だけを直射日光に晒されながら、胸を張り俺を指す。
「もちろん、計画は何もないよ。でも問題もない。三人寄れば文殊さんと同じだからね」
「三人もいませんよ。写真部は二人しかいません」
先輩は俺の指摘に不思議そうに首を傾げて、差した指を少し俺からずらした。先輩の指先が俺の背後を指す。
「夏だからってホラーっぽい状況を作ろうとするのやめてください」
「なーんだ。つまらないの」
先輩はあっさりと腕を下ろし、日に背を向けて窓に寄り掛かる。
「葵くんは人の二倍ぐらい聡明だから、そう換算して三人揃ってるってことで」
俺はその冗談に思わず苦笑した。
聡明なのは加賀先輩の方だ。おそらく先輩は完遂できそうにない依頼を受けたりはしない。先輩は既に解っている。この依頼の完遂過程、もしかしたら結実も。
「聡明なのはどっちですか」
窓から離れて、コントローラーを拾い上げゲームを起動した先輩の背中に聞こえないくらいの声で呟く。
「続きやろうよ、続き。まだ部活を終わるには早いよ」
依頼を考えるのは後にして、俺は重い腰を上げて、先輩の差し出すコントローラーを受け取った。
♜
充棟の本棚をただ漠然と見上げながら時間を潰す。もとは図書室まで来てただ並ぶ背表紙を眺めるはずじゃなかった。でも、前回来た時目星を付けていた本が借りられてしまい、かと言って、違う本を読む気にもなれず、といった具合だ。
図書館は嫌いじゃない。夏はエアコンで涼しく、勉強もしくは人間関係という不穏な雰囲気が漂っていない。破天荒な部長もいない。いるのは貸出返却カウンターに座る名前も知らない図書委員の先輩と書庫にいるであろう出不精な司書の先生くらいだ。こう言うと、なんだか消去法的に図書館しか居場所がないみたいに聞こえるかもしれないが、決してそういうわけではない。
ともあれ、俺は本を手に取る。世界の建築物集的な分厚い本。俺はその写真集を図書室に設置されているテーブルで見ることにした。こういうのに興味が特別あるわけではないが取り敢えず暇つぶしに開いてみる。
流し見していると、テーブルを挟んだ差し向かいに誰かが座った。加賀先輩かと思って一瞬イスを引く。ただそれは杞憂だった。
「久しぶり、薬袋くん。こんなところで本見てていいの?」
和久芽衣は広げられた写真集の風景を覗き込みながら言う。
「久しぶりってほどか。前会っただろ」
「それって五月の話?」
「もちろん」
五月の話というのは、和久が加賀先輩に相談しに来た時のことだ。あの時も加賀先輩の推論は完璧だった。まあ、もちろん俺が駒使いにされたわけだけど。解せぬ。
「もう二ヶ月も前のことを、前会っただろ、って時間の感覚ずれてない?」
「ほら、歳を取ると月日が経つのが早く感じるって言うだろ」
「薬袋くんって今いくつ? もしかして留年してるの?」
「いや冗談だ。本気にしないでくれ」
「なら、これから」
「不吉なこと言うな」
和久はくすっと笑って、頬杖をついた。
「で、本当ににこんなところで何にしてるの? 学園祭の準備とか部活は?」
「俺の担当する学祭の準備は終わったし、部活は金曜日だけ」
「いや、自分の担当終わったら、他の人を手伝いなよ」
「ごもっともだけど、まあ、色々あるんだよ」
色々、の部分を和久が理解したかどうかは分からないが「ふーん」とだけ言ってそれ以上話は続かなかった。
対面したまま話題がないのも地味に気まずい。
そういえば、和久はあの〈数式を机に書いてくれる人〉にお礼かなんか言ったんだろうか。それともあのままの現状維持か。……まあ、それはどうでもいい話か。あの依頼は完遂され終わった。依頼内容外のことについて訊くのは野暮だろう。第一そこまで興味もない。
「そうだ、和久の知り合いにベースできる人いたりしないか」
「ベース? それってあのギターみたいなやつ?」
「そうそれ。それができる人を探してる、できるだけ早くに見つけないとならない」
「人付き合いの苦手な薬袋くんが人を探しているってことは、部活動なわけだ。相変わらず加賀先輩には従順だね」
悪戯めいた言葉に少し意地悪気な笑み。加賀先輩に対する俺の感情を見透かしてやったとでも言いたい気分だろうが、それは見当違いだ。本人がそう思うのだから間違いない。俺は鼻を鳴らして和久の勘繰りを一蹴する。
「面従腹背ってやつだよ。そうじゃないと何されるか分からん」
「お似合いだと思うけどな。ほら、主従関係ってやつ」
「やめてくれ。洒落にならない」
「そうかな、そうでもないけど」
和久は俺の手元の本を自分に引き寄せてぱらぱらとページをめくり始める。
「ちょっと見せて」
「借りるつもりはないから好きなだけどうぞ」
「それで、ベースのことでしょ。そういう知り合いならいるよ。ベースできる人」
「え、本当?」
「当然。私、薬袋くんよりは人脈広いから」
事実だから反論できないが取り敢えずは見つかって良かった。この一件、思ったよりも迅速に片が付くみたいだ。これでこの依頼とはおさらば出来る。
「たぶん今頃弓道場で部活してる。ついて来る?」
先に席を立った和久に俺も続く。身近に適任の人がいるならこの依頼は手短に終わる。できれば早急に終わらせたい。面倒なことが続くのは最悪だ。
和久は一旦本棚の前で本を手に取って持ってくると、俺がさっきまで見ていた風景の写真集も持ってカウンターに持って行った。和久は眠気眼を擦る先輩にバーコードリーダーを当ててもらう。
図書室を出ると暑さが心地よかった。が、そんな感覚は数秒で、すぐに暑さが身体に纏わりついてくる。どうやら日が陰ったのではなく、単に図書室の冷房が効きすぎていただけらしい。
図書室のある二号館校舎はとても古い。廊下こそ木床ではないものの教室は未だ木の床だし、ヴィンテージ感溢れる煙突付きの石油ストーブが完備されている。図書室の横のトイレ前の蛇口は水の出が悪く、廊下の天井は雨漏りでシミになっていて不気味だ。
「そういえば、和久は瑠璃祭でなにかするのか」
「それはもちろんするけど……あんまりうまくいってないんだよね」
憂鬱そうに唇を歪ませた和久は俯いた。不安気な視線が階段を彷徨う。
「色々大変そうだな」
「私たちのクラス、劇やるんだけど。私、大道具を任されてて……目指すクオリティーが結構高くて。私、何か作るの本当に苦手なのに……」
「他にも大道具担当がいるだろ。その人に任せればいい」
「それが、みんな集まりが悪くて」
少し耳が痛い。自分のクラスの学祭準備に真面目に集まっていたかと少し微妙だ。ほとんどは不承不承と手伝っていたが金曜日は部活を理由にサボっていた。
「まあ、和久が選ばれたってことは、和久以上の技巧派がクラスにいないわけだ。問題ないだろ」
憂いを含んだ和久の表情が一瞬だけ緩む。
「なんでそんな時だけポジティブなの?」
「いや、俺っていつもポジティブだろ」
「全然」
