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雑記メモ群  作者: Richard Roe
「眠り姫」
4/5

「眠り姫」

 眠り姫



 0.

 弱いから優しくしようと思ったわけではない。そんな弱みに付け込むような優しさを俺はよしとはしない。

 怒ってもいいのに怒らないその在り方に、俺は考え直させられてしまったのであった。




 1.

 学科の『眠り姫』玉野なのかの生態は、うちの学生にはもはや周知のことであった。

 いつもゴスロリの格好をして学校にやってくる。講義では決まって最前列に座り、そのまま携帯を取り出してはTwitterに勤しみ、そして寝る。

 どういう授業であれ眠る彼女の図太さ、そして自分を物語のお姫様だか何だかと勘違いしているかのような服装、その言動からついたあだ名が『眠り姫』。

 もちろん、褒め言葉でも何でもない。

 ちょっと会話をしてみると、妙に甘ったるい声で、頭の悪そうなことしか返さないのも拍車をかけていた。脳味噌が眠っているんじゃないか、童話の姫のような頭の中のお花畑ぶりだ、そんな揶揄するような意見にはいとまがない。


「あいつ、でも彼氏がいるらしいぜ」


 同級生の誰かがTwitterを見ながら「ほら」と教えてくれた。見ればタイムラインの画面で、『今日はクッキーを焼きました(^^)! 今度あー君につくってあげようかな?』なんてくだらない発言が中央に踊っている。いいね、の数が一七個も押されてあり、どうやら随分人気のようであった。

「俺もいいね押しといたけどな。面白いし」と同級生は半笑いでタイムラインを遡っている。


「面白い?」


「だってあいつの彼氏エア彼氏だし」


 まじかよ、と思いながらタイムラインを一緒に覗き込む。そこには無数の『あー君』の文字。「あいつ、脳内じゃ彼氏とあべのQ'sモールでデートしたって設定らしいけど、ボウリング行ったとか言ってるし、面白すぎだろ」と彼はその一連のツイートも見せてくれた。


「まあ、あべQ行っといてボウリングって何だよって話だけどな」


「それな。ランワンとかいつでも行けるっつーのに。ホント面白いわこいつ」


「で、一七もいいねがついてるって訳か」


「うちの学科の連中がこぞって煽ってるからな。でもあいつ煽られてるって気付いてないぜ」


 けらけらと笑う同級生は、「まーでも煽ってあげないと可哀想だしな、じゃないとあいつ真っ先にはぶにされるじゃん」とか何とか言っていた。


「今でもはぶにしているようなもんだろ? この前の学科の飲み誘ったか?」


「誘った誘った! でもかれぴっぴが駄目だって言うから参加できないー、つって参加しなかったぜあいつ。徹底してるよなー」


「あ、何だ。はぶにはしてないのか」


「でもあいつ学科の女子には嫌われてるって感じだし、微妙かもなー。偶にはぶっとかなきゃやばい時もあるし。この前、森下ゼミのメンバーと一緒に晩御飯食べに行くときは流石にはぶった」


「あー、あいつゼミのメンバーに嫌われてるしなー、いつも寝るし」


「いや、そうじゃなくて他大学の奴も一緒にくる感じの晩飯会だったからだぜ。だってあれ、他大学との交流はまずいっしょ」


 腰に手を当てながら「いやー、だって絶対向こうの大学に『やばい奴がおった』って噂になるだろー、あれインパクト半端ないしー」とけらけら笑う姿に、俺は少しばかり考えてしまった。


「てか普通に森下教授や他大学の教授も来てたから、体面上まずいことは……なあ、どうした? 考え込んじゃって」


「ん? ああ、何でも」


 考えてしまったのは、はぶの話だ。俺達は無意識のうちに彼女のちょっとした可能性を奪ってしまっているんじゃないだろか、なんてことをふと考えてしまったのだ。

 もしかしたら、他大学の人たちと交流したかったかもしれない。もしかしたら、森下ゼミのメンバーと和解できたかもしれない。そんなことをちょっとだけ考えたとき、もし俺が彼女と同じ立場だったら『俺だって他の大学の似たようなテーマを研究している人たちと会話してみたかったし』みたいに怒っていたかもしれない。気がする。

 どうでも良いことだ。

 次の講義の時間が始まって「やべ」と携帯を隠す同級生をよそに、俺はそんなどうでも良いことを反芻しては、どうでもいいことだと深く考えることを放棄していた。




 2.

 森下ゼミは、先程の同級生と『眠り姫』と数人とで構成されている。全員まあまあ勤勉らしく、大学院に進学する奴や就活を意識している奴は英語を勉強したりして真面目に過ごしている。

 そこに『眠り姫』が眠りに来るわけだ。

 研究室で堂々寝るなんて、面白い奴だと思う。もはや来る意味がないじゃないか。

 そんな風に思わなくもないが、俺は別段『眠り姫』のその行動を咎めようとは思わない。だって関係ないし。それに面白いし。


「あの」


 そんなことを考えていたからだろうか。男子トイレで用を足していると、背後から聞こえてきた声に思わずぎょっとしてしまった。

 女の声。

 しかも、聞き覚えのある甘ったるさ。

 振り返ると、珍しく焦った表情の彼女がそこに立っていた。


「今、何時ですか?」


「は?」


 トイレしてる男に聞くか普通。

 学科の『眠り姫』、玉野なのかとの出会いは、きっとこんな感じだったと思う。




 3.

「良かった、ボク困っていたんです。携帯の充電切れちゃってて」


「そうなんですか?」


「ボクよく寝ちゃうんで、時間が分からないと怖いんです」


 何故か食堂で相席をすることになってしまった。というかボクってお前男なのかよ。色々と突っ込みたいことはいくつかあったが、取りあえず普通に食堂のカレーを頂くことにする。


「あ、説明してませんでした。ボク本当は男なんです。でも人間社会では女の子として生きてかなきゃだめなんでこうなってるんです」


「そうなんですか」


 これ、深く関わったら駄目なやつだ。


「だって、ほら、予定帳にペニスの絵を描いている女の子なんていないでしょう?」


「あーなるほど」


 男でもそんな奴はいない。


「だからああやって男の人のトイレを使わなきゃ駄目なんです。ごめんなさい、驚きましたか?」


「あー、事情は分かったよ」


「これは口止め料代わりです」


 口止め料が食堂のご飯一食分とは、随分安く見られたものであった。

 駄目だこいつ面白すぎる。思わず「ふ」と笑いが漏れてしまった俺を、向こうは怪訝な表情で窺っていた。


「カレーは嫌いですか?」


「いや、そういうわけじゃないけど」


 取りあえず笑いを誤魔化すため「携帯の充電器あるけど使う?」と話を逸らしておいた。向こうは普通に感謝してくれた。「これ、人間社会の必需品だから」とからかい気味に揶揄すると「そうなんですね」と適当に相槌を打たれて流されてしまった。こいつの癖に、と若干腹が立つ気がしなくもない。


「ごちそうさま」


「あ、ボクもごちそうさまです」


「? まだ残ってるけどいいのか」


「お腹一杯なんで。あ、食べますか?」


「いやいい」


 食べますかって何だよと思いつつ、俺と彼女はそのまま食堂の食器を返却し、そしてそのまま次の授業へと分かれた。




 4.