即答するのかよ。しかも神妙な顔で。まあ、自分をポジティブだと思ったことはないけども。というかそれほど話したこともない和久が何で俺の性格を知ってるんだ。見た目か、それともオーラか。そうかそういうことか、つまり和久は人のオーラが見える人。……そうであって欲しい。そうじゃないと俺の見た目からネガティブ感が滲み出ていることになる。それは悲しい。
「まっ、とにかくがんばる。瑠璃祭までもう残り少ないんだし」
和久は顔を上げて踊り場のガラス窓から青空を見上げた。透き通った青に飛行機が白線を伸ばしていく。
頑張れるってことは、少なくとも俺よりポジティブだ。プレッシャーを掛ける恐れがあるので敢えて応援の言葉は掛けないでおこう。
「応援の言葉くらい掛けてよ。薬袋くん」
そう言われれば、まあ、仕方ない。
「そんなに巧拙気にしないで、気楽に頑張れ」
「うぅ……がんばれって単語は結構プレッシャーだなぁ」
俺が、うぅ……、だよ。一体何て言って欲しかったんだ。
「そうだ。薬袋くん、頼み事してもいい?」
「俺は加賀先輩じゃない」
たとえ写真部であったとしても、俺は加賀先輩のような活動はしない。加賀先輩の行動は写真部の活動ではなく、個人的な善行だ。写真部とは関係なく、必然的にただの写真部部員の俺とも関係がない。
「それは、無理ってこと?」
「……内容による」
和久の悲しげな声音に少し迷ってからそう答えた。自分の頼み(もともとは俺の頼みではないが)は聞いてもらっておいて、相手のを聞かないのでは恩知らずな気もする。……一応は助力するか。それに、只より安い物はないとよく言う。
「私たちの組がやる劇の当日、薬袋くんに偽客になって欲しい。勘違いしないで欲しいんだけど、私たちは全力で劇に取り組むし、べつに楽して良い演技っぽく見せたいわけじゃない」
俺は足を止めた。前向だった口上のわりには反則的な依頼。
「もちろん狡いこと言ってるって分かってる。でもどうしてもお願いしたいの。……私たち、瑠璃祭の二日間で一回ずつ開演する予定だけど、二日目の午前中、時間帯が三年生の劇と被っちゃって……たぶんお客さんを取られる。最後の劇はできればクラスみんなで気持ちよく終わりたい。だから、せめて盛り上げて欲しい」
俺は答えに詰まった。モラルの問題ではなく自分の力量的にまずサクラを演じられる自信がない。俺の演出能力の有無については誰もが無い方に満場一致で諸手を上げる。
「ベースを紹介するから、お願い!」
和久は、了承しなきゃ動かない、とでも言わんばかりに俺の目の前に立って手を合わせて頭を下げた。そう言われると引き受けざるを得なくなる。他にベースをやってくれる当てはない。
「……なんとかする」
小さく答えた俺に、和久は小さくガッツポーズをし破顔して見せた。
階段を踏み鳴らす音がコツコツと二人分、古びた校舎に響く。弓道場は体育館の裏。階段を下りてもさほど変わらない気温には閉口せざるを得ないし、むしろ少し上がったようにも思えた。
「藤井先輩、ちょっといいですか」
凛々しく弓を構えたままこちらを一瞥すると、集中しきった全身の筋肉が緩むと同時に表情も優しく穏やかになる。和久の手招きに藤井先輩は首肯で応じ、射場の出口で一礼するとこっちまで来てくれた。
長身痩躯で怜悧そうな三白眼を眼鏡で覆っている藤井先輩は弓道の袴姿で浮世離れしているようにも見える。いかにもインテリジェントという印象と見慣れない出で立ちが不思議と調和していた。
勝手だけど俺が想像していたような人物像とは大きく違う。何というか、もっとこう奇抜な人物のイメージを持っていた。一目瞭然でミュージシャンと分かる、みたいなそんな人かと。
「久しぶりだね、和久さん」
「頼みがあるんですが、この人の話聞いてもらっていいですか」
「構わないけど……この人は、誰?」
「一組の薬袋です。すみません、部活中に」
初対面の人は苦手だ。まず距離感が掴めない。そのせいか少し舌足らずな敬語になってしまう。
「藤井です。……僕にどういったご用件で」
物腰の低い優しい口調。助かった、これならベースを頼めそうだ。
「今度の学園祭で、ベースを披露してもらうことは可能ですか」
「ベース……」少し考え込んで口にする。「ベースだけ? ほかにも誰か演奏するの?」
「はい、ボーカル兼ギターがいます」
藤井先輩はさっきよりは短く考えてから俺に視線を合わせた。一縷の望みと一抹の不安が脳内を交互に過る。
「分かった。大丈夫だよ、久しぶりにやってみたい気もするし」
「ありがとうございます。さっそくなんですが明日大丈夫ですか。ギターの人を紹介したいんですけど」
「やるんだったら早い方がいいか。了解、なら明日の放課後にでも」
「よろしくお願いします」
後は千野先輩に藤井先輩を紹介するだけだ。後はもう俺の出る幕じゃない。
今回はこれで依頼完了。わりと手短に終わってくれた。六次の隔たりともいうが人間関係を広くしておくに越したことはない。和久には何か礼をしないと――
忘れてた。まだ偽客の依頼があったことを……。
♜
高校生の学園祭といえば、華々しく青春の体現のようなものだと予想していた。実際に、始まったばかりの学園祭の盛り上がりはその通りで、開会式にいる全生徒が体育館の舞台に立つパーソナリティーのおどけた挙動に盛り上がっている。
俺はその様子を備品である一眼レフに収めていく。おそらく入学して以来初の写真部らしい仕事だ。
カメラストラップが首との間で汗を滲ませ鬱陶しさを催させてくる。俺は首から外してストラップを手に絡めつけてからカメラを持ち直した。
各クラスには様々な露店が並び、窓から見下ろす校庭も人ごみと屋台で賑わっていた。どうせだから何か買おうと物色してみたが、何か買う気にはなれない。それどころか廊下の人ごみに滅入ってしまい、二号館四階を目指した。二号館の三階から上の階は何の催しも行われないため、必然的に人の姿はなく廊下にはいつもの矩形が奥の教室へと続いている。
見下ろす中庭では袴姿の学生がブルーシートを敷いている。その端の方に墨と人間大の筆が用意されているので十中八九書道部だろう。そういえば学祭のプログラムを見た時にそんな催しも記載されていたような気がする。
何もしないまま廊下で閑暇を持て余すのもそろそろ飽きてきた。ここは書道パフォーマンスを眺めるのに打って付け。見ない理由はない。それにちょうど見終わる頃には、和久たちのクラス劇の第一回目が開演されるはずだ。依頼は明日でも今日中に劇の段どりを把握しておいた方がいいかもしれない。……なんて、なんでこんなことにがんばってるんだ俺は。
俺はため息で取り敢えず和久の件は忘れるよう専念した。それに和久の依頼は、加賀先輩のような強制力がないので幾分かは気楽に行える。何だかんだで写真部の依頼が終わった後でもそれが起因して今に尾を引いているが本題はすでに完遂されているので、後は千野先輩と藤井先輩の話だ。どうせだから明日の演奏は見に行ってみよう。
「こんにちは。こんなところで、どうかしたの?」