 翌日『眠り姫』のTwitterを覗いて、俺は頭が痛くなった。

 あー君と食堂でカレーを食べた。充電器も貸してもらった。そんな旨の発言が為されている。

 どう考えても昨日の俺のことでしかない。


「見たぜ、お前昨日『眠り姫』と一緒に飯を食べてただろ? あれ学科で地味に話題になってたぜ」


「やめろよマジで」


「あー君ってお前だったんだな。いやー、お前凄い趣味してるよな」


「俺別にあべQ行ってボウリングしたくなる人間じゃねーし、てか俺の名前にあー君要素ねえから」


 溜息。

 真面目な話、少しだけ『眠り姫』と付き合う自分を想像したことはある。あいつ、あの奇抜な行動がどぎついのは確かなのだが、見た目はあのなりなのだ。だから別に付き合ってもいいんじゃないだろうか、なんて安直極まりない想像だ。

 そしてすぐに無理だと思った。何せ、あの痛々しいことこの上ない言動だ。男子トイレにいるってどういうことだ。人間社会ってなんだ。予定帳にペニスの絵を書くなんて正気を疑う。増して、存在もしない彼氏を実在するかのようにTwitterに書き連ねる振る舞いだ。あれはもう、付き合ってられない。


「あいつと付き合うって、正気じゃないぜ」


「だよなー」


「……」


「ん、どうした?」


 正気じゃない。自分で言っておいて、ふと一瞬躊躇いが生じてしまった。もしあれが正気の行動なのだとしたら。

『人に言えないようなことを男子トイレでしていて』『予定帳にあった例のイラストはその人に言えないようなことで』『口止め料が食堂の料理なのはお金がないからで』『彼氏がいるような振る舞いは何かをごまかすため』なのだとしたら。


「……どうでもいいことだな」


「お? 何だよ教えろよ」


「まあ、『眠り姫』可愛いよな」


「お前、何言ってるの?」


 多分、本当のことでも嘘のことでも、俺は教えることはないだろう。

 あまりにもきつい冗談だ。本当のことであれ嘘であれ、言ってはならないことだってある。

 だから俺は、結局そのことについては、誰にも他言しないことにした。




 5.

『眠り姫』の振る舞いには、全て理由があるような気がしてきた。それは所詮ただの訝りでしかなかったが、暇な講義の暇つぶしにはなっていた。

 例えば、自動車免許を持っていない理由。お金がかかるから。眼鏡を持っていないから。運転中も眠くなってしまうから。

 講義を最前席で受けているのも、目が悪いのに眼鏡を持っていないからなのかもしれない。

 よくTwitterで呟いているのは、自分の行動をメモしておくためなのかもしれない。

 友達がいなくて人の名前を覚える機会がないから、いつも他人のことを『あー君』とでも名付けているのかもしれない。

 幾つもの仮説が思い浮かんでは、だからどうしたと消えていく。


「いや、やっぱ大学生活に出会いがなさ過ぎて、その反動で絶対惚れてるわ俺。『眠り姫』ワンチャンあるかなー、みたいな」


 先程の自分の発言。

 思い返すと、結構な問題発言をしてしまった気がしなくもなかった。

『眠り姫』と一緒にご飯を食べた人間が『眠り姫』に惚れているだなんて発言するなんて、本当に迂闊なことをした。

 こうやって普通に食堂で昼ご飯を食べているだけなのに、ちらちらと視線を感じる気がする。多分俺への視線というよりは、今日は『眠り姫』は来ないのかと期待するような視線なのだとは思うが、それにしても居心地が悪い。


「あの」


 声をかけられた。顔を上げると、例の『眠り姫』がそこにいた。

 彼女の様子は、全く普段とは異なっていた。

 少しだけ顔を赤らめさせて、当惑しているかのような表情を浮かべている。噂でも聞いたのだろうか。俺が『眠り姫』に惚れているかもしれないという、あの性質の悪い噂を。

 俺はふと、周囲の視線が煩わしく思った。

 きっとこの視線に晒されていては、喋りたくても喋れないことが出てくるだろう。


「どこか行こうぜ」


「え、でも」


「ちょっとここじゃ落ち着かない」


 若干強引に、俺はそのまま彼女を連れて食堂を抜け出した。別に周囲に何を噂されようとも、俺は気にしないつもりだった。多分その方が『眠り姫』にとってもいいに違いない。




 6.

 講義のない空き教室に適当に座る。こういう時に講義室でどう座ればいいのかお互いに分からなかったが、俺は取りあえず適当に一つの席に腰掛け、『眠り姫』が丁度隣に座ってようやく落ち着いた。

 彼女は「どうしてここに連れてきたんですか」と全く状況を掴めていない様子であった。実のところ、俺もどうしてここに連れてきたのかは分からなかった。


「あの噂、嘘だから気にしなくていいよ」


「え?」


「知らないならいい」


 知らないのか、ならいいか、と安堵しながらも、もし彼女がそれを耳にしていればと思う自分がいる。耳にしていれば、きっと彼女は面白い反応をしただろう。だなんてどうでもいいことことを考える。

 そう、どうでもいいことなのだ。


「玉野ってさ、皆に色々噂されているよな」


 噂。それは断じていい噂ではない。むしろそのどれもが彼女を貶めるような噂で、この大学という狭い世間には格好の話題のネタとして何度も繰り返し語られるものだ。

 森下ゼミの人間とは上手くいっていない。授業ではいつも寝る。学科の皆にはぶられている。格好がゴスロリ。

 それらの噂の殆どは、まったく実のない話だった。有り体に言うと、暇つぶし程度のゴシップなのだ。だからどうした、という一言で一蹴できてしまうような、そんなことだ。

「……。噂、されていますけど」と彼女は俯いていた。

 なるほど、自覚はあるらしい。


「でもゴスロリの格好は続けるんだ? あれお気に入りなの?」


「……嫌ですか?」


「ああいや、そういうつもりで聞いたんじゃなくて、好奇心っていうか」


 俺は考える。

 周囲の人間と一緒になって『眠り姫』を小馬鹿にすることに意味はあるのか。多分あるのだろう、学科の友達と無難に仲良く過ごすことができるのだ。

 だが、自分の中でどうでもいい感情がそれをよしとしなかった。

 良心なのかもしれない。他人を貶めるような行為を快しとしない気持ちだ。

 或いは、同情なのかもしれない。自分が同じ境遇なら怒っているだろうと共感する気持ちだ。

 もしくは、情けなさなのかもしれない。大学生にもなって、中学高校と同じようないじめをする子供らしさに辟易している気持ちだ。

 そのどれもが当てはまりそうな、そんな胸の晴れない気持ちで、今俺は彼女と対峙している。


「周りの奴らさ、お前のこと『あのゴスロリの奴』みたいに噂してるよ」


「……」


「普通に目を引くからなー、その格好。周りに凄い注目されてるって感じ」


 眠り姫は、俺個人の感情で言うと、いい人間のように思われた。

 彼女から人を小馬鹿にするような発言を聞いたことはない。彼女はただ、口止め料にカレーを奢ってくれただけの、ちょっと面白い人間だ。それが俺にとっては大事なことに思われた。