歳を重ね柔らかさの出た声音に俺は振り向いた。司書の先生が図書室の引き戸を閉めて俺の横に並ぶ。
「いえ、べつに。ちょっとゆっくりしたくて」
「そう。確かに人の移動が忙しないものね。でも、それがいいのよ。活力も汗もほろ苦さも、そしてなにより甘酸っぱさも、ここにはある。青春って色々と甘美よね。学園祭があるもんだから最近ではいつもそういう姿を見れたわ」
落ち着いた声で楽しそうに語ると、窓を開けて柔和に微笑みながら書道部たちを見下ろした。
「私にはね、もう関われないのよ。こんな青春を俯瞰するような年増にはね」
何というか、言葉に困った。実年齢は知らないが、外見的にここで俺がフォローを入れて気を良くするような年齢でないことは確かだ。
「あら、ごめんさいね。困らせちゃうようなこと言って。ちょっとサウダージな冗談だと思って」
「はぁ……」
「それじゃ私は仕事に戻るわね、書道パフォーマンスはもうちょっと掛かりそうだし。始まったら呼んでくれるかしら」
「……分かりました」
先生は窓から離れると踵を返して図書室の引き戸を開けた。
最近はよく図書室に通っていたが司書の先生とは話したことがなかった。どうやらいくらか青春に執着心があるらしい。
「そういえば、君、前図書室で女の子と話してたわよね。二人とも結構お似合いのカップルよ」
無視するつもりではなかったが特に言葉を返さないまま図書室のドアが閉まるのを聞いた。
お似合いか……。残念ながらというか残念というほどでもないが、俺と和久は似ても似つかない。そう易々とカップルが成立するほど、ご都合主義のサクセスストーリーに俺の人生はできていない。
書道パフォーマンスをほぼ初対面の司書の先生と見物すると、時刻は和久たちの劇にちょうどいい時間だった。昼時に近かったがとりわけ空腹というわけでもなく食事を後回しにすることにした。例え購買の販売時間に遅れてしまったとしても、今日は余すほど売店が校内中に展開されている。
開演よりちょっと早めに和久のいる一年二組に到着したが如何にもピエロと言った客引きが中へと通してくれた。
教室内を改造した演劇場内は開演前なのでまだ明るく、教室の前半分にはロココ調の建物のような豪奢で見栄えのするセットがあり残り半分にはイスがキレイに配置されていた。
前列に座るのは何となく気が引けるので後ろの方に居座る。
数分後には、生徒はもちろん保護者や地域の人を含めた来客も増え満席となった。その他にも立って上映開始を待っている人もいる。
想像以上に大盛況。べつに明日客が集まらなくても今日これだけ集まってるんだからいいように思えてくる。そもそも来場者数で三年生と競うわけでもないのだから、例え来場者が一人だったとしても問題ないはずだ。所詮は高校生のお祭り。営利目的でやるわけでじゃない。
「さてみなさん! ご来場ありがとうございます」
観客のざわつきが一瞬静まる。気づけばステージにはフォーマルスーツに身を包んだ男子生徒がマイクを持って登壇していた。
「今日お見せするのは、知る人ぞ知るあの童話。そこに一年二組全員のオリジナリティーを加え、奇跡の化学反応を起こした物語を、とくとご覧あれ! なお、上映中の飲食は可能ですが周りのお客様の迷惑にならないようにお願いします。それでは、皆さんを心地いい一夜の夢に誘いましょう」
一時暗転。仄かな暗闇内のステージでは、司会と入れ替えに二人の生徒が闇の中に登場する。
ステージだけに照明が戻り、一年二組特別劇場の幕が上がった。
♜
人がぞろぞろと楽しそうに教室から流れ出てくる。やっとクラスの催しから解放され、やっと校内を見て回れるとみな一様に心が躍っているらしい。中には劇中での華美な衣装のままで出て行く人もいる。
一年二組の舞台劇は何事もなく終わり、俺はその出口付近の壁に凭れながら和久を待った。盛り上がりどころの一応の確認はするとして、どうせだから労いの言葉でも掛けた方がいいだろう。和久の担当する舞台機構はクラスの劇としては中々見事だった。
和久が出て来るまでには他のクラスメイトに比べ結構な時間を要した。出て来ないつもりなのかと痺れを切らしかけていたところだ。
「あれ、まだいたの? て、こんな言い方は失礼か……」
「一応確認するために。で、俺が盛り上がればいいのは劇中にちょこちょこ入ってるギャグシーンと最後の佳境部分でいいんだろ?」
「いいけど、その前に一つ、薬袋くんが盛り上がるんじゃなくて他人を盛り上げるの。そこはちゃんとよろしく」
それはそうだけども。しかし、それは今更ながらに難しい要望だ。引き受けといて勝手だが俺にそこまでの演出能力を期待してはいけない。
「頼んだよ」
「……善処します」
「それ何もしない人の言うことだから」
疲れが出ているようで曇り気味の表情の和久だったが、呆れたように笑ってくれたおかげで会話にも少しだけ緩い雰囲気が生まれる。大道具という役割も壇上には表れないとはいえ裏方には裏方の過酷さがあるのだろう。特に見た感じ、和久には。
「まあ、取り敢えずはお疲れさま」
「……あ、ありがとう。意外だね、薬袋くんはあんまりそういうの言ってくれない人だと思ってた」
「俺だって言う時は言う。ただあんまり人と会話しないだけだ」
「いや、それ敢えて明言する必要ないと思うけどなぁ」
今度は普段通りの笑顔を和久は見せた。不安も残るが偽客についての確認はもういいだろう。和久も早く学園祭を楽しみたいだろうから、ここで長話はあまり望んでないはずだ。
「それじゃ、明日も頑張れ」
「プレッシャーかけないでよ。がんばるけど」
俺は和久と別れて再び校内を徘徊する。
そういえば、学園祭のプログラム内容に古本市があったような覚えがある。少し覗いてみるか。
♜
眠るつもりで目を閉じた。今日催された舞台の上で繰り広げられる、俺にとって愚にもつかない単なる妄想。交換条件で頼まれた依頼に加え、和久個人の問題がその劇に付随しているとなると頭が痛い。
俺はベットから這い出て自分の机に腰掛けた。ただ行動するだけで独善的な自己満足の善行になっては意味がない。
でもそれは、体裁を気にせず一芝居打つことになる。俺にも矜持がないわけではないし、もしかしたら和久のことだから俺の行いに責任を感じてそれに苛まれるかもしれない。
俺は、暗闇だけが渦巻く自室で天井を仰いだ。
人生はどちらかしか選べない。やらぬ後悔よりもやった後悔とも言うが、あんなのは嘘でそうとは言い切れない。普遍的な格言なんてそう多くは存在しない。
なんて、俺が卑屈になってどうするんだ。
机に向かってデスクライトを点け、ボールペンと写真部の顧問に貰った写真応募用紙を机上に出した。一生写真を応募する気のなかった俺がまさかこんな形で応募用紙に記入することになるとは。
人生は何が起こるか分からない。故に決断を渋る。見えない境界線の上で宙ぶらりんになった後悔は過去を振り返ることでしか確認できない。それでも今言えるのは、俺に加賀先輩のお節介がうつってしまったのではという危惧。……俺の方がよっぽど悲劇的な気がしてきた。