 人を馬鹿にする行為を、俺は好まない。

 彼女にはそれがない。ならば、馬鹿にするのは間違っている気がするのだ。


「……。普通の服が、いいですか?」


「別にゴスロリの服でもいいと思うよ。でも年中タンクトップとか年中ジャージとかだったら皆も噂にするじゃん? あれだよあれ、そういうこと」


 何を口走っているのか、自分でも収拾が付かなくなってきた。結局自分は、彼女を否定したいのか肯定したいのか。

「お前って面白いよな」とようやく答えのようなものを見つけて、俺は言葉を切った。

 面白い、と思ったのだ。

 変な人間だけど、周りに迷惑をかけていないから、いいのかなと思っただけなのだ。


「……。彼氏のあー君、お前のことなんて言ってるんだ?」


「え?」


「あー君。ほら、彼氏」


「ああ、えっと」


 虚を衝かれて少し慌てた様子を見せる彼女に、俺は少しだけ悪戯心が湧いた。あー君。実在するのだとすればきっとそいつは、見る目がある奴だと思う。

 この子は見てくれが単純に可愛いし、他人に害は与えていない。ちょっとだけお友達感覚で恋人を始めるにはいい『物件』なのかもしれない。

 ストーカーやメンヘラに育ちさえしなければ、きっと御しやすい都合のいい女なのだ。

 なんて彼女は。

 可哀想だと。


「なあ、玉野。お前、怒ってもいいぞ」


「? 何をですか?」


「さあな」


 彼女は怒っていい、それは俺が保障する。他人を馬鹿にしたことがない彼女には、多分少しぐらい怒る権利があるはずだ。

 そのほんの一部だけ、俺が代わりに胸糞悪い気持ちになっているだけでしかない。




 7.

 Twitterを見た。

 期待しちゃって馬鹿みたい、なんて発言が書かれていた。

 俺はその瞬間悟った。

 何だ、あの噂、聞いてたのかよ、と思った。




 8.

 同級生に「よう、あー君」とからかわれることしばらく。

 俺は「あーあ、俺があー君だったら良かったのに」と冗談とも本気ともつかないような悪ふざけをして、「お前まじかよ」と同級生を苦笑いさせていた。

 多分本音だ。もし俺があー君だったら、全然一緒にあべのQ'sモールまで行っておいてボウリングしたっていいと思う。きっとそれも楽しそうだ。


「あいつ、出会う男を片っ端からあー君にしてる節があるからな」


「え、マジで?」


「……今のなし」


 自分が何を口走っているのかが客観的に耳に聞こえてきて、急にはっとしてしまった。背筋が寒くなった。何を言っているんだろうかと、自分の失言に心臓が跳ねた。

 もしかして、聞かれたのでは。

 嫌な予感がして、俺は周囲を見回した。

 ゴスロリの女は、いつものように講義室の最前列に座っていた。周りには誰も座っていなくて、彼女一人がそこにいた。

 ただ、彼女の顔は、俺の方を向いていた。そこに表情はなかった。




 9.

 その日の『眠り姫』は、本当によく眠っていた。講義中ずっと顔を上げることはなかった。

 俺は、お得意の下らない妄想を働かせていた。

 もし彼女が顔を上げない理由が、泣いているからなのだとしたら。だとすれば俺は、何と声をかければいいのか。

 考えたところで答えは出なかった。

 そもそも、俺は何で好きでも何でもない女のためにこんなに悩んでいるのだろうか。そう思うと、今の自分が急に馬鹿馬鹿しく思われた。


「……」


 講義が終わって、俺は彼女に声をかけるため近寄ろうとした。

 しかし、凄い力で足が地面に押さえつけられているかのように、俺は全く一歩を踏み出せなかった。

 かつてない緊張を俺は覚えていた。

 自分が今どういう状況にあるのかが、自分でもよく分かっていない。


「なあ」


 声が上擦ってかすれた。そういえば自分から彼女に声をかけたのは初めてのことかもしれない。

 こんなに緊張するだなんて、と俺は思い知らされてしまっていた。

 人付き合いが苦手な人間ならば、尚更声をかけるのに勇気がいるだろうに、と思う。それはきっと顔が赤くなるぐらいに。


「なあ、玉野」


 ようやく一歩近付いて、俺の心臓は痛いほど早鐘打っていた。

 好きでもない女のために心臓が高鳴るなんて、と俺はますます自分の気持ちが分からなくなっていた。


「あれ、嘘だから。酷いこと言ってごめんな」


 やっと言葉にできた時、俺は彼女が起き上がるのを確認した。

 彼女の目は、少しだけ赤くなっていた。


「……。何がですか?」


 彼女は、何でもないことのように振る舞っていた。それはあまりにも自然な振る舞いで、彼女の目が赤くさえなければきっと俺はそのまま誤魔化されてしまっていたかもしれないほどだった。

 何だよ、『眠り姫』って頭が悪そうな甘ったるい声の女じゃないのかよ。

 目の前の光景に俺は、まるで頭を殴られたかのような衝撃を受けていた。


「男をとっかえひっかえしてるとか、酷い嘘をついてごめん」


「……」


「本当にごめんな」


 ひたすら頭を下げて謝罪する。

 誠心誠意を込めて謝らなければ、きっと意味はない。彼女は童話のお姫様ではないし、頭の中がメルヘンな女でもない。普通に感謝して普通に泣く女なのだ。


「……。大丈夫です。ボクも冗談は冗談だってわかりますから」


『眠り姫』は、もう一度顔を伏せながら、そんなことを言った。それはまるで、どんな顔なのか見せたくないという様子であった。


「冗談は、冗談だって分かるんです」


 もう一度強調するように呟かれたその言葉に、逆に俺の方が言葉を失ってしまった。

 冗談は冗談だと分かる。

 その発言の意味していることが、俺には分かったような気がした。

 ――いや、やっぱ大学生活に出会いがなさ過ぎて、その反動で絶対惚れてるわ俺。『眠り姫』ワンチャンあるかなー、みたいな。

 あの冗談みたいな発言が、俺の脳裏に蘇った。


「冗談かどうか分かるのか?」


「……何がですか」


「……」


 何でもない。どうだっていいことだ。

 これ以上言葉を尽くすことの方が無粋なように思われた。


「……。お前って、面白いよな」


「それ、聞きました」


「だろうな」


 俺は自分の気持ちを振り返った。『眠り姫』のことを面白い奴だと思っている。『眠り姫』のことをもっと知りたいと思っている。

 でも、『眠り姫』みたいに痛々しい女と付き合うのは正気の沙汰じゃないと思っている。

 俺は、結局何がしたいのか分からない。

 分からないまま俺は、それでも言葉を続けることにした。


「俺の名前、あー君じゃないんだぜ」


「……。知ってます」


「教えてやるから、連絡先を交換しないか?」


「……え」


 俺は、断じてあー君なんかではない。俺はあべのQ'sモールに行ったら、間違いなくラウンドワンには行かない。

 多分もっと普通に色々と歩き回っているだろう。具体的には、ゴスロリ以外の服と、ちょっと高いけど眼鏡なんかを探すぐらいはしてあげているはずだ。

 ただ、お姫様にラウンドワンに行きたいと言われたときはラウンドワンにも行ってあげる度量ぐらいは持ち合わせている。


「冗談かどうかぐらい分かるとか言ってたけど、お前、俺の冗談の引き出しの多さを知らないだろ? きっとこれからたくさん騙されるぜ」


「……何ですか、それ」


「俺、世界一冗談が上手なんだぜ。具体的に言えば、人間社会で一番上手。お前なんかには何が冗談で何が本気か絶対見抜けっこないってレベルにな」


「だから、どうして連絡先を交換するんですか」


「眠れる姫に人間社会のルールを教えるためだな」


 まずはトイレの使い方と予定帳の使い方を教えてやろうと思う。安い腕時計だって買ってやってもいい。

 きっとこいつは、流石にその時ぐらいは怒るだろう。そう、怒っていいのだ。彼女は怒っても大丈夫なのだ。


「あの、ボクのこと、からかってますか」


「冗談かどうか見抜いてくれよ」


 彼女が顔を上げたのは、まさにその時であった。

 俺は、そこでようやく、財布からお札を一枚だけ取り出した。

 何のことか分かってない彼女は、目を丸くして「何ですかこれ」と固まっていた。


「教えてやるよ。人間社会ではな、これを口止め料って言うんだ」


「……」


「カレーは嫌いか? 一緒に食べようぜ」


「……」


 そのまましばらく、お互いに沈黙したままであった。

 その間、俺は若干後悔していた。間違えて五千円を取り出したせいで、きっとこいつとは八回近くカレーを食べる羽目になりそうであった。出費としても地味に痛い。

 そんな俺の表情に気付いたのか、彼女が「ふ」と少しだけ笑っていた。


「変な人ですね」


 こいつ、後でしばく。

 そう口にしそうになって、でも俺はぐっと飲み込んだ。サンキュー樋口一葉。きっと八回もカレーを一緒に食べたら、今の失礼な発言ぐらい水に流せそうな気がする。


「ボクも、連絡先を聞いて良いですか?」


「おう」


 我ながらいい返事ができたと思う。

 俺の携帯に『眠り姫』の連絡先が登録されたのは、こういう経緯があってのことであった。




 10.