♜
俺は昨日と同じ一年二組前の壁に寄り掛かる。開演にはまだ時間があった。まだピエロに扮した客寄せも廊下に出てきていない。
二日目の舞台は午前中の正午近くに始まる。おそらく今日の客は多くが屋台などで購入してきた飲食物を持ち込むだろう。そういう場所の色々な臭いが混じって充満する密閉空間には閉口する。そういう面では昨夜考えたこの策略は自分自身のために考えたように思えてくる。それに和久からの依頼を丸投げするわけだし。
もし和久が許してくれなかったらとにかく陳謝で乗り切ろう。そうするしか方法がない。俺が今からする行動は誰に依頼されたわけでもない限りなく独善的な行動だ。
「偶然だね、葵くん。どう? 青春を楽しんでる?」
数人の女子集団から抜けて駆け寄ってきた加賀先輩は片手に一房だけ齧ったドーナツを持っていた。ポンデリングと思しきそれはどこだかのクラスがミスタードーナツで仕入れてきたものを割高で転売しているやつだ。
「授業聞いてるよりは楽しんでますよ」
「相変わらずテンションが周りと温度差あるなぁ、葵くんは」
そう言う先輩は内に横溢する青春の熱気を全身で受け止めて楽しんでいるようだった。まあ、加賀先輩が楽しそうなのはいつもなので、先輩も俺と同じく相変わらずではある。
「そうだった。ベースの件、適任の人を見つけたみたいだね。依頼が無事に終わって良かったよ。やっぱり葵くんに任せて正解だったね」
笑顔で感心する加賀先輩からは、違和感しか感じない。今まで先輩が依頼のことで俺を褒めることなんてなかった。過度な邪推はせずに純粋に言葉通りの意味を受け止めていいのか。それとも、称賛に仮託した嫌味なのか。どちらとも取れる曖昧な表情。
「加賀ー、先行くよ」
先輩は友人らしき人に呼ばれ、俺に食べかけのドーナツを託すと元気に跳ねて行ってしまった。
なぜドーナツ。……まだ、穴がある、とか。
考えすぎだ。どちらにしても加賀先輩が何か俺に指示したわけじゃないのだから俺が特に動く必要はない。それに俺はドーナツの穴ではなく輪を見るタイプだ。自称だけど。
そんなことより、今は他にやらなければならないことがある。昨晩準備した和久の件だ。
手持無沙汰でカメラの設定画面を眺めながら待つ。
昨日のピエロが廊下に姿を現した時、入れ違いに何人かの生徒が教室に飛び込んでいった。顔面を白く塗ったピエロが迷惑そうに一瞬だけ眉間に皺を作る。ピエロはすぐさま気分を取り戻し、目立ちながら劇の宣伝をし始めた。
ピエロが後姿を見せドアから離れていく隙を見計らって、舞台裏兼楽屋につながる教室の前のドアを開ける。
「すみません。大道具の和久さんいますか」
そこにいた生徒の視線が一斉に俺を刺す。単なる部屋の蒸し暑さだけが理由じゃない汗が、首筋を一筋這う。服が身体との隙間を無くし泥のようにべっとり肌に張り付く歪んだ熱のある気持ち悪い感覚。これだから人に注目されるのは苦手だ。でも今更策の立案を後悔しても遅い。
舞台に上がる生徒は既に衣装に着替え済みらしく色とりどりの人が緊張を滲ませながら寸暇に寛いでいた。一様に唖然としているその中でもとりわけ驚いていたのが、名前を呼ばれたご本人。
床に広げられた小道具を避けながら和久に近づき、手を引っ張って出口まで来させる。そしてさり気なく和久に耳打ちする。
「全力で嫌がれ」
突然俺に引っ張られ戸惑っていた和久の表情が困惑の色に変わる。表情がカラフルで忙しいな和久は。
「すみません、みなさん。ちょっと和久さんを借りてきます」
不信感と疑義を抱えた様子で俺に抵抗してくる和久の手を掴んだまま後ろ手にドアをスライドする。完全に変態として見られたが、連れ出すのは意外にも成功だ。準備した意味はなかったが望むような結果にはなっ――
「待って!」
奥で一人の女子が気の強そうな声を張って俺を睨め付ける。臆さないように、さりとて刺激しないように、口元を歪ませ苦笑いで対応する。
「見て分からない? 今から劇なの。誰か知らないけど、和久は今から仕事がある。勝手に連れて行かれたら困るんだけど」
食ってかかってきたということはおそらくビンゴ。そういえば、この人はさっきピエロと入れ違いにこの楽屋へ入って来た人の一人だ。
ここで彼女を言い負かす必要はない。そんなことでもして俺だけでなく和久も彼女に目をつけられるようになってはいけない。彼女にはただ変人変態の写真部部員の俺がすべて悪いと思わせなきゃならない。実際はそこまで上手くいかないかもしれないがとにかく今は物腰低く傍若無人に振る舞うのがベストだ。
「ごめん、本当に申し訳ないと思ってるんだけど、こっちも写真を撮らなくちゃいけなくてさ。本当にこの時間じゃないと撮れないんだよ」俺は胸ポケットから一枚の紙を取り出して見せつける。タイトルは〈和久とわくわくの学園祭〉。「先にタイトルだけ決めちゃってね。和久さんしかいないんだよ。だからごめんね」
対峙している女子の顔が少し引きつる。どうやら俺に引いているらしい。べつに構いはしない。どうせ今日限りでこの女子と話すことはない。
憮然とした相手の睥睨が収まることはなかったがそこからは会話が続かなかったので、俺は和久を引き連れて足早で教室の外へ脱出した。
「え、あの、ちょっと、どういうこと?」
階段を下り歩く速度を緩めた辺りで、和久が焦りを声に滲ませて訊く。廊下でひしめく人の往来から和久と共に抜け出した。
「大道具の担当は他にもいるんだろ。和久だけが頑張る必要はない」
「……私だけじゃない、他の人だって手伝ってくれる」
絞り出されたのは抗議してくるような声音ではなかった。むしろか細くすぐに雑踏に飲み込まれる。
俺も確信していたわけじゃない。
舞台のセットの参考にしようと一人だけで図書室まで本を借りに来て、階段では大道具の仕事があまりうまくいってないと愚痴り、部活でも藤井先輩に「久しぶり」と言われていた。昨日は和久だけが教室から極端に遅く出て来きて、ひどく浮かない顔をしていた。
どれも憶測に過ぎない、俺が和久を連れ出したのは。だから行動理由は、何となく、だ。何となく和久を押しつけがましくも不憫に見ていた。だから――
「迷惑だったなら謝る」
「いや、そんなことないけど……でも、訊いていい?」
「何を」
「……やっぱ何でもない。よし、折角連れ出してくれたんだから遊ぶ! 薬袋くん付き合って」
気を取り直した和久を見て、安堵で無意識にため息が漏れた。
『えぇ……これ聞こえてる? あ、あ』短い咳払い。コホン。『葵くん、加賀先輩が予備6室で待ってまーす。至急来てくださーい』
年季の入ったスピーカーからの軋んだ声が止む。
俺はその時、和久とタイ焼きの列に並んでいた。うきうきとはしゃいでいた和久が校内放送を聞いて俺をちらりと見る。
「呼ばれてるけど、加賀先輩に」
「最悪だな」
折角列に並んでいるのに、というものそうだが、そもそも加賀先輩に呼ばれた時点でそれは良いことじゃない。また面倒なことに巻き込まれる。
「行かなくていいの?」
「いや、行きたくない」
ここでばっくれると追々面倒なのは分かっている。でも和久を連れ出してきた身の上、彼女をここに一人置いたままにしてしまうのは忍びない。
「私のことなら気にしないで。まだ回りたいお店があるから」
察しのいい和久はさっき買ったチョロスを幸せそうに咥えた。
仕方ない、加賀先輩を反故にできない。仮にも後輩という立場。曲がりなりにも恭順の意を示すのが無難な立ち回り方だろう。
「悪い、ちょっと行ってくる」
「あ、そうだ。さっきの言わなかった質問……」
列から抜けようとした俺の手を掴む和久は少しだけ俯いている。
「私を連れ出したのって、前みたいに加賀先輩の考えなの」
俺は目を逸らす。和久が口唇の端を微かに噛んだ気がした。
ここまで独断で和久を連れ出した。
もちろん違う、そう答える前に自分の中の羞恥が咄嗟に口を吐く。
「まあ、いつもそうだ」
うまく視線を合わせられないまま、俺は和久と別れた。
先輩を身代わりにしてしまったが、五月の時は先輩を立てたのだから貸し借りなしでいいだろう。
さっき和久が口火を切ったのはとても意地悪な質問だ。
和久がどういう考えでその質問をしたのかは分からない。だからこそ、その言葉の奥行きを考え過ぎてしまうし、勘違いする。思春期に起こる些細で間抜けなこの勘違いが引き起こす傷跡は意外にも大きい。
思い出してはいけない。うぅ……なんか、泣けてきた。
理路整然と考えれば思考の余地なんてない。俺は和久の姿を見かねて行動を起こしたんであって、恋心に突き動かされたわけじゃない。そして相手の考えなんて端から気にすることはないはずだ。
「もう面倒な勘違いはしたくない」
自嘲気味にひとりごちて、俺は予備6室のドアを開ける。
「遅いよー、葵くん。溶けちゃうよ」
机を挟んで置いたイスの窓側の方に座りながら、加賀先輩はドーナツを頬張っていた。俺は取り敢えず勧められた手前の席に着く。
机に敷かれた紙ナプキンの上で直射日光に晒されているチョコレートドーナツ。日陰に置いてやってください、先輩。
「最近のミスタードーナツはすごいよね。クラスをフランチャイズ化するなんて」
「そう考えるのは先輩ぐらいです」
「そう? やっぱり葵くんはあのクラスがミスタードーナツ高校進出の露払いを担ってると思う?」
呆れる俺をさらに呆れさせるのだから先輩にはある意味で呆れられない。いや、呆れてるけども。
「で、何で呼び出したんですか」
「そんな怖い目しないでよ。ほら、ドーナツでも食べて。葵くんのことだからロクにお昼ご飯も食べてないんでしょ」
「まあ、そうですね。頂きます」
ドーナツに触れるすんでのところで手を止め、引っ込める。俺だって学習しないわけじゃない。これは前と同じで、食べたからには協力しろ展開に確実になる。危ない、ただより高いものはないとはこのことか。
「それで、何の用ですか」
「問題としては単純だよ。でも、解決は難しいかもしれない」
先輩はドーナツを平らげてぺろりと指を舐める。
「葵くん、藤井くんにベースを頼んでたよね。その藤井くんがどうやら昨日ルリ祭でかんばり過ぎちゃったみたいで、今日休みなんだって」
……あぁ、現実逃避したい。パソコン開いて、ゲーム開始して、パティシエの下で働くネコたちをなでなでしたい。
「さすがに今から代役探しは無理だけど、ちょっと考えてみてよ。そもそも藤井くん自体が代役だったんだから葵くんのハードネゴシエーションテクで何とか説得できるかもよ、元々の千野ちゃんの相方を」
「無理です、そんなこと。それに俺はその相方すら知りません」
組んでいた千野先輩ですら諦めてこの写真部に代役を探すよう依頼したのだ。部外者の俺がどうこうなる話じゃない。それに、ここでその相方もしくは更なる代役を見つけられなくたって依頼を受けた写真部が責任を取らなくたっていい。俺がベースを頼んだ藤井先輩は一度承諾しているのだから。
「やらずして諦めるのは良くないよ。私は葵くんを信じてる。それに千野ちゃんの相方なら知ってると思うけどなぁ」
「誰ですか」
「これもらうよ」
俺が手を付けなかったチョコレートドーナツを摘みあげて口へ運ぶ。
「きっと知ってるはずだよ」
加賀先輩は意味深な笑みを浮かべると、目を優しく細めてチョコレートドーナツの美味しさに恍惚としていた。
愚問なのは訊く前から分かっていた。加賀先輩は知っている。でも、明かさない。
「俺が説得できなくてもいいんですか加賀先輩」
先輩は食べる手を止めて、その澄んだ無邪気な瞳に俺を映した。
「だから信じてるって。だいじょぶ、葵くんは依頼人を見捨てたりしないもんね」
悪態も吐く気になれず、ため息を吐きながら予備6室を出てきた。自分と温度差のある人だらけの廊下を何とか抜けて、人気のない昇降口のところで壁に寄り掛かった。
この学校の昇降口は厳密には存在しない。かなり長いと言えるほどの歴史あるこの高校は度重なる増設と撤去により昇降口は無くなり、代わりに一号館と二号館を繋ぐ一階渡り廊下の両壁一面にびっしりと金属の下駄箱が並立している。
四角い窓の光を避けて壁に凭れながら目を閉じた。
終わったはずの依頼がこの期に及んで息を吹き返してくるとは思いも寄らなかった。手短に終わったと安気していたらこれだ。人生はなかなか望む方向には進んでくれない。
もちろん加賀先輩の期待に答えるつもりは常に毛頭ない。俺に比べて加賀先輩は順風満帆そうだ。信じたくないが、それに俺も助力しているのだから何とも皮肉な話である。
なら、やめればいい。単純明快な結論だ。分かっていながら加賀先輩の手のひらで踊らされる必要はない。
俺はいつの間にか凝り固まった首を鳴らす。目の前を如何にも青春を謳歌しているご様子の男女が通り過ぎて行った。
俺を突き動かすのはなけなしの正義感だろうか。客観的に考えても主観的に考えても自分ですら分からないのだからこの世の誰一人として知らないわけだ。困りものである。そして、なけなし、という部分だけ自信を持って言えるのは、それはそれで悲しい。
でもまあ、加賀先輩を憎む気にも慣れない。それはきっと、加賀先輩が稚気でどことなく危うそうなのに意外にも聡明で全くの不安定さを感じさせないからだろう。
俺は緑の塗装が剥げかけたコンクリートの上に呼気を短く落とす。
……推測ぐらいは立てるか。
どうせ、そのつもりでここまで来たのだ。
瞼の裏の暗闇に鮮明な目の前の景色を描写させる。所々錆びかけた灰色の下駄箱。人通りはない。ただ陽の光だけが水中で、木漏れ日に揺れる穏やかなカーテンのように揺らめく。
下駄箱からゆっくりと泳ぎ出て来たのは、優しく暖かな光を宿した金魚。その一匹が出てきたかと思うと、さらに同様の登場法で徐々に増えていく。ゆったりと流れていくもの、ガラス越しにつつかれて驚いたかのように俊敏な動きを見せ再度緩慢な泳ぎに帰すもの。それぞれが違う。