『眠り姫』とは、結局友達になった。それぐらいの距離感が一番相応しいように思われたのだ。

 友達とは言ってもTwitter上の友達なので、一風変わった付き合いではあったりする。

 クソリプを俺に送ってきたり、変なタイミングでふぁぼを入れてきたりと、仲の良い関係だと我ながら思ったり。


「まるでボクだけが悪いみたいな言い方ですね。そっちもクソリプばかりじゃないですか」


 向こうも向こうで同じ事を俺に対して思っているようであった。

 許せ。俺はTwitter上ではキチガイキャラで通っているのだ。『眠り姫』とか格好の餌でしかないのだ。


「でも、結局世界一の冗談を聞けた試しがないですね」


『眠り姫』と友達になってみると、案外辛辣なコメントが多いことに気がついた。ゴスロリの格好と一人称ボクとかいうクソ痛いメンヘラ女の癖に、他人を煽る才能だけは一人前に培っているようで、ネット社会の悪い側面から悪影響を受けてたくましく育ったのだろうな、と容易に想像できた。ネット社会の弊害である。つまりはクズ。ν速とかなんjとかの影響受けまくり電波女の誕生である。酷いもんだ。


「いつか言ってやるよ。もう台詞は決まってるし」


「一体いつになるんですか、それ」


「世が世なら今なんだけどなあ。このままじゃ多分墓場まで持っていきそう」


「俺の脳内設定では世界一(笑)ですね」


「お前絶対に許さん」


 こいつ、本当にネットの悪影響しか受けてないなと思う。

 違うのだ。墓場まで持って行って土に還してあげないと、世界のジョーク成分が枯渇してしまう。同じ宇宙船地球号の仲間としては、それは忍びないのだ。

 等と冗談はさておいて。

 多分本当に世界一の冗談は墓場まで持って行きそうであった。

 何せ『眠り姫』とは仲良しの友達なのだから。

 世界一の冗談とはタイミングである。その時『眠り姫』はきっと涙を流すほど笑うに違いない。いや、それぐらい笑ってくれると確信してからでないと切り出せない冗談というべきか何と言うべきか。


「人間社会では女の玉野さん(笑)はクソリプがお上手でいらっしゃる」


「人間社会ネタ本当にやめてください」


 割とガチなトーンで返事された。多分触れてはいけない黒歴史になったのだろう。

 俺は結構このネタ好きなんだが。


「……」


『眠り姫』は他人を馬鹿にしない。

 それだけが取り柄だと言い切ったっていいだろう。もしも彼女が他人を小馬鹿にするようになれば、遠慮なくさよならしてやるつもりでさえある。確かに彼女は綺麗だ。だがそんな綺麗な女は掃き捨てるほど存在する。

 では、こいつほど面白い奴はどうだろうか。

 俺は目の前の『眠り姫』を見た。

 いつもゴスロリの格好、森下ゼミの人間と上手くいってない、講義で最前列の席なのによく眠る、Twitterで架空の彼氏を作り上げてしまう、そんな彼女を見た。

 そして、こんな変な奴と連絡先を交換したことを若干以上に後悔していた。

 だが、こうやって友人関係を続けることを思うと、悪くなかった。小馬鹿にするよりはフェアだと思った。

 たったそれだけの、どうでもいいこと。

 俺はさしずめ欲のない人間なので、無数のあー君に溢れているTwitterで、時々俺の本名が呟かれるぐらいで、十分満足なのであった。


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