それらをぼんやりながら眺めてみる。思考の隘路に嵌り行き詰まり、金魚が動きを止め時間を遡行する。また初めから泳ぎ直し。どれも鮮やかだが確かに違う朱の金魚を一匹ずつ丁寧に見守り、その行きつく場所を想像し、推測する。
どれか一匹が正しく、後の数匹はすべて、可能性だけの模造された妄想。経験してないはずの追憶の中をただ何度も揺蕩う。
数分の果て、疑問は残った。それでも依頼の完遂は不可能じゃない。水が窓から溢れ出し、各下駄箱には水が逆流し金魚たちを飲み込んでいく。
俺は思考を止めた。壁から背を離し干上がったコンクリートの上に自立する。額から垂れるのは水ではなく、峻厳な夏の気温による汗。
まずは図書室だ。そこに行かなければベーシストの名前すら分からない。
図書館に駆け込んだ俺はまず、かき氷を食べていた司書の先生に彼女の名前を聞いた。それから適当な理由をつけて職員室で校内放送の許可を貰い、校内中に名前を呼びかける。図書室まで来てください、と。
図書室まで戻って来た時、未だ彼女らしき人はいなかった。千野先輩の演奏が始まるまであと十五分程度。もしかしたら来ないかもしれない。それに、俺の拙い交渉に二つ返事で答えてくれたとして間に合わない可能性の方が大きい。なんせ、何の打ち合わせもギターリストとしていないのだから。
スライドドアが開く。
入口で掛け時計を睨んでいた俺が振り向くと、落ち着いた様子の松山小春先輩は俺を見て不思議そうに首を傾げた。黒い髪が肩に届きそこに少しの空間を作る。
「呼び出したのは君……なのかなぁ。男の人の声だったけど」
「すみません。学祭中に」
「それは良いんだけど、私たち初対面だよね」
「あ、はい、そうですけど」
「なら自己紹介からだね。私は三年の松山小春。あ、知ってるのか。さっき呼び出されたんだし」
マイペースで温室で育ちました感のある松山先輩とは違う時に会いたかった。今はとにかく時間がない。
「一年の薬袋葵です。お願いがあるんです」
もう一度小首を傾げる。
松山先輩は千野先輩が言っていた、ずっと前から一緒にバンドをすることを約束していた友人、つまりベーシストだ。
千野先輩が写真部に来た時に持ってきたホワイトチョコレート。彼女は友人と食べるはずだったと言っていた。加賀先輩は食べていたが、正直俺は何度も食べたいとは思わなかったし実際にそんなに食べなかった。あれは高尚な味なんかじゃない。
原因はファットブルーム。
夏のこの気温の中、高校に持ってきたチョコレートが溶けてしまうのは必然で、それが冷え固まったということはチョコレートの晒されている気温が下がったということ。この学校にクーラーが完備されているのは職員室とこの図書室のみ。職員室はないとして、千野先輩は図書館にチョコレートを持って行って松山先輩と話をした。そして出場を断られた。図書委員の松山先輩ではなく、単に図書室でどこかの誰かさんと出場について交渉したという可能性も考えられるが、クーラーが付いているとはいえここは一号館からは離れた二号館の四階。果ても果て。わざわざここまで誰かを連れてきて、出場の是非を確認させるとは考えにくい。それならば、予め相手が図書室にいると考える方が自然だ。さっき司書の先生に確認を取ったが松山先輩はその時はカウンターの当番だった。
千野先輩が写真部まで来たのは微妙な時間だった。授業が終わって来るには遅すぎるし部活があるのならば早すぎる。千野先輩が松山先輩に出場を断られたその日の帰り際に依頼をしに来るのも不自然とは思ったが、あの時は学園祭までそれほど時間がなかった。早くベースを探さないとと焦燥感に駆られたんだろう。つまりそこで断られるまで千野先輩は松山先輩が一緒に出てくれると思っていた。いや、思っていたというよりその日に最後の望みを掛けていたと言う方が適切かもしれない。これは根拠のない妄想だが、千野先輩はその日より前から一緒に出場するのを断られていた。そのため、嘆願するのはその日で最後と決め、機嫌取りの貢ぎ物といった感じでチョコレートを持って行った。そして、チョコレートは交渉の最中食べられないままの願い虚しく断られた。もしかすると、断られた時は写真部に依頼すると前もって決断していたのかもしれない。
ファットブルームという発想まで俺を導こうとした遠回しすぎる加賀先輩のヒントは、あの時俺に勧めた日光下のチョコレートドーナツがおそらくそうだったんだと思う。いや、そう思いたい。ヒントでなかったらただの嫌がらせだ。
「これから始まる演奏に千野先輩と出て欲しいんです」
松山先輩は納得したようにうんうん頷いた。でも、返ってきた言葉は肯定でも否定でもなく、質問だった。
「薬袋くんは、もしかして写真部の人だったりするのかな。そうでなくても加賀ちゃんと関係があるとか」
「はい……写真部です」
確信を持っているかのように訊くので、やや怪訝に思ったが考えてみれば別にそこまで驚くようなことじゃない。松山先輩は千野先輩が写真部に依頼をしたということを知っているというだけだろう。
「それで、出てくれませんか」
この話に何の関係ない俺が代理人として是非を急かす。とにかく雑談している暇はない。
「ごめんね。私は出ないよ」
一筋縄ではいかないと分かっていた。そして俺は一筋縄以上の策略を用意しているわけじゃない。
ただひとつ、事実を知っているだけだ。
「なら、どうして毎日のようにここでベースの練習をしていたんですか」
松山先輩は少し目を瞠って唇を歪ませた。そして「内緒って言ったのに、加賀ちゃん」と小声でため息交じりの悪態をつく。
先輩は俺が加賀先輩から直接そのことを聞いたように思っているようだが、もちろんそんなことはない。まあ、端緒を掴ませたのは加賀先輩なんだけども。
チョコレートドーナツのヒントに比べればこちらの方が迂遠じゃなく分かりやすい。加賀先輩の話していた怪談がそのまま松山先輩のことを表しているからだ。千野先輩はその話を自分のことだと言っていたが、あれは勘違いだ。
うろ覚えだけど、たしか加賀先輩は「土砂降りの雨の日、血の滴る音がする」みたいな状況説明をしていた。千野先輩がギターの練習をしていたという予備4室付近でそんな音がすることはない。
そしてその音がするのは、この図書室前の廊下。ここは雨の日には雨漏りすることがある。加賀先輩の言う「血の滴る音」というのは、おそらく校舎内に滴ってくる雨音のことだろう。
「私がちっちゃんとの出場に断った理由は、べつにちっちゃんを困らせようとしてるわけじゃないんだよ。むしろ逆かな、私が出たらちっちゃんを困らせちゃう」
「でも、千野先輩は松山先輩に出てもらいたかったはずです」
松山先輩がはちらりと時計を確認する。それがどんな意味を持った確認なのかまでは分からない。
「なら、ちょっとだけ昔話をしようか。もちろん今に繋がるね。……あれ、もしかしてこの話、加賀ちゃんから聞いた?」
「いえ、何も」
「それなら、始まり、始まりー。
私たちのバンドは中学生の時に始まりました、たしか中三の夏に。
軽音部があるわけじゃなかったから、部活ではなかったけど熱意はありました。今思えばあの頃からちっちゃんはギタリストないし音楽系の道を志すような目をしてました。一方、私といえばちっちゃんに誘われて始めただけのぺーぺー。
志望校が同じだった私たち二人は無事合格し、晴れてここの生徒となりました。高校受験のためしばらくバンドをご無沙汰していた私は何となく、バンドも塩時期かなぁ、と漠然と考えておりました。
さあ、ここからが怒涛の巻き返し。
闘志燃え尽きぬままいたちっちゃんは私を再度バンドに勧誘し、再結成。何だかんだで私もその闘志に当てられバンドを続けました。メキメキと音を立てるくらい上達するちっちゃん。カメの如き歩みの私。ちっちゃんは気にしていないようですが、私は気にします。
そんな中、本日この瑠璃祭で、ちっちゃんは公表しようと言うのです。ちっちゃん曰く、瑠璃祭には親を呼んでいるそうな。ちっちゃんは今まで親にはそういう道を志すことを言えないでいました。恥ずかしさと拒絶されるかもしれないという恐怖によって。
しかし、今日は違う。今まで親に隠していたこの趣味、志を伝える日だと、大袈裟に言うとこんな感じのことを言っていました。
そんな重大なステージに私は出れません。私の実力では不釣り合いです。
さてさて、この辺りで、今日は幕引き。代金の方は私に直接お願いします」
他人のことを喋っているような、感情を感じられない平坦な口調。金払うのかよ! というツッコミは今は置いておこう。松山先輩も請求を迫ったりはしてこない。
松山先輩の事情は分かった。できればもう帰りたい。単なる写真部が見知らぬ人に干渉する必要なんてない。この時点で既にオーバーワークだ。
俺はこの依頼に対して、何度目かのため息をついた。これで、最後にしたい。
……まあ、俺が所属している写真部は単なる写真部じゃない。そこまで頻繁に依頼されることはないが、これが通常業務だ。
「その不釣り合いっていうのは、結局松山先輩がただ人の目を気にしているだけのように聞こえます。それほど音楽の道を志す千野先輩が指名したんです。自信を無くす必要なんて無いと思います」
無感情に見えた松山先輩の肩が少し震えた。差し出がましいことを言っていると重々承知している。だから、断られてもまったく構わない。結局は彼女の意思が決めることだ。
「青春なんて今だけよ、若いうちにやりたいことをやっておいた方がいい。自分の青い衝動に嘘を吐いてまで、完成度を優先させるべきじゃない。それに、あなたが思ってるほど、あなたは下手なんかじゃない」
左のドアから出てきた司書の先生は松山先輩に優しく語り掛けた。俺なんかよりも、彼女の練習風景を、その努力を見ていた人だ。
松山先輩は部外者の俺とは比べ物にならないその言葉の重みを噛みしめるように俯いて、晴れやかに顔を上げた。
体育館の中は普段とは全く異なっていた。雰囲気を出すようにと端の方にはちょっとしたバーカウンターのようなものまであり、その一画の壁にはカクテルカラーの瓶が並んでいる。そこのスツールに座り俺はステージを眺める。
テンションの上がり切った観客により熱気は体育館内に充満し結構蒸し暑い。しかし観客はそんなのお構いなしのようで盛大に盛り上がっている。
あと何人目であの二人が登場するのか知らないので見るにはただ待っているしかない。各グループのローテーションは割と早く演奏はすぐに終わり次が始まる。時間短縮という理由よりはおそらく技量的な問題が関係しているんだろう。この演奏ステージにはどんなに初心者でも生徒会に申請すればほぼ確実に上がれる。
時々ステージを確認しながらカウンターへ突っ伏す。何というか、こういう学園祭の熱気というのは如何にも青春らしい。……何で俺は他人事みたいに青春を俯瞰しているんだろうか。このままでは俺もあの司書と同じになってしまう。まだあの年齢にはなりたくない。
「盛り上がってるかー!」
聞き覚えのある声に、やっと俺は床を蹴って身体をステージへ向ける。
千野先輩と松山先輩は特別何か着飾っているわけではなく夏服のポロシャツで、逆にそれがサンドバーストのギターとシックなブラックのベースを際立たせている。
この舞台に立つ前に、あの二人がどんな会話を交えたのかは分からない。でも、一悶着あったはずだ。その内容がどんなものかは二人以外に神のみぞ知る話。でもまあ、ステージの二人の様子を見る限り和解に落ち着いたようだ。
二人が一瞬だけ互いに見つめ合い、楽器が音を奏で始める。千野先輩のギターストロークが会場をさらに沸かす。青春を謳歌する二人に憧れたりなんてしないが、今この瞬間、あの二人は間違いなく誰よりも輝いていた。
♜
「驚きましたよ」
「そうでしょ、私もギター弾けるんだよ」
学園祭は無事に終わった。校内にしばらく漂った達成感も窓からの薫風に流され、いつも通りの放課後を再び迎える。
「それもですけど。それより、藤井先輩がステージに上がっていることに驚きました。というか騙しましたね、加賀先輩」
「そうかもしれないけど仕方なかったんだよ、呼んでおいて、出番はありません、だとかわいそうでしょ。それに、もとはと言えば葵くんの栽培し始めた種だよ。『いざとなったら片っ端から探す』って言ったような気がするけどなぁ」
たしかにそんなこと言っていたような気がする。でも、そんな他愛もない会話に埋もれた部分をいちいち覚えてられるわけがない。加賀先輩から言わせれば今回の俺の働きは徒労が多く効率的じゃなかったというわけだ。俺が独断で奔走してくれたおかげで、本来目的としていた松山先輩を引き戻すという計画が崩れてしまった。だから軌道修正のため俺が呼び出した藤井先輩を休みということにして、俺に再度解決させ直した。
「でも、ごめんね。葵くん」
謝罪の言葉を、意外に思ってというより訝しんで本から顔を上げる。先輩はゲームのコントローラを置いて肩越しで申し訳なさそうに笑った。
「悪かったとは思ってるんだよ。実際、今回のヒントは所々分かりにくかったかもしれない。それなのにめげずに完遂してくれた。葵くん、本当にありがとう」
やけに素直な先輩に気圧されて俺は窓の外へ視線を泳がせる。いつもとは違う空気に戸惑って、咄嗟に俺は推理する中で不明瞭だった部分を尋ねてみる。
「先輩はまさか未来が見えてますか」
打って変わって可笑しそうに笑った先輩が肩を揺らす。ゲームを再開して、画面内ではピンクの服にショルダーバックを提げた女の子が空中で手をかざし時間が巻き戻っていく。
「おもしろいこと言うようになったね。私も見たいけどそんなことは出来ない、今のところね。そうだなぁ、葵くんがそう訊いてきたってことは、私が千野ちゃんの依頼が来る前に、夏の怪談話をしたのを不思議に思ってるんだね。なんか珍しい気がするよ、こうして完遂された依頼に葵くんが興味を持って訊いてくるなんて」先輩は茶化すように笑う。「簡単だよ。最初から私は千野ちゃんの依頼なんて受けてない。だから葵くんに千野ちゃんの依頼のヒントなんか出したつもりもない。私が仄めかしたかったのは小春ちゃんの依頼。でもこれから話そうって時に千野ちゃんが入ってきてね。まあ、依頼内容は同じだったわけだけど」
頭の中で線が繋がっていく。俺の知らないところで依頼が二重になっていたから、あたかも先輩が聡明さを通り越して未来予知でもしているかのように見えただけだ。
「小春ちゃんにはホント手を焼いたよ。小春ちゃんの最初の依頼は自分の代理役探しじゃなくてベースの指導だった。学園祭前には十分に実力を付けてあげられたのに自分じゃ納得できなかったみたいで、結局最終手段でその代理人探しを依頼をされたんだよ」
納得しかけて腑に落ちない部分が思考に引っかかる。
素人目だが松山先輩の演奏は決して千野先輩に劣っているようには思えなかった。ステージの上でも悠々としていた。松山先輩は何を考えて辞退したのか。俺はまだ明るいままの青空を眺めて、自分の無意味な考え事をそこへ流す様子を空想する。散々考えた依頼のことを頼まれてもないのにこれ以上考える気はない。
「何か考えてるのかな、葵くん。依頼のことでまだ何か疑問?」
「べつに考えてません」
加賀先輩は珍しくコントローラーを置くとそのままゲームの電源をオフにして、俺の横の机に飛び乗って座った。先輩の勢いに片側の机の脚が持ち上がり何事もなかったかのように無事着地する。
「分からないよ、依頼人の感情までは。依頼しに来るってことは何か悩んでいる人、その人たちの中には、すべての情報を私たちに与えて解決してもらおうとしてるわけじゃない人もいる。多少なりと恣意的に状況を伝えて私たちに完遂してもらおうとね。
小春ちゃんはどうしてなんだろうね。あんなに練習もして上手に出来てたのに。単に完璧主義なだけかもしれないけど、私の推測としては、小春ちゃんは千野ちゃんについていけなくなくなったんだと思うよ。演奏の実力的な意味じゃなくて、夢にね。小春ちゃんはあの舞台で最後にしようとしていた。だから上手なのに前もって練習もした。だけど本番が近づいてくると怖くなった。本当に自分が解散を切り出せるかどうか。――なんて、こんな感じ。言語化してみると推測って言うより私の勝手な妄想かもね」
ぶら下げた足を振りながら加賀先輩はそのまま机の上で寝転ぶ。
「私たちは相談を受ける。それは初対面の人でも良く知った人でもね。私たちは相談を聞くことによってそんな依頼人たちの心に普通の人より一歩踏み入れることになる。それは心に扉にちょこっと触れるだけで済む行為かもしれないし、ノックすることになるかもしれない。もしくは抉じ開けたりね。だから過度な詮索は禁物だよ。それは依頼には含まれてないからね」
「大袈裟すぎませんか」
先輩は上体を起こして机から降りると、俺の言葉は無視して耳元へ顔を近づけた。
「もっとも私は、ずっと葵くんの心の扉をノックしてるけどね」
微かな息づかいですら聞こえる距離。耳をくすぐる吐息に心臓が少し冷静さを失う。言いかけた言葉が喉に詰まって下っていった。
「あっ、そうだそうだ」
素早い動作で俺から飛び退いた先輩は床に置いてあったドクぺのひとつを拾上げて持ってきた。特に訊く気もなかったので尋ねないままでいたが、俺が今日ドクぺを買って部室に来た時には既にドクぺが二本置いてあった。三本あった内の一本は既に加賀先輩によって飲み乾されている。
「これ葵くんのドクぺ。葵くんが部室に来る前、芽衣ちゃんが来てね、『ありがとうございました』って言ってたよ。私には何のことか分からないけど、葵くんの知られざる暗躍に便乗ってわけで貰っちゃった」
そういえば学祭中和久に協力していた。その後のことが忙し過ぎてすっかり忘れていた。この妙に独特な味の飲み物が好物なのは加賀先輩であって、俺はそうでもないが貰って悪い気はしない。
差し出されたドクぺの底を掴んで受け取る。ふとその手のひらに違和感を感じた。心なしか加賀先輩の目が自分の慧眼さを誇るように輝く。
底を覗くと二つ折りの付箋紙が貼り付けられている。開く前に先輩の姿を一応確認すると既に先輩はゲームの電源をオンにしてテレビに向かっていた。
付箋紙には短く、[ああは言ったけど、連れ出しといて置いていかないで。無責任!!]とだけ。
まずい。
そのこともすっかり忘れていた。今度和久に会ったらドクぺの礼も兼ねて、猛省してますアピールをしなくては。たぶん、なかなか許してくれない。
瑠璃祭は無事終わったがそこで起こったことはまだ尾を引く。俺は和久に陳謝しなければならないし、千野先輩の夢はまだまだ始まりに過ぎない。
人間関係に夢だのと、青春は面倒なことの連続のように思えてくる。俺の所謂、青春時代というやつもまだあと数年は続きそうだ。バラ色であれとは要求しないからせめて満身創痍だけはなりたくない。
なんてことを耽りながら、俺はただゆっくりと初夏の放課後を写真部の部室で過ごす。
読んでくださりありがとうございます。
久しぶりです。久しぶりに小説を投稿してみました。知らないうちに小説家になろうさんの仕様が少し変わっていたんですね。結構驚きました。
最近は暑くて困ります。クーラーが神様に見えてきそうです。
さて、この小説は二年位前に書いた小説の手直しを加えたバージョンです。とは言っても、二年前のこの小説を手直ししようと思ったら想像以上に直すところが多く、結局学園祭での話ということは変わりませんが他のことはほぼ全て変わってしまいました。
話の中には和久という人物が出てきますが、彼女はこの話の前の話に出てきた人です。分かりにくくてすみません。この話は短編で投稿していながら実は続いているのです。
この話の中には何作かゲームが出てきますが一応何のゲームか決めているので紹介しておきます。
最初に加賀先輩と二人でプレイしていたのは「TRINE2 Complete Story」という幻想的で美しい世界観のゲームです。
最後に加賀先輩がプレイしているゲームは「Life Is Strange」というゲームで自分の選択にとても考えさせられるゲームです。
久しぶりに後書きを書くと上手く書けないもので、何を書いていいのか不安になっております。それにこれを書いているのが深夜二時半なので頭がうまく回りません。どうかお許しを。
誤字脱字がもしかしたらあるかもしれません。彼らは見直しても書くたびに増殖するのです。それらがありましたらご指摘ください。そして感想を頂けるのであれば、とても嬉しいです。
若干後書きが長くなりましたが、伝えたいのは最後の一文です。それでは($・・)/~~